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白い結婚をお望みなら、私から口説き落とすまでです  作者: 九葉(くずは)


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12/15

第12話

 執務室での大騒ぎから、五日が過ぎた。


 神殿の手続きも王都の邸の契約もすべて取り消され、屋敷には驚くほど穏やかで、少しばかり照れくさい日常が戻ってきていた。


「ヴィオラ、今朝の茶の温度はどうだろうか」

「ええ、完璧ですわ。でもアレクシス様、毎食ごとに私の顔色を窺って望みを訊くのは、少々過保護が過ぎましてよ!」


 一人で行き先を決めないと誓ったこの人は、その生真面目さを今度は別の方向に発揮して、私の小さな好みまでいちいち確かめないと気が済まないらしい。


 呆れながらも、くすぐったい。焼きたてのパンを半分こしていた、そんな朝の食卓。


 それを、けたたましい蹄の音が破った。


 激しいノックとともに、いつもは冷静な老執事が、血相を変えて飛び込んでくる。


「旦那様、奥様! 王都より、バルトロメ様がお見えです!」

「叔父が……?」


 カップを持つ指先が、一瞬だけ強張った。王都の屋敷の冷たい廊下が、頭をよぎる。


 その右手を、隣のアレクシスがためらわずに包み込んだ。


「ヴィオラ。門前払いにすることもできる。顔を合わせたくないなら、私が兵を出して今すぐ追い返そう。……君は、どうしたい?」


 私の安全を理由に、勝手に部屋へ押しこめたりしない。まず、私の望みを訊いてくれる。そのことが、冷えかけた胸をかっと熱くした。


「いいえ、逃げも隠れもいたしません。護衛についていただいたうえで、堂々と会います。それに、ちょうど叔父にお伝えしたいこともありますの」

「ああ。君の隣には、私が立つ」


 アレクシスは頷くと、老執事に何事か短く言いつけた。執事が一礼して足早に出ていくのを見送ってから、私たちは応接室へ向かった。


◇


 扉を開けた途端、上等な毛皮の外套を着込んだ小太りの男が、ソファから立ち上がった。叔父のバルトロメだ。その後ろには、王都で雇ったらしい供回りが三人、所在なげに控えている。


 私たちに続いて、アレクシスの護衛が二人、静かに部屋の隅へ立った。


 けれど、その姿は記憶の中の叔父と、どこか違っていた。脂ぎった顔は青黒くむくみ、目の下には濃い隈が沈んでいる。旅の疲れだけとは思えない、追い詰められた獣のような目つきだった。


「やあヴィオラ、つまらない意地の張り合いもこれで終わりだな! 商館から聞いたぞ。この貧乏領主に離縁されて、一人で王都へ戻る手はずになっているそうじゃないか」


 手配がすべて取り消されたことなど知りもせず、叔父は唾を飛ばしてまくしたてた。


「持参金が戻ったのなら話は早い。役立たずの貧乏貴族に、もう用はないだろう。すぐに私と王都へ帰って、私の決めた相手と再婚するんだ!」


 私は、冷ややかに微笑んでみせた。


「あいにくですけれど、叔父様。私が婚姻届を出した時点で、叔父様の後見の権利は消えておりますわ。それに、私がいつ離縁するなどと申しました? 私は自分の意思でアレクシス様の妻を選んで、ここにいるのです」


 隣のアレクシスは、私の言葉を遮らない。ただ静かに、叔父を見据えている。


「小娘が、生意気な口をきくな!」


 叔父は顔を真っ赤にして卓を叩いた。法で連れ戻せないと分かると、今度は商売と体面を持ち出してくる。


「王都の商館に手を回せば、お前の名義など、どこの取引からも締め出せるんだぞ。社交界じゅうに悪評をばらまかれて、泥棒猫のように生きたくなければ従え! だいたい、こんな北の貧乏貴族にしがみついて何になる!」


