15話 『番犬と仮面』
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マルコ視点
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夜更けの大監獄は、息を潜めていた。
見回りの足音も、鍵の触れ合う音も、今は遠い。石壁と鉄格子が冷えきった空気を抱え込み、人気のない独房列には、水を打ったような静けさだけが沈んでいる。
マルコ・ドレイクが押し込められているのは、その中でも奥の一角だった。雑居房の喧騒からは切り離され、下手に他と同じ区画には置いておけない囚人だけを入れておく列だ。看守にとっても、囚人にとっても、ここは人目から遠い。
房にあるのは、板の寝台と薄い毛布、水差し、壁際の桶だけ。
生かしておくための物はある。だが、それ以上は何一つない。寝心地も、居心地も、最初から捨てられていた。
寝台の端に腰を掛けたまま、マルコは目を閉じていなかった。
三十代も半ばを過ぎた身体には、この冷えは素直に堪える。飯は粗く、動ける場所も狭い。ここへ落ちてから肉も少し削げた。だが、芯まで鈍った覚えはない。石床へ足を着ければすぐに立てるし、眠りも浅い。物音ひとつで意識が浮く程度には、神経もまだ死んでいなかった。
目を閉じても眠気は来ない。来たところで、深く沈む気にもなれなかった。そんな癖がついていたら、表でも裏でも、とっくに喉を掻き切られていた。
だから、その違和感にもすぐ気づいた。
足音だった。
マルコはゆっくりと顔を上げる。
格子の向こうではない。看守が来るなら前からだ。この区画で人が来るなら、普通はそちらに決まっている。
だが今の足音は違った。
格子とは反対側。
人が来るはずのない、房の奥の暗がりから響いた。
眉間に浅く皺が寄る。
看守の巡回の音じゃない。少なくとも、この独房で聞くはずの音じゃなかった。
マルコは声を上げず、寝台から腰を浮かせた。
足を下ろす。冷えた石の感触が足裏へ返る。ゆっくりと立ち上がり、視線を奥へ据えたまま呼吸だけを浅く整える。
足音は、そこで止まった。
気づいた時には、黒い影がひとつ、房の奥に立っていた。
長い外套。青黒い仮面。
看守の制服ではない。囚人服でもない。近くにいるはずなのに、顔立ちは妙に掴めなかった。輪郭だけは見えているのに、肝心の印象が薄く滑っていく。
異様な男だった。
だが、それ以上に厄介なのは、その立ち姿に迷いがないことだった。怯えも、焦りもない。まるで最初からここへ現れると決めていた者のように、静かにそこに立っている。
マルコは低く問うた。
「……誰だ?」
男は、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、仮面の奥から低い声が落ちた。
「仮面で姿を隠した男に、誰だと聞いて何の意味がある」
落ち着いた声だった。
芝居がかっている。だが、軽薄ではない。妙に腹の据わった響きが、耳の奥に引っかかる。
マルコの片眉がわずかに上がる。
「……あ?」
「問うならば、誰かではなく何かだ。そうだろう? ヴァレリスの番犬殿」
胸の奥で、ざらりと何かが鳴った。
その呼び名を知っていること自体が不愉快だった。まして、こんな夜中に、こんな場所へ現れた得体の知れない男に呼ばれるとなれば、なおさらだ。
だが、黒仮面の男はマルコの反応を意に介した様子もなく、静かに続ける。
「私はそう――取引相手だよ」
取引相手。
その言葉の場違いさに、思わず鼻で笑いそうになる。
夜更けの独房だ。机もなければ椅子もない。まともな商談からは、もっとも遠い場所だろう。そこで仮面を被った男が、取引相手を名乗る。
胡散臭いにもほどがある。
マルコは口の端を歪めた。
「……何言ってやがる。俺は夢でも見てんのか……?」
