第11話
「解放する、だなんて。どの口がおっしゃるのですか」
羊皮紙を指で押さえたまま、机を挟んでアレクシスを見据える。
私を突き放したはずの彼は、痛みに打たれたように息を呑み、今にも崩れそうなほど弱々しく身を引いた。その瞳に浮かんでいたのは、冷たさではない。自分で下した宣告への苦しみと、私に拒まれることへの怯えだった。
「自由にしてくださいなんて、今の私は一度も頼んでおりませんわ。それなのに、どうして私の行き先を、貴方が勝手に決めてしまうのです?」
「ヴィオラ、だがこれは、君を守るために……」
「守る? いいえ、違います。貴方は私を縛るのが怖くて、誠実という名の殻に閉じこもっているだけです!」
私は写しをつまみ上げ、二人の目の高さに掲げた。
一年前、互いの尊厳を守るために交わした紙。でも今、私を縛っているのは叔父でも、この条項でもない。
「神殿に届け出れば離縁できることくらい、百も承知です。そのうえで私は、自分の意思で、貴方の妻でいることを選んでいるの」
羊皮紙の両端に指をかけ、ぐっと力を込める。彼の呼吸が止まった。
「私の望みを、勝手に決めないで」
びり、と乾いた音が、静まり返った執務室に響いた。
二つに裂けた羊皮紙を、私は机の上に投げ捨てた。アレクシスが目を見開いて、凍りついたように立ち尽くす。
「ヴィオラ、何を……」
「自由なんていりません! 私が欲しいのは、貴方です!」
あふれそうになる涙を拭いもせず、私は叫んでいた。傷つくのが怖くて、契約という盾の裏に隠していた最後の予防線を、自分の手で引き剥がすように。
「貴方のいない未来なんて、誰に押しつけられたって受け入れません! 私が本気で口説き落とすと誓ったのは、ほかの誰でもない、貴方なんです!」
視界が熱く滲んでも、目は逸らさなかった。
剥き出しの本音をぶつけられたアレクシスは、打たれたように顔を歪め、伸ばしかけた手を宙で震わせた。良かれと信じた『解放』が、どれほど独りよがりな押しつけだったのか。それを思い知ったように、瞳が大きく揺れている。
「領民のために泥にまみれて、自分の寒さも空腹も後回しにしてしまう。そんな不器用で誠実な貴方だから、好きになったんです。でも、もう我慢できません。貴方が自分だけを犠牲にして、それで私を幸せにした気でいるなんて!」
こぼれる涙を手の甲で乱暴に拭って、私は机越しに手を伸ばした。
「貴方にも、幸せでいてほしいの。パンを分け合って、温かいお茶を飲んで、二人で笑っていたい。私の幸せを、貴方一人で決めないで。これからは二人で選んでいくものだって、どうして言ってくださらなかったの」
アレクシスは反論を呑み込み、唇を噛んだまま、私の叫びをじっと受け止めていた。机に落ちた涙のひと粒を、胸を刺す刃でも見るような目で見つめている。
ぎし、と床板が鳴った。
アレクシスはゆっくりと机を回り込み、二人を隔てていた最後の境界を越えて、私の目の前に立った。
伸ばしかけていた私の手を、今度はためらわずに、大きな両手が包み込む。
触れた瞬間に伝わってきたのは、こちらの胸まで痛くなるほどの震えだった。
――ああ、この人も震えている。
領民にすべてを捧げる無私の領主でも、何でも許してくれる都合のいい人でもない。私を失うことに怯えて、自分の身勝手さに苦しむ、一人の不器用な男の人がここにいる。
その弱さごと、私はこの人を選びたかったのだ。
抱きしめることも、唇を重ねることもしなかった。私たちはただ、すぐ近くで見つめ合う。飾らない本音を交わせる距離に、ようやくたどり着いた気がした。
「君を縛るのが怖かったんじゃない。生涯を共にと願ったその先で、君に後悔されるのが怖かったんだ」
アレクシスは繋いだ手に力を込めて、自嘲するように言った。
「解放するという建前を作れば、拒まれる痛みを味わわずに済む。君の意思を尊重するふりをして、私はただ、傷つくことから逃げていただけだった」
「……私だって、卑怯でしたわ」
彼の指の震えを受け止めながら、私も胸の底に溜まっていた澱を吐き出した。
「口説き落とすなんて息巻いておきながら、本当は、貴方のほうから『残ってほしい』と言ってくださるのを待っていました。自分から愛してほしいと言って拒まれるのが怖くて、ずっと逃げ道を残していたんです」
繕わない本音を見せ合って、互いの愚かさを認め合う。重ねた手の熱だけが、逃げ道をなくした二人を繋ぎとめていた。
「君が私を嫌っていないことくらい、分かっていたんだ」
アレクシスは苦笑まじりに眉を寄せ、私の指を握り直した。
「だが、夫婦として一生を共にと願った先で、いつか君に『あのとき王都へ戻ればよかった』と思われるのが、何より恐ろしかった」
「そんな先のこと、私にだって分かりませんわ」
私は彼を見つめ返して、はっきりと告げた。
「だから、約束は今夜のことだけで結構です。王都の邸なんていりません。今夜も一緒に食卓について、明日もまた、お互いの望みをひとつずつ聞き合いたい。私が欲しいのは、そんな当たり前の毎日です」
「……ああ、分かった。神殿の手続きも、邸の契約も、すべて白紙に戻す。もう二度と、君の行き先を一人で勝手に決めたりはしない」
アレクシスは瞳を熱く揺らして、深く頷いた。
「ほら、顔を拭きなさい」
差し出された清潔なハンカチを受け取って、私は目元をごしごしと押さえた。
「まったく、頑固な辺境伯様のお守りは骨が折れますこと。無駄な手配をさせられた罰として、今夜のお祝いのお菓子は奮発していただきますからね」
「ああ、いくらでも用意させよう」
アレクシスがようやく、困ったように眉を下げて笑った。机の上に散らばった羊皮紙の切れ端を、二人で一枚ずつ拾い集める。
破り捨てたのは、二人の絆ではない。傷つくのが怖くて、互いにしがみついていた言い訳のほうだ。
「では参りましょうか。冷え切った執務室を抜け出して、約束のお祝いをしませんと」
繋いだ手を今度は離さないまま、私たちは顔を見合わせた。
◇
食堂に運ばれてきたのは、王都の茶葉で丁寧に淹れた紅茶と、焼きたての蜂蜜菓子だった。
向かい合わせの席ではなく、アレクシスは自分から私の隣の椅子を引いて、並んで腰を下ろした。肩が触れ合うほどの近さで、湯気の立つカップが私の前に滑らされる。
「温かいうちに飲みなさい、ヴィオラ」
「いただきます。……でもアレクシス様、お忘れになってはいけませんよ?」
焼き菓子を小さく割って彼のお皿に置きながら、私はにっこりと笑いかけた。
「私は『本気で貴方を口説き落とす』と申し上げました。逃げ道を捨てた以上、ここからが本当の勝負です。覚悟なさってくださいませ」
不意を突かれたアレクシスが、耳を赤くする。けれど今度は目を逸らさずに、口元を緩めてみせた。
もう、形式の盾はない。その代わりに、互いの意思で選び取ったこの温もりがある。
これからどんな嵐が来ようと、この手を離すつもりはなかった。
――その嵐が、五日後に王都から馬車に乗ってやって来ることを、このときの私はまだ知らない。




