第13話
夜の静けさが、冷え切った廊下に満ちていた。
手提げランプの仄かな灯りが、石の壁と足元を柔らかく照らしている。昼間の騒ぎが嘘のように、屋敷はしんと寝静まっていた。
――なのに、心臓だけが呆れるほどうるさい。
「何を今さら緊張しているのよ、ヴィオラ・ヴァルデン」
小さく呟いて、自分を叱りつける。
叔父はもういない。逃げ道だった契約書も、この手で破り捨てた。あの人が私を大切に思っていることも、私があの人を求めていることも、もう疑いようがない。
けれど、あの人がどれほど誠実で、私が踏み込まなければいつまでも「君を尊重する」なんて聖人ぶって耐え続けかねない人なのかも、この一年で嫌というほど知っている。
だから、最後の一歩は私から。口説き落として、奪い取るのだ。
廊下の突き当たり、寝室の扉の隙間からは、まだ温かな灯りが漏れていた。
深く息を吸って、とん、とん、と二度、扉を叩く。
奥で衣擦れの音がして、間もなく重い扉が静かに開いた。
「ヴィオラ……? こんな夜更けに、どうかしたのか」
上着を脱ぎ、白いシャツの襟元を少し緩めたアレクシスが、目を丸くして立っていた。見慣れない無防備な姿に、思わず喉が鳴りそうになるのを、どうにかこらえる。
「夜分に失礼いたしますわ。でも今夜は、怖い夢の相談でも、お茶の毒味のお願いでもありませんの」
わざと澄ました顔で微笑んで、ランプの持ち手を握り直した。
「ただ、貴方の顔が見たくなっただけ。……追い返します?」
見上げると、彼は息を呑み、一瞬で耳まで赤くなった。うろたえながらも、目は逸らさない。それどころか、切実な熱を帯びて、まっすぐこちらを捉えてくる。
「……そんなこと、できるはずがないだろう」
掠れた声で呟いて、彼は自分から扉を大きく開け、私を招き入れた。
かちゃりと背後で扉が閉まる。暖炉の橙色の光と、すぐそばにある彼の気配が、私を包みこんだ。
ランプを小机に下ろすと、アレクシスは慌てたように椅子を引いた。
「寒かっただろう。そこに掛けてくれ。何か温かいものを淹れてこよう」
うろたえを振り払うように、あくまで紳士的な夫として距離を保とうとする。その頑なさに、愛おしさと呆れが一緒にこみ上げてきた。
「いいえ、結構です」
差し出された椅子には目もくれず、私は一歩、彼に近づいた。
「アレクシス様。私は立派な領主様にお礼を言いに来たのでも、温かい紅茶をねだりに来たのでもありませんの」
「ヴィオラ……?」
「まだお分かりになりません? 私はただ、この不器用で、誰より愛しい人に触れたくて、ここへ来たんです」
言いながら、もう一歩。手を伸ばせば届く距離で立ち止まる。
薄いシャツ越しに伝わってくる体温と、驚きに揺れる鋼色の瞳。視界が、この人だけでいっぱいになった。
私は迷わず手を伸ばし、緩んだ襟元を、指先でくいと引き寄せた。
「白い結婚は、もうおしまいですわ。アレクシス様。――いい加減、私に口説き落とされてくださいな」
挑むように、けれど精いっぱいの願いを込めて囁く。彼は苦しげに息を呑んだ。
次の瞬間、襟をつかむ私の手を、熱くて大きな手のひらが包みこんだ。
「……口説かれるまでもない」
低い声が耳を打つ。アレクシスは自分から、ぐっと私を引き寄せた。
「とっくに、最初から君に狂わされているんだ。誰のためでもない。私の本当の妻として、君を抱きたい」
「望むところですわ、旦那様!」
勝ち誇ったように笑って応えた瞬間、たくましい腕が私の腰を強く抱き寄せた。
身体がぴったりと重なって、眩暈を覚える間もなく、熱い唇に唇を塞がれる。
「ん……っ」
これまでの慎重な気遣いとはまるで違う、飢えたように激しくて、それでいて壊れものを慈しむような口づけだった。
形だけの契約なんて、とうに跡形もなく吹き飛んでいる。私は彼の首に両腕を回し、逃げる気なんてかけらもないと伝えるように、自分から強く抱きしめ返した。乱れた鼓動が二人分重なって、指先まで甘く痺れていく。
「ヴィオラ……もう、絶対に離さない」
名残惜しそうに唇が離れた刹那、アレクシスは熱い息をこぼしながら、私の額に自分の額を押し当てた。間近で見る瞳には、深い情愛と、隠しきれない独占欲が燃えている。
「……ふふ。そんな欲張りなお顔もできるのですね。いつもの謹厳実直な領主様は、どこへ置いてこられましたの?」
急にこみ上げてきた恥ずかしさをごまかしたくて、私は腕の中で軽口を叩いた。頬が、火を噴きそうに熱い。
けれどアレクシスは冗談に逃げなかった。腕の力を少しも緩めないまま、真剣な目で見つめ返してくる。
「からかわないでくれ。君を前にして、冷静な領主でなどいられるものか」
大きな手が、背中を包むように撫でる。耳元に、熱い息が落ちた。
「あの初夜、凍えていた私の手に、温かい茶とためらいのない小さな手を重ねてくれた。あのときからずっと、私は君に心を奪われていたんだ。寒さを忘れさせてくれた君を、手放せるはずがない」
不意打ちのような告白に、今度こそ軽口を封じられてしまった。
厚い胸板から伝わってくる温もりに、私はただ身を預けた。
「……ずるいですわ。そんなふうに言われたら、言い返せなくなるでしょう?」
彼の胸に額をつけたまま、小さく抗議する。
「頑固で、一人で抱え込みがちで、放っておけないくらい不器用な貴方が……たまらなく好きなんです。だから、もう二度と、私を遠ざけたりしないでくださいね」
顔を上げて、いたずらっぽく見据える。
「言っておきますけれど、私、今夜は自分の部屋に戻る気なんて、これっぽっちもありませんからね!」
「ああ。帰すつもりなど、最初からない」
アレクシスは低く笑って、こらえきれなくなったように、私をさらに強く抱きしめた。
私は腕の中で小さく息を整えると、背中に回していた手を下ろし、彼の大きな手に自分の指を深く絡めた。
「なら、これ以上私を待たせないでくださいな」
囁いて見上げながら、彼を誘うように、部屋の奥へ半歩下がる。アレクシスは息を呑み、絡めた指を痛いほど愛おしそうに握り返した。
「……ああ。君のすべてを、私に預けてくれ」
熱を帯びて震える声とともに、彼は迷いなく、私の一歩に続いた。
小机のランプの芯を落とすと、暖炉の橙色の光だけが、重なる二人の影を壁に柔らかく揺らした。寝台の縁に腰を下ろした私を追うように、大きな身体が覆いかぶさってくる。
もう一度重ねられた熱い口づけに、私は全身の力を抜いて、幸せなため息をこぼした。




