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白い結婚をお望みなら、私から口説き落とすまでです  作者: 九葉(くずは)


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9/15

第9話

 屋敷の屋根を軋ませていた吹雪が遠のき、雪解け水が小川を満たすころ、ヴァルデンにも柔らかな春の日差しが降りそそぐようになった。


 閉ざされていた峠道が開き、特産品を積んだ荷馬車の行き交う音が、街のほうからかすかに聞こえてくる。大飢饉の爪痕から抜け出して、領民の頬にも血色が戻りはじめていた。彼が身を削り、私がその荷を少しだけ分けてもらってきた、その証だ。


 けれど、季節が進むにつれて深まっていく温もりは、皮肉なことに、私たちを新しい戸惑いの中に閉じこめてもいた。


「アレクシス様、袖口のボタンが取れかけていますわ。じっとしていてくださいな」


 朝食のあとの執務室。立ち上がろうとした夫の前に回り込んで、私は慣れた手つきで袖口のボタンを留め直した。


「すまない、ヴィオラ。いつも君の手を煩わせてばかりだな」


 アレクシスは目を伏せて、少し息を詰めた。間近で見上げる彼の耳は、あの吹雪の夜を越えた今でも、私が近づくたびに淡く染まる。


 この人が私を大切にしてくれていることは、もう痛いほど分かっていた。


 開け放した窓から春風が吹き込んで、私の前髪を乱す。それを払おうと、彼の手が持ち上がった。けれど指先は、肌に触れる寸前で、宙に浮いたまま止まってしまう。


 ためらうように彷徨うその右手を、私は両手で包んで、自分の頬へ引き寄せた。


「逃げないでくださいな。泥を拭ってくださったときも、あの嵐の夜も、貴方の手はいつも私を温めてくれたでしょう?」


 頬に触れた硬い手のひらが、びくりと跳ねる。


 あの夜、互いの弱さを預け合ったはずの人が、どうして今さらためらうのか。瞳の奥にある痛ましさに、胸が小さく軋んだ。


「峠が開いて、交易も本格的に動き出した。君から借りた金を返す目処も、いよいよ立ちそうだ」


 アレクシスは指先を震わせて、苦しげに目を落とした。


「そうなれば、君は自由を選べる。私の都合や……独り占めしたいという気持ちで、この厳しい土地に君を縛りつけるわけにはいかない」


 私を大切に思うあまりに引かれた、誠実すぎる境界線。


 ――引き留めてほしい。けれど。


 もし今、妻として愛してほしいとねだったら、この人は領地を救った私への恩義から、自分を差し出してしまうのではないか。借金の返済代わりに愛されるなんて、私は絶対に望んでいない。