 かけがえのない夫を蔑むその口ぶりに、胸の奥で冷たい怒りが弾けた。


「飢えのない領地を作るために身を削る領主と、姪の財産を掠め取ることしか能のない親族。どちらが本当に貧しいかなんて、考えるまでもありませんわ」

「な、何だと……」

「それに叔父様。商館に手を回すとおっしゃいますけれど、もう回せる手なんて、残っていないのではありません?」


 叔父の顔から、すうっと血の気が引いた。


「王都の商業組合は、ひと月前から叔父様の名義での取引を、すべて止めているはずです。監察院の調べが入ったから。いただいたお返事に、そう書いてありましたもの」

「な……なぜ、お前がそれを……」

「訴え出たのが、私だからですわ」


 私は持ってきた紙の束を、卓の上に置いた。


 父の商事帳簿の写しと、叔父が組合に出した後見報告の写し。この夏、アレクシスと二人で、夜ごと一行ずつ突き合わせたものだ。


「三年分の帳簿を照らし合わせました。羊毛の取引で出たはずの利益が、叔父様の報告ではすべて損になっている。ありもしない取引相手への支払いが、四十七件。受取人の署名は、どれも同じ筆跡でした」


 ひとつ挙げるたびに、叔父の肩が小さく跳ねる。


「父が遺した商会のお金を、叔父様は三年かけて自分の懐へ移していた。監察院に嗅ぎつけられて、帳簿の穴を埋める当てが要るようになった」


 叔父の喉が、ひくりと鳴った。


「わざわざ五日もかけて、ご自分でここまでいらしたのは、そのためでしょう? 私の持参金で穴を塞いで、私のことは『決めた相手』――叔父様にお金を貸している方の家にでも、差し出すおつもりだった」

「ち、違う、私は、お前のためを思って……」

「鍵の掛かった部屋に私を閉じこめたのも、私のためですの?」


 叔父の口が、ぱくぱくと空を噛んだ。


 そのとき、扉が叩かれた。


 老執事に案内されて入ってきたのは、灰色の外套に王家の紋章を縫いつけた男たちだった。先頭の一人が、アレクシスに一礼する。


「王立監察院の者です。ランカスター商会の後見財産横領の件で、バルトロメ・ランカスターの身柄を預かりに参りました。王都から姿を消したため足取りを追っておりましたが、門を固めてくださっていたおかげで、取り逃がさずに済みました」


 思わず隣を見上げると、アレクシスは小さく頷いた。


 訴えから三か月。叔父が自分で北の果てまで来たのなら、追手はすぐ後ろに迫っているかもしれない。叔父の到着を聞いたあの一瞬で、彼はそこまで読んで、門を閉ざすよう執事に命じていたのだ。


 叔父は、その場にへなへなと座り込んだ。


「ま、待ってくれ……待ってくれ、ヴィオラ!」


 さっきまでの居丈高な態度は、跡形もなかった。叔父は床を這うようにして、私の足元にすがりつこうとする。


「訴えを取り下げてくれ! お前さえ取り下げれば、まだどうにかなるんだ! 私はお前の叔父だぞ、たった一人の身内じゃないか! 兄上が亡くなってから、誰がお前の面倒を見てやったと――」


