第10話
木枯らしが庭の木立を揺らし、この地に来た日と同じ、肌を刺すような晩秋がめぐってきた。
持参金で高利の借財を清算してから、ちょうど一年。特産品の交易と豊かな秋の実りで、領地はすっかり立ち直った。私への返済がすべて済んだと告げられたのは、昨日のことだ。
再建をやり遂げた彼をお祝いしたくて、今夜はとっておきのお茶を淹れようと、弾む足取りで執務室へ向かった。
けれど扉を開けたところで、私の足はぴたりと止まる。
アレクシスは、いつもの繕った上着ではなく、威儀を正した黒の正装に身を包んでいた。机の上には、几帳面に揃えられた返済の証書。私を迎えるその立ち姿は、痛々しいほど隙がない。
「待っていた、ヴィオラ。話がある」
低く響いた声は、いつになく静かだった。彼が深々と頭を下げるのを見て、私は息を呑んだ。
「君の資金と心遣いがなければ、この領地は冬を越せなかった。この一年、私と領民に注いでくれたすべてに、心から感謝申し上げる」
まるで遠い貴婦人を相手にしているような、整いすぎた礼儀。その冷たいほどの真摯さに、嫌な予感が胸を締めつけた。
「そんなに畏まらないでくださいな。せっかくほぐした肩が、また凝ってしまいますわ。今夜は執務室を抜け出して、甘いお菓子でお祝いしましょう?」
わざと茶化して笑いかける。凍りついた空気を、どうにかほどきたかった。
その誘いに、アレクシスの瞳が一瞬、すがるように揺れた。この人だって、本当は二人で笑い合いたいのだ。
けれど彼は唇を噛んで、甘い誘いを振り払うように、机の上の書類へ手を伸ばした。
「君から預かっていた持参金は、全額、王都の君の名義に戻した。それと、これが一年前の契約書の写しだ」
差し出された羊皮紙には、見覚えのある二人の署名が並んでいた。
「君を追い出すつもりはない。だが契約どおり、君が望めば白い結婚を円満に解いて、いつでも王都へ戻れるよう、神殿への手続きも整えてある。……君の自由を、今ここに返す」
私を大切にして、守り抜こうとする、愚直なまでの誠意。
でも、お金の貸し借りが終わったからといって、重ねてきた手の温もりまで清算されてたまるものか。差し出された紙を見つめる指先が、怒りと悲しさで小さく震えた。
私は羊皮紙には目もくれず、まっすぐに彼を見据えた。
「契約の条項を伺いに来たのではありませんわ。私が知りたいのは、アレクシス様、貴方ご自身がどうしたいのか、です」
アレクシスは言葉に詰まり、机の上の拳を、白くなるほど握りしめた。
「私は……毎朝君とパンを分け合って、夜に温かい茶を飲む時間が、生まれて初めての幸福だった。君を失いたくない。君の隣にいたいと、どれほど願っているか分からない」
ようやく吐き出された本音は、けれど、ひどく苦しげに震えていた。
「だが、だからこそだ! 自分の寂しさを埋めるために、王都でいくらでも幸せになれる君を、この寒村に縛りつける。そんな卑怯な真似を、私は自分に許せない」
私を欲しがりながら、私を守るために手放そうとしている。机の端をつかむ彼の指は、言葉とは裏腹に、手放す怖さに悲鳴をあげているように見えた。
「王都で幸せに、ですって? お忘れですか。あそこには、持参金と私を狙う叔父がいるのですけれど」
冷ややかに返すと、アレクシスは首を横に振った。
「忘れるものか。君をあんな男のもとへ帰すはずがない。神殿の庇護の下に独立した邸を借りて、誰にも脅かされずに暮らせるよう、商館とも話をつけた。君が本当に自由に生きられる手配は、すべて整えてある」
彼がどれほど私の身を案じて、奔走してくれたのか。それは痛いほど伝わってきた。
だからこそ、その一方的な献身が胸を締めつける。
「それほど私の先々のことを考えてくださったのに、どうして一番肝心なことを訊いてくださらなかったのですか。『君は何を望むのか』と、ただの一言も」
責めながら、喉が詰まった。
一方的な押しつけに腹を立てながら、私だって、拒まれるのが怖くて、彼が引き留めてくれる日を待っていただけではなかったか。その弱さが、苦い棘になって胸を刺した。
アレクシスは痛みをこらえるように顔を歪め、視線を彷徨わせた。
「私の望みを先に口にしたら、君は優しいから、自分を犠牲にしてでもここに残ってしまう。そう思ったんだ」
「犠牲ですって? 本気で口説き落とすと宣言したのも、あの吹雪の夜に部屋へお呼びしたのも、誰かを憐れんだからではありません。私自身の意思ですわ!」
「分かっている。あの言葉も、君の手の温もりも、一日だって忘れたことはない」
アレクシスは机に両手をつき、苦しげに息を吐いた。
「だから怖いんだ。君の優しさに甘えて、一度でも『残ってくれ』と乞うてしまえば……私は契約も礼儀もかなぐり捨てて、二度と君を手放せなくなる。それがどれほど身勝手な独占欲か、分からない私ではないんだ!」
肩で息をするアレクシスを見つめながら、胸を衝いたのは、怒りよりも、たまらない愛おしさだった。
この人は、私を拒んでいるのではない。私を独り占めしたいという気持ちに、自分の誠実さという鎖で、必死にあらがっているのだ。
私は一歩、彼との距離を詰めた。
「アレクシス様――」
呼びかけに、彼の手が思わずといったふうに伸びて、私の指先を求めかけた。けれど触れる寸前で、自分を咎めるように指を握りこみ、無理やり引き戻してしまう。
その視線の先には、机の上に置かれた契約書の写しがあった。
一年前は、叔父から私を守り、彼を窮地から救ってくれた盾だった紙。それが今は、二人の本心を押し殺すための檻になっている。形式にすがることで、私たちはどちらも、傷つく怖さから逃げていただけなのだ。
アレクシスは固く目を閉じた。喉を詰まらせながら、自分の胸を引き裂くような声で告げる。
「君の未来を、私の我儘で奪うことはできない。ヴィオラ。私は、君を――解放する」
解放する。
その一言が、凍った刃のように胸を貫いた。
一年前の私が、喉から手が出るほど欲しかったもの。それは、叔父の支配から逃れて生き延びるための、ただの隠れ家だ。
けれど今の私は、知ってしまった。毎朝パンの端を切り分けてくれるときの、照れくさそうな横顔を。嵐の夜、夜明けまで握り続けてくれた手の、痛いほどの熱を。
今の私が欲しいのは、そんな乾いた安全ではない。
この人と生きて、この人の痛みを半分背負って、この人に愛されたい。
手放すことこそ正しいと、彼が自分を鎖で縛りつけているのなら。受け身のまま、選ばれる日を待つのはもう終わりだ。傷つくのが怖くて被っていた仮面を、今度こそ剥ぎ取るときが来た。
私は机に歩み寄り、契約書の写しへ迷わず指を伸ばした。
「勝手に結論を出さないでいただけますかしら、アレクシス様」
冷たい羊皮紙を指で強く押さえつけ、私は取り乱す夫を、正面から射抜くように見据えた。