「恩返しの帳尻合わせで、優しくしてほしいわけではありません。今、貴方の手に触れていたいのは、私の我儘ですわ」


 まっすぐ見上げると、アレクシスは息を呑み、逃げ場を失ったように眉を寄せた。それから、ためらいを振り切るように、親指で私の頬を撫でた。


「……もし君に、この手を今すぐ離してほしいかと訊かれたら。私は、否と答える」


 低く絞り出されたその言葉に、胸が甘く疼く。


 嘘のない温もりが、ここにあるのに。「ずっとここにいてほしい」「貴方の本当の妻になりたい」――その最後の一言だけは、お互い喉の奥へ押し戻してしまう。


「執務の前に、少し中庭を歩かないか。新芽が顔を出していた」

「ええ、喜んで。腕をお借りしても?」


 ぎこちなく差し出された肘に、私は手を滑らせた。


◇


 石畳の隙間から顔を出した小さな青い花に、私は足を止めた。


「見てくださいな、アレクシス様。あんなに雪が深かったのに、健気に咲いていますわ」


 指差した先を追ったアレクシスの眉根が、ふっと緩む。その柔らかな表情に、私の口元も自然とほころんだ。


「あの寒さを耐え抜いたんだな。奥の林檎の木も、今年はよく花をつけそうだ」

「秋にはまた厨房を占領して、酸っぱい焼き林檎をたくさん作らないといけませんね。来年の春には、もっと木が育って、見事な花を咲かせるかしら」

「ああ。来年の春も、きっと――」


 言いかけたアレクシスが、はっと息を詰めた。


 私の指を絡め取ろうとしていた彼の手が、その位置でぴたりと止まる。鋼色の瞳に走ったためらいを見て、私は自分が口にした「来年」という言葉の重さに気づかされた。


 完済まで、およそ一年。完済すれば、私が望むかぎり自由になれる。


 来年の春、私はここで、この人の隣に立っているのだろうか。


「……あら、辺境伯様。まさか焼き林檎を独り占めなさるおつもりではないでしょうね?」


 沈黙を振り払うように、わざと眉を吊り上げてみせる。彼は不器用な、けれど泣き出しそうなくらい優しい笑みを返してくれた。


◇


 新緑が深まり、吹く風が初夏の熱を帯びるころには、領地の空気は見違えるほど明るくなっていた。


 ある夕暮れ、執務を終えたアレクシスが食堂に現れ、冷えた果実水を私のグラスに注ぎながら顔をほころばせた。


「交易の隊商が無事に戻った。今年の麦は、この十年でいちばんの出来になりそうだ」


 責任に押しつぶされそうだった人の口元に、こんなにも誇らしげな笑みが浮かぶ日が来るなんて。胸がいっぱいになる一方で、グラスの結露をなぞる私の指先は、少しだけ冷えた。


 再建が順調だということは、完済の日が近づいているということでもある。


 全額が返されれば、白い結婚を解いて自由になる権利が、私の手に渡る。自動的に追い出されるわけではないと、分かってはいた。それでも私は、契約を盾に妻の座に居座るのではなく、彼自身の望みとして「ここにいてほしい」と選ばれたかった。


 けれど、もし彼が持ち前の生真面目さで、私を王都へ帰すことこそ最善だと信じ込んでしまったら。


 待っている日々は甘くて、そして、途方もなく怖かった。


「それなら今夜は、お祝いにしませんと。料理長にお願いして、初物の夏野菜を香草たっぷりで焼いてもらいましたの」

「ああ、いい香りだ。君の好きな香草の使い方も、いつの間にかこの屋敷の味になったな」


 フォークを動かしながら、アレクシスが嬉しそうに目を細める。その横顔を眺めながら、私はグラスを傾けた。


「明日の夕方、もしお仕事が早く片付いたら、西の丘まで散歩に付き合っていただけません? 金色の麦畑が見事だと聞きましたの」

「麦畑か。……ああ、必ず片付けて誘いに行く。約束しよう」


 すぐに返ってきた力強い言葉と、愛おしげに細められた瞳。


 明日を一緒に迎える約束を交わせる、この時間は幻ではない。込み上げてくる笑みを、私は唇の内側で噛みしめた。


 翌日、西の空が茜色に染まるころ。風に揺れる金色の麦畑の真ん中で、アレクシスは黙って手を差し出してくれた。指を絡めると、強く、けれど壊れものを扱うように優しく握り返された。


◇


 夏の夜には、もうひとつ日課が増えた。


 執務を終えたアレクシスの机に、王都から持ってきた父の商事帳簿を広げることだ。


 きっかけは、婚姻で後見が終わったときに叔父が商業組合へ出した、最後の報告書の写しだった。三年分の収支をまとめたその数字が、父の手で丁寧に記された取引の記録と、どうにも噛み合わない。


「この年の羊毛の取引、父の見積もりでは金貨八百枚の利益が出るはずでした。なのに叔父の報告では、損を出したことになっているの」

「こちらの支払いは、受取人の署名が三件とも同じ筆跡だな。偽名だろう」


 帳簿仕事に慣れたアレクシスは、私が見落としていた綻びを次々に拾い上げてくれた。肩を並べて数字を追う夜更けの執務室は、王都のどんな舞踏会よりも楽しかった。


 浮かび上がったのは、三年で金貨数千枚。父が遺し、本来なら私が受け継ぐはずだった商会の利益が、叔父の懐に消えていた。


「訴え出るなら、辺境伯家の名で書状を添えよう。私の妻の財産だ。黙っているつもりはない」

「ありがとうございます。でも、訴え出るのは私です。父の遺したものを取り返すのは、娘の役目ですもの」


 夏の終わり、私は帳簿の写しと訴状を、ヴァルデンの早馬に託して王都の監察院へ送った。


 この先どんな道を選ぶことになっても、父の遺したものだけは、叔父の手に残しておくわけにはいかなかった。


◇


 実りの夏は駆け足で過ぎて、季節はもう、庭の木々が赤や黄に色づく秋。


 手を取り合い、食卓で笑い合う日々は、確かに深まっていた。それでも「一生そばにいたい」という最後の一言だけは、互いに誠実であろうとするあまり、喉の奥に押し込めたままだった。


 執務室の机に積み上がっていく交易の決算書。秋風が窓を揺らすたび、帳簿を見つめる彼の引き結ばれた唇に、完済の日が静かに迫っているのを感じていた。


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