14話 『目的の装備品』
明朝の処刑。
当然、そんなものに付き合うつもりはない。
看守たちを挑発し、厄介者として振舞ったのは全て、この所長預かりの独居房へ入るためだ。ここに入れられた時点で、俺の目的は半ば完了している。
後は夜の闇に乗じて、筋書通りに動くだけだ。
俺は立ち上がり、耳を澄ました。
足音は戻らない。
念のため、さらに数分置く。以後は、静けさだけだった。
壁際へ寄る。
目当ては、錆と煤で黒ずんだ燭台受けだ。長く使われていない飾りみたいな顔をしているが、根元の石だけは微妙に擦れていた。
指を掛け、斜め下へ力をかける。
最初は動かない。角度を少しだけ変え、今度は押し込むように捻る。
かち、と小さく噛み合う感触が返った。
燭台受けから三歩。寝台の端を基準に、目の高さより少し下。古い継ぎ目に見える石へ掌を当て、静かに押し込む。
低い石擦れの音がした。
壁の一角が、わずかに沈む。
次の瞬間、そのまま横へずれた。
暗い隙間が、石室の奥に細く口を開ける。
隠し通路だ。
人一人が通るには十分な幅がある。長いあいだ閉ざされていたせいか、口を開いた闇の奥からは、冷えた湿気と古い石の匂いが流れてくる。
俺は一度だけ背後を振り返った。
寝台、水差し、薄暗い石室。さっきまでただの牢に見えていたものが、もう舞台裏にしか見えない。
俺は身を滑り込ませ、通路の内側へ入った。
すぐ脇の壁に、もう一つ燭台受けがある。
今度はそれを下へ引く。
低い石擦れの音が、背後で短く鳴った。
振り返ると、横へずれていた石壁がゆっくりと元の位置へ戻っていく。隔離房へ通じていた隙間は閉じ、やがて継ぎ目すら分からなくなった。
これでいい。
通路は低く、冷え、湿っていた。足元は石段だ。削れ、丸くなっている。
しばらく直進し、分かれ道を左へ折れる。
迷う理由はない。道筋は、全て頭の中にある。
途中、天井の低い箇所をくぐる。その先で、空間がわずかに開けた。
空気が変わった。
今までの通路が、ただ古い地下道だったとするなら、ここから先は別だ。湿った石の匂いに混じって、長く閉ざされた儀式場めいた冷たさがある。
正面に鉄格子が見えた。
だが、今の監獄で使われている無骨な格子とは違う。太く、古く、一本ごとにわずかなうねりがあり、表面には錆の下から細い刻線が覗いている。飾りというより、権威そのものを鉄に置き換えたような造りだった。
その向こうの房も、今の牢とは明らかに違っていた。
広いわけではない。だが、狭すぎもしない。石壁は均一に切り出され、床も壁も奇妙なくらい整っている。寝起きのための部屋ではなく、身分ある者を“囚人として扱う”ためだけに整えられた牢だった。
王座を争う肉親を、あるいは禁忌を犯した高位の者を、誰の目にも触れさせず封じるための部屋。
王族専用房。
このバスティアがまだ首都として機能していた時代。その名残が、目の前に広がっていた。
その脇に、小さな控えの間が付いている。
房そのものよりは狭い。だが造りは同じだった。壁際には棚があり、朽ちかけた木箱が積まれ、その手前には布を掛けられた低い台がひとつ置かれている。人を住まわせるための部屋ではない。ここは、閉じ込められる者の身分や外見を処理するための場所だ。
俺は台に掛かった布へ手を伸ばした。
薄く埃が舞う。
下から現れたのは、青黒い古鉄の仮面だった。
額から鼻梁、頬骨の上までを覆う上面だけの造りで、口元と顎は露出している。顔全体を隠すためではない。むしろ、上から押さえつけ、誰かであることそのものを曖昧にするための形だった。
表面には細い刻線が幾重にも走っている。装飾ではない。術式の痕だ。長い年月で色は沈んでいるが、死んではいない。見る者を拒むような、静かな圧だけがまだ残っている。
禁欲的な造形だった。
王族の罪人から、王族らしさを剥ぐための仮面。
名を、剥奪の仮面と言う。
識別阻害の効果を持つ、俺が真っ先に欲した装備品だ。
隣には黒い長外套が畳まれていた。上質な布地だが、王家を示す紋章はどこにもない。外されたのだろう。威厳を飾るための衣ではなく、仮面と合わせて輪郭を沈めるための衣だ。
王族を閉じ込めるための装備が、今は俺を自由にする。
皮肉としては上出来だ。
さらに木箱の蓋を開ける。
中で金属が小さく触れ合った。
鍵束だ。
細いもの、太いもの、古いもの、新しいもの。用途の違う鍵が無造作に輪へ通されている。全部が使えるとは限らない。だが、大監獄の夜を歩くなら、持っていて損はない。
俺は外套を肩へ掛け、留め具を静かに噛ませた。
続いて、青黒い古鉄の仮面を持ち上げる。
額へ合わせ、鼻梁の位置を合わせる。ほんの少し角度を探り、押し込むように当てた瞬間――かちり、と小さな音がした。
留めが噛み合ったのだ。
次の瞬間、仮面の表面に刻まれた細い術式が、淡い光となって走る。
額から頬骨の上へ、青白い線が一息に広がり、すぐに沈んだ。長くは光らない。だが、一度だけ脈打つように明滅したそれで十分だった。
冷たさが遅れて肌へ染みる。
視界がわずかに狭まった。
同時に、自分の顔の輪郭が薄く遠のくような妙な感覚が走る。目も鼻も口も、そこにあるはずなのに、像だけが一歩後ろへ滑っていく。喉の奥で息を鳴らしてみると、声まで少しだけ他人事みたいに聞こえた。
識別阻害が立ち上がった。
これなら、近くで顔を見られても印象は留まりにくい。
鍵束を外套の内側へ滑り込ませ、布の皺を整える。
次だ。
欲しいのは衣装だけじゃない。
没収品保管庫へ行く。
あの鞄がなければ、ここから先の手札が足りない。
俺は控えの間を出て、さらに奥へ続く通路へ視線を向けた。
この隠し通路。旧王都の地下網は、ただ逃げるための抜け道じゃない。人目を避けて動くために掘られ、増やされ、継ぎ足されてきた裏の血管だ。今の王族は存在しか知らず、道筋までは失っている。だからこそ使える。
通路の先は緩やかに下っていた。
湿った石の匂いに、少しずつ別の気配が混じってくる。油と革、それに、人の手で整理された品の匂いだ。使われている区画が近い。
突き当たりで足を止める。
行き止まりにしか見えない石壁の脇、燭台立てがひとつ。こちら側から出る分には簡単だ。俺は何の迷いもなくそれを引いた。
低い石擦れの音。
壁の一角が横へずれ、その向こうに狭い物置めいた空間が現れる。
正面には、今の時代の造りらしい木扉があった。古い地下網そのものではなく、後からその脇へ継ぎ足された管理用の小部屋なのだろう。扉には鉄帯が打たれ、鍵穴が一つだけ口を開けている。
俺は鍵束を取り出した。
一本目。違う。
二本目。浅い。
三本目で、手応えが変わった。
金属が噛み合い、低く錠が鳴る。
扉を押し開けると、内側は没収品保管庫だった。
棚が並び、木箱が積まれ、壁際には押収品がまとめて寄せられている。役人仕事らしく半端に整っているのが、かえって都合がよかった。
俺は奥へ進む。
武器でも衣類でもない。旅人や捕縛者から剥いだ雑具の棚だ。
そこに、見覚えのある擦れた革があった。
使い込まれた肩掛け鞄。
見た目だけなら、くたびれた旅の荷物袋にしか見えない。だからこそ、ここへ押し込まれたのだろう。
俺は迷わずそれを掴んだ。
留め具を外し、内側へ指を滑らせる。
底に縫い込まれた魔法陣へ触れた瞬間、刻線がごく淡く明滅した。埋め込まれた小さな魔石が熱を帯びる。見た目は古鞄。中身は亜空間へ通じる落とし穴。
魔法の鞄。
生きている。
なら、中身もそのままだ。
爆発壺。スクロール。残してきた品が、そのまま戻ってきた。
口元がわずかに緩む。
今後要りそうな武器や防具、それに細々した道具も、ここで頂いておく。
棚をひと通り見て回り、使えそうな物だけを手早く鞄へ沈めた。
鞄を肩へ掛け直し、保管庫を出て隠し通路へと戻る。
石の継ぎ目が閉じる音を背に聞きながら、さらに地下網の奥へ進んだ。
通路はまだ続いている。
そして何度目かの分かれ道で、俺は足を止めた。
この先へ進めば、大監獄を離れることになる。
崩落はない。途中の段差も、壁のずれも、記憶の範囲だ。
装備は手に入り、大監獄での目標は、これでクリアと言えるだろう。
――だが、足りない。
俺は通路が無事機能していることを確かめると、踵を返した。
大監獄へと戻る道すがら、考えを整理する。
隔離房で囚人、つまり俺が消えたことは早朝にはバレるだろう。
そうなれば捜索が始まり、いずれは手配書が出回ることになる。
しかし、この町でやっておかねばならないことはまだまだ残っている。四六時中仮面をつけて出歩くわけにもいかない以上、それはリスクだ。
だからといって素直に牢屋に戻れば、数時間後には死刑。
ならば、どうする。
リスクを甘んじて受け入れる? ――ありえない。
別の町へ逃げる? ――そんな後手にまわって、世界は救えない。
戦闘、虚言、篭絡、賄賂――どれも最善とは言い難い。
必要なのはもっと大きな――……そう、大きな“混沌”だ。
俺は方針を固める。
一人が消えれば、騒ぎになる。なら、もし数百人が一斉に消えれば?
きっと独居房で消えた名も無き囚人のことなど、誰の記憶にも残らない。
ついでに今後、町で動きやすくなるように“リクルート”も済ませてしまおうか。
「ふふ……ふははは」
冷たい通路に、乾いた笑いが木霊する。
きっと楽しい夜になる。
俺の足取りに応じるように、外套の内側で鍵束がしゃらん、と鳴った。
人を閉じ込めるための鍵。だが今夜に限って言えば使い方は真逆になる。
さぁ、始めよう――この国始まって以来の、大脱獄を。