黒仮面の男は、そこで初めてごく小さく喉を鳴らした。
笑ったのかもしれない。仮面のせいで表情は見えないが、声にだけわずかな愉快さが滲んだ。
「夢を見るのはこれからだ、ヴァレリス商会番頭、マルコ・ドレイク。それが良い夢か、悪夢となるかは君次第だがね」
本名も、表の役職まで知られている。
薄気味の悪さが、一段深くなる。どこで拾った。誰から聞いた。どこまで掴んでいる。考え始めると、房の暗がりが急に深くなった気がした。
まともな山師じゃない。
だが、まともじゃないからこそ、余計に厄介だ。
黒仮面は、そんなマルコの胸中を見透かしたように、平然と次の札を切った。
「ここを出たくはないか?」
あまりにもまっすぐな問いだった。
マルコはすぐには答えない。
出たいに決まっている。そんなことは、わざわざ言葉にするまでもない。だが、だからこそ簡単には頷きたくなかった。そう口にした瞬間、何かひとつ譲ることになる気がした。
短い沈黙のあと、マルコは鼻を鳴らす。
「……胡散臭ぇ野郎だ。お前の口車に乗る気はねぇ。失せな」
吐き捨てるように言ってから、マルコは相手の反応を値踏みするように目を細めた。
「それとも、大声で看守を呼んでやろうか?」
この仮面野郎がどこまで余裕を崩さずにいられるか。その底を見たかった。
だが、黒仮面は肩ひとつ揺らさない。
「私はそれでもかまわないよ。だが、本当に良いのかな? 君は後悔すると思うが」
後悔、という言葉に、胸の奥で冷たいものがひび割れた。
マルコは小さく笑う。喉の奥で掠れた、乾いた笑いだった。
「……後悔? そんなもん、とうにし尽くしたさ。今の俺に残ってるのは、後悔くらいなもんだ」
言ってから、自分でその味を噛む。
苦い。だが、今さら取り繕う気もない。見栄を張ったところで、この石壁は一枚も動かない。
黒仮面は、その言葉さえ想定のうちだと言わんばかりに、静かに立っていた。
「そうか。復讐したいとは思わないのか? お前をこんなところに押し込んで、弱者を食い物に甘い汁を吸い続けている連中に」
問いというより、刃だった。
だがマルコは鼻で笑う。
「思わねぇよ。俺の通り名まで知ってるなら、分かるだろ」
唇の端が、薄く捻れる。
「世の中、奇麗ごとだけじゃ回らねぇ。弱者がどうのなんざ、興味もねぇ。誰かが笑えば、反対側じゃいつだってその何倍もの人間が泣いてやがる」
マルコは唇の端をわずかに歪めた。笑いに似ていたが、そこに愉快さは欠片もない。
「それが世の常ってもんだろ」
一気に吐き捨てて、それでも胸の奥に溜まった澱は消えなかった。
視線がわずかに落ちる。
「それに、今さら俺一人笑えたところで……」
そこで言葉が途切れた。
続きは、自分で飲み込むしかなかった。自嘲なのか、未練なのか、自分でも判然としないものが喉の奥に引っかかっていた。
マルコは吐き捨てるように言う。
「ケッ、胸糞悪ぃ。とっとと消えな、仮面野郎」
黒仮面は、そこで初めて短く息を漏らした。
「フッ、さすがは“番犬”だな。守るべき家も、飼い主も失った今では、生きる意味すら見出せないか」
その一言は、狙い澄ましたように神経を抉ってきた。
胸の奥で何かが切れた。
マルコの目が剣呑に細まる。次の瞬間には、身体が先に鉄格子へ詰め寄っていた。
「……調子に乗ってんじゃねぇぞ、このイカれ野郎が!」
怒声が、静まり返った独房列に叩きつけられた。
すぐさま、少し離れた房のどこかから野次が飛んだ。
「うるせぇぞ!」
独房列の静けさが、一瞬だけ波打つ。
だが、黒仮面は野次など意に介さず、静かに言った。
「わかった。ではそんな番犬殿に、一つ朗報だ」
そう言って、初めて牢の方へ歩み寄る。
鉄格子の前で足を止めると、仮面の奥から落ちる声がさらに低くなった。
