第12話
執務室での大騒ぎから、五日が過ぎた。
神殿の手続きも王都の邸の契約もすべて取り消され、屋敷には驚くほど穏やかで、少しばかり照れくさい日常が戻ってきていた。
「ヴィオラ、今朝の茶の温度はどうだろうか」
「ええ、完璧ですわ。でもアレクシス様、毎食ごとに私の顔色を窺って望みを訊くのは、少々過保護が過ぎましてよ!」
一人で行き先を決めないと誓ったこの人は、その生真面目さを今度は別の方向に発揮して、私の小さな好みまでいちいち確かめないと気が済まないらしい。
呆れながらも、くすぐったい。焼きたてのパンを半分こしていた、そんな朝の食卓。
それを、けたたましい蹄の音が破った。
激しいノックとともに、いつもは冷静な老執事が、血相を変えて飛び込んでくる。
「旦那様、奥様! 王都より、バルトロメ様がお見えです!」
「叔父が……?」
カップを持つ指先が、一瞬だけ強張った。王都の屋敷の冷たい廊下が、頭をよぎる。
その右手を、隣のアレクシスがためらわずに包み込んだ。
「ヴィオラ。門前払いにすることもできる。顔を合わせたくないなら、私が兵を出して今すぐ追い返そう。……君は、どうしたい?」
私の安全を理由に、勝手に部屋へ押しこめたりしない。まず、私の望みを訊いてくれる。そのことが、冷えかけた胸をかっと熱くした。
「いいえ、逃げも隠れもいたしません。護衛についていただいたうえで、堂々と会います。それに、ちょうど叔父にお伝えしたいこともありますの」
「ああ。君の隣には、私が立つ」
アレクシスは頷くと、老執事に何事か短く言いつけた。執事が一礼して足早に出ていくのを見送ってから、私たちは応接室へ向かった。
◇
扉を開けた途端、上等な毛皮の外套を着込んだ小太りの男が、ソファから立ち上がった。叔父のバルトロメだ。その後ろには、王都で雇ったらしい供回りが三人、所在なげに控えている。
私たちに続いて、アレクシスの護衛が二人、静かに部屋の隅へ立った。
けれど、その姿は記憶の中の叔父と、どこか違っていた。脂ぎった顔は青黒くむくみ、目の下には濃い隈が沈んでいる。旅の疲れだけとは思えない、追い詰められた獣のような目つきだった。
「やあヴィオラ、つまらない意地の張り合いもこれで終わりだな! 商館から聞いたぞ。この貧乏領主に離縁されて、一人で王都へ戻る手はずになっているそうじゃないか」
手配がすべて取り消されたことなど知りもせず、叔父は唾を飛ばしてまくしたてた。
「持参金が戻ったのなら話は早い。役立たずの貧乏貴族に、もう用はないだろう。すぐに私と王都へ帰って、私の決めた相手と再婚するんだ!」
私は、冷ややかに微笑んでみせた。
「あいにくですけれど、叔父様。私が婚姻届を出した時点で、叔父様の後見の権利は消えておりますわ。それに、私がいつ離縁するなどと申しました? 私は自分の意思でアレクシス様の妻を選んで、ここにいるのです」
隣のアレクシスは、私の言葉を遮らない。ただ静かに、叔父を見据えている。
「小娘が、生意気な口をきくな!」
叔父は顔を真っ赤にして卓を叩いた。法で連れ戻せないと分かると、今度は商売と体面を持ち出してくる。
「王都の商館に手を回せば、お前の名義など、どこの取引からも締め出せるんだぞ。社交界じゅうに悪評をばらまかれて、泥棒猫のように生きたくなければ従え! だいたい、こんな北の貧乏貴族にしがみついて何になる!」
かけがえのない夫を蔑むその口ぶりに、胸の奥で冷たい怒りが弾けた。
「飢えのない領地を作るために身を削る領主と、姪の財産を掠め取ることしか能のない親族。どちらが本当に貧しいかなんて、考えるまでもありませんわ」
「な、何だと……」
「それに叔父様。商館に手を回すとおっしゃいますけれど、もう回せる手なんて、残っていないのではありません?」
叔父の顔から、すうっと血の気が引いた。
「王都の商業組合は、ひと月前から叔父様の名義での取引を、すべて止めているはずです。監察院の調べが入ったから。いただいたお返事に、そう書いてありましたもの」
「な……なぜ、お前がそれを……」
「訴え出たのが、私だからですわ」
私は持ってきた紙の束を、卓の上に置いた。
父の商事帳簿の写しと、叔父が組合に出した後見報告の写し。この夏、アレクシスと二人で、夜ごと一行ずつ突き合わせたものだ。
「三年分の帳簿を照らし合わせました。羊毛の取引で出たはずの利益が、叔父様の報告ではすべて損になっている。ありもしない取引相手への支払いが、四十七件。受取人の署名は、どれも同じ筆跡でした」
ひとつ挙げるたびに、叔父の肩が小さく跳ねる。
「父が遺した商会のお金を、叔父様は三年かけて自分の懐へ移していた。監察院に嗅ぎつけられて、帳簿の穴を埋める当てが要るようになった」
叔父の喉が、ひくりと鳴った。
「わざわざ五日もかけて、ご自分でここまでいらしたのは、そのためでしょう? 私の持参金で穴を塞いで、私のことは『決めた相手』――叔父様にお金を貸している方の家にでも、差し出すおつもりだった」
「ち、違う、私は、お前のためを思って……」
「鍵の掛かった部屋に私を閉じこめたのも、私のためですの?」
叔父の口が、ぱくぱくと空を噛んだ。
そのとき、扉が叩かれた。