 ドレスの裾に伸びてきた手を、アレクシスが一歩踏み出して遮った。叔父の指は、私に届く前に彼の靴先で止まる。


「私の妻に触れるな」


 氷のような声だった。


 叔父は床に額をこすりつけた。高価な毛皮の外套が埃にまみれ、むくんだ頬を、汗と涙がぐしゃぐしゃに伝っていく。


「頼む、頼むヴィオラ……このままでは、屋敷も商会も、何もかも取り上げられてしまう……牢になど入れられたら、私は……!」


 私は叔父を見下ろした。


 怖くはなかった。あれほど大きく見えていた人が、今はただの、小さく丸まった背中にしか見えない。


「叔父様。私が閉じこめられた部屋の扉を叩いて、出してくださいとお願いした夜のことを、覚えていらっしゃいます?」


 叔父の嗚咽が、ぴたりと止まった。


「叔父様は一度でも、あの扉を開けてくださいましたか」


 答えはなかった。答えられるはずがない。


「取り下げはいたしません。父の遺したものは、一枚残らず返していただきます。――今度は叔父様が、鍵の掛かる部屋で過ごされる番ですわ」


 監察院の男たちが、両脇から叔父を抱え起こした。


 助けを求めるように振り返った先で、叔父の連れてきた供回りたちは、とうに壁際まで下がっていた。


「冗談じゃねえ。給金も出ないお尋ね者のお供なんざ、ごめんだね」

「俺たちは雇われただけだ。何も知らねえぞ」


 口々に言い捨てて、誰ひとり叔父と目を合わせようとしない。


 叔父は今度こそ声もなく顔を歪め、引きずられるようにして扉へ向かった。その途中で、首だけをねじってこちらを振り返る。


「ヴィオラ……っ、ヴィオラぁ……!」

「さようなら、叔父様。貴方の操り人形だったヴィオラ・ランカスターは、もうどこにもおりません。ここにいるのは、ヴィオラ・ヴァルデンですわ」


 重い扉が、音を立てて閉じる。


 廊下の向こうから、すすり泣くような声が、長いあいだ遠ざかりながら響いていた。


 その声がすっかり聞こえなくなった瞬間、張りつめていた肩から力が抜けていく。膝がかすかに震えて、私は深く息を吐いた。


◇


「ヴィオラ、大丈夫か」


 アレクシスがすぐに振り返り、腕を差し伸べてくれる。


 私は強がらずに、自分からその大きな手に指を絡めた。分厚くて温かい皮膚に触れた途端、胸がぎゅっと締めつけられる。


 一人で嵐に耐えるしかなかったころとは、もう違う。この人は私の言葉を信じて、隣に並んで立ってくれた。


「ふふ。あんな大口を叩いておいて、いざ終わってみたら、膝が笑ってしまいましたわ」

「いや、見事だった。堂々としていて……眩しいくらいだった」


 照れくさそうに頬を染める彼を見ていたら、こちらまで気が抜けてしまって、私たちはどちらからともなく吹き出した。


「さあ、邪魔された朝食を温め直しましょう」


 繋いだ手をどちらも離さないまま、二人で食堂へ戻る。冷めてしまった紅茶を淹れ直し、残っていた堅焼きパンを焼き直す。そんな小さな作業を二人で分け合えることが、今の私には何より誇らしかった。


「……すまない、ヴィオラ」


 並んで腰を下ろすなり、アレクシスが私の肩に、こつんと額を預けてきた。


「威勢よく前に出たが、あの男の言葉で君がまた傷つくのではないかと思うと、生きた心地がしなかった」


 領主の顔を脱ぎ捨てて、私にだけ見せてくれる、不器用な甘え方。


 私は繋いだ手を握り直し、空いているほうの手で、彼の黒髪をゆっくりと梳いた。


「私がこの焼きたてのパンと、何より大事な旦那様を、手放すはずがありませんでしょう?」


 硬い髪を指に絡めると、彼は耳を真っ赤にして、私の肩口にぐりぐりと額を押しつけてきた。伝わってくる熱い息と体温に、胸の奥が甘く疼く。


 守ってもらった恩や感謝だけで、ここにいるのではない。この不器用で愛おしい人を、もっと深く独り占めしたいのだ。


 叔父は去り、言い訳の契約も破り捨てた。それなら、越えるべき境界はあとひとつしか残っていない。


 ――今夜、この人の寝室を訪ねよう。


 内鍵を掛けて眠れと言われた、あの初夜の意趣返し。今度は私のほうから扉を叩いて、形だけの夫婦を終わらせてみせる。


 温め直した紅茶を口に含みながら、私はこっそりと唇の端を上げた。


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