「お前の飼い主、ヴァレリス商会の当主は確かに死んだ。殺された、というのが正しいが」
そこで一度、言葉が切れる。
「だが、その娘はまだ生きているぞ?」
その瞬間、マルコの呼吸が止まった。
「……何!?」
思わず鉄格子を掴む。
「どういうことだテメェ」
喉がひりつく。声が自然と掠れた。
「お嬢様は、旦那と一緒に亡くなったって……!」
黒仮面は揺るがない。
「世間ではそう公表されているな」
低い声が、冷えた空気へ静かに落ちる。
「だが、娘が生きているのは事実だ。しかも、この監獄内にいる」
冗談にしては悪質すぎる。
信じるな、と頭のどこかが言う。
だが別のところでは、もう信じたがっている自分がいた。
死んだと聞かされ、飲み込み、腐らせ、ようやく諦めたはずのものが、胸の奥で急に息を吹き返す。そんな感覚だった。
マルコは喉を鳴らした。
「……本当か?」
問いかけた直後に、自分の声の弱さへ苛立つ。
「いや、だが、本当なら俺は……」
続きが出ない。
言葉にした瞬間、もう後戻りできなくなる気がした。
黒仮面は急かさない。ただそこに立っている。
その沈黙が、かえって答えを迫ってきた。
やがて、マルコは低く言った。
「おい、黒仮面」
一度、息を呑む。
「俺をここから出せ」
黒仮面は、まるで最初からその言葉を待っていたみたいに答えた。
「初めに言っただろう。私は取引相手だ、と」
マルコは舌打ちした。
「……チッ。何が欲しい」
自嘲気味に唇の端が歪む。
「もっとも、今の俺に払えるものなんて何もねぇぞ」
「知っているとも」
黒仮面は淡々と言う。
「だから選んだ。君はすでに“底値”だろう? 買い叩くには丁度良いと思ってな」
その言い草に、今度は本当に喉の奥で笑いが漏れた。
「……ハハハ」
乾いた笑いだった。
「現れ方といい、悪魔かあんた」
「あんな連中と一緒にしないでくれ」
仮面の奥の声に、わずかな愉快さが混じる。
「何度か戦ったこともあるが、もう少しまともなつもりだよ」
一瞬、マルコは黙った。
「……冗談、だよな?」
「さて、ね」
冗談めかした言い方なのに、声は少しも崩れない。
まともじゃない。ますますそう思う。
だが、それで構わなかった。お嬢様が生きているのなら、それだけで他は後回しにできる。
「……まぁいい」
視線を逸らさずに言う。
「あんたが何者でも構わねぇ。言ったことが本当だったなら、なんだって支払ってやる」
そこで声が一段低くなる。
「ただし、違った時は――」
最後まで言わせず、黒仮面が鍵束を取り出した。
金属の擦れる音が小さく鳴る。
一本、選ぶ。その手つきに迷いはない。
鍵が差し込まれ、錠前の奥で硬い感触が噛み合った。
低く、解錠の音が鳴る。
「支払う気があるのなら、それで良い。君を信じよう」
扉がわずかに開く。
黒仮面はその隙間越しに、さらに声を落とした。
「言ったことは真実だ。ただし、生きているとは言ったが、無事だとは限らない」
その一拍のあとで、決定的な一言が続く。
「ここの所長がどんな人物か、君はよく知っているだろう」
血の気が引くのが、自分でも分かった。
「あの下衆野郎が、お嬢様を……」
「ご令嬢がいるのは北塔の五番牢だ」
黒仮面は容赦なく言い切る。
「助ける気があるのなら、急いだほうがいい」
その一言で、迷いは消えた。
マルコは開いた扉へ手を掛ける。冷えた鉄の感触が掌へ沈む。
房の外へ踏み出す、その一歩の重みは、さっきまでのどんな言葉よりも確かだった。
背後で、開いた格子が低く鳴る。
もう囚人ではない――少なくとも、この瞬間だけは。
だが、自由になったわけでもない。
黒仮面は何も急かさなかった。ただ、その先を知っている者の静けさで、通路の闇へ向き直っている。
マルコは短く息を吐いた。
――追うしかねぇか。
視線を一度だけ自分の手へ落とし、それから黒仮面の背を見た。