老執事に案内されて入ってきたのは、灰色の外套に王家の紋章を縫いつけた男たちだった。先頭の一人が、アレクシスに一礼する。
「王立監察院の者です。ランカスター商会の後見財産横領の件で、バルトロメ・ランカスターの身柄を預かりに参りました。王都から姿を消したため足取りを追っておりましたが、門を固めてくださっていたおかげで、取り逃がさずに済みました」
思わず隣を見上げると、アレクシスは小さく頷いた。
訴えから三か月。叔父が自分で北の果てまで来たのなら、追手はすぐ後ろに迫っているかもしれない。叔父の到着を聞いたあの一瞬で、彼はそこまで読んで、門を閉ざすよう執事に命じていたのだ。
叔父は、その場にへなへなと座り込んだ。
「ま、待ってくれ……待ってくれ、ヴィオラ!」
さっきまでの居丈高な態度は、跡形もなかった。叔父は床を這うようにして、私の足元にすがりつこうとする。
「訴えを取り下げてくれ! お前さえ取り下げれば、まだどうにかなるんだ! 私はお前の叔父だぞ、たった一人の身内じゃないか! 兄上が亡くなってから、誰がお前の面倒を見てやったと――」
ドレスの裾に伸びてきた手を、アレクシスが一歩踏み出して遮った。叔父の指は、私に届く前に彼の靴先で止まる。
「私の妻に触れるな」
氷のような声だった。
叔父は床に額をこすりつけた。高価な毛皮の外套が埃にまみれ、むくんだ頬を、汗と涙がぐしゃぐしゃに伝っていく。
「頼む、頼むヴィオラ……このままでは、屋敷も商会も、何もかも取り上げられてしまう……牢になど入れられたら、私は……!」
私は叔父を見下ろした。
怖くはなかった。あれほど大きく見えていた人が、今はただの、小さく丸まった背中にしか見えない。
「叔父様。私が閉じこめられた部屋の扉を叩いて、出してくださいとお願いした夜のことを、覚えていらっしゃいます?」
叔父の嗚咽が、ぴたりと止まった。
「叔父様は一度でも、あの扉を開けてくださいましたか」
答えはなかった。答えられるはずがない。
「取り下げはいたしません。父の遺したものは、一枚残らず返していただきます。――今度は叔父様が、鍵の掛かる部屋で過ごされる番ですわ」
監察院の男たちが、両脇から叔父を抱え起こした。
助けを求めるように振り返った先で、叔父の連れてきた供回りたちは、とうに壁際まで下がっていた。
「冗談じゃねえ。給金も出ないお尋ね者のお供なんざ、ごめんだね」
「俺たちは雇われただけだ。何も知らねえぞ」
口々に言い捨てて、誰ひとり叔父と目を合わせようとしない。
叔父は今度こそ声もなく顔を歪め、引きずられるようにして扉へ向かった。その途中で、首だけをねじってこちらを振り返る。
「ヴィオラ……っ、ヴィオラぁ……!」
「さようなら、叔父様。貴方の操り人形だったヴィオラ・ランカスターは、もうどこにもおりません。ここにいるのは、ヴィオラ・ヴァルデンですわ」
重い扉が、音を立てて閉じる。
廊下の向こうから、すすり泣くような声が、長いあいだ遠ざかりながら響いていた。
その声がすっかり聞こえなくなった瞬間、張りつめていた肩から力が抜けていく。膝がかすかに震えて、私は深く息を吐いた。
◇
「ヴィオラ、大丈夫か」
アレクシスがすぐに振り返り、腕を差し伸べてくれる。
私は強がらずに、自分からその大きな手に指を絡めた。分厚くて温かい皮膚に触れた途端、胸がぎゅっと締めつけられる。
一人で嵐に耐えるしかなかったころとは、もう違う。この人は私の言葉を信じて、隣に並んで立ってくれた。
「ふふ。あんな大口を叩いておいて、いざ終わってみたら、膝が笑ってしまいましたわ」
「いや、見事だった。堂々としていて……眩しいくらいだった」
照れくさそうに頬を染める彼を見ていたら、こちらまで気が抜けてしまって、私たちはどちらからともなく吹き出した。
「さあ、邪魔された朝食を温め直しましょう」
繋いだ手をどちらも離さないまま、二人で食堂へ戻る。冷めてしまった紅茶を淹れ直し、残っていた堅焼きパンを焼き直す。そんな小さな作業を二人で分け合えることが、今の私には何より誇らしかった。
「……すまない、ヴィオラ」
並んで腰を下ろすなり、アレクシスが私の肩に、こつんと額を預けてきた。
「威勢よく前に出たが、あの男の言葉で君がまた傷つくのではないかと思うと、生きた心地がしなかった」
領主の顔を脱ぎ捨てて、私にだけ見せてくれる、不器用な甘え方。
私は繋いだ手を握り直し、空いているほうの手で、彼の黒髪をゆっくりと梳いた。
「私がこの焼きたてのパンと、何より大事な旦那様を、手放すはずがありませんでしょう?」
硬い髪を指に絡めると、彼は耳を真っ赤にして、私の肩口にぐりぐりと額を押しつけてきた。伝わってくる熱い息と体温に、胸の奥が甘く疼く。
守ってもらった恩や感謝だけで、ここにいるのではない。この不器用で愛おしい人を、もっと深く独り占めしたいのだ。
叔父は去り、言い訳の契約も破り捨てた。それなら、越えるべき境界はあとひとつしか残っていない。
――今夜、この人の寝室を訪ねよう。
内鍵を掛けて眠れと言われた、あの初夜の意趣返し。今度は私のほうから扉を叩いて、形だけの夫婦を終わらせてみせる。
温め直した紅茶を口に含みながら、私はこっそりと唇の端を上げた。




