第14話
暖炉の薪がぱちりと爆ぜて、橙色の光が寝台の天蓋を淡く染めていた。
私の頬を包むアレクシスの手は、触れたら壊れる硝子細工でも扱うように、おそるおそるだった。その不器用さが、たまらなく愛しい。
「ヴィオラ。もう二度と、君を手放さない」
熱い息とともに落ちてくる囁きに、私は自分から腕を伸ばして、彼の首を引き寄せた。
「手放そうとしたって、許しませんわ。一生、私の隣で笑っていていただきますから」
挑むように微笑むと、鋼色の瞳が切ないほど揺れて、もう一度深く唇が重なった。
形だけの契約を脱ぎ捨てた夜の静けさの中で、二つの影は、暖炉の温もりに溶けていった。
◇
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光に、目を覚ました。
すぐ隣に、アレクシスの寝顔があった。領主の険しさをすっかり脱ぎ捨てた、無防備で穏やかな顔。掛け布の下で、私の指は今も、彼の大きな手にしっかりと包まれている。
――本当に、あの頑なだった境界を越えてしまったのだ。
こみ上げてくる甘い恥ずかしさに頬が熱くなって、私はわざと小さく息を吐いてごまかした。
「……いつまで妻を待たせて眠りこけていらっしゃいますの、私の怠け者の旦那様?」
照れ隠しの皮肉を囁いた途端、彼の長い睫毛が震えた。まどろんでいた瞳が、ゆっくりと私を捉える。
アレクシスは一瞬ぼんやりと瞬きを繰り返して、それから顔をくしゃりと崩した。
「こんなに心地いい朝なら、いくらでも怠け者になってしまいそうだ」
掠れた声で皮肉を受け流しながら、彼は繋いだ手を引き寄せ、私の手の甲に静かに唇を落とした。くすぐったいような熱が、肌を駆け抜ける。
「夢ではないのだな。目が覚めて、いちばんに君がいる。それがこんなに幸せなことだとは、思わなかった」
彼は少しだけ真顔になって、絡めた指に力を込めた。
「ヴィオラ。明日からも、この部屋で一緒に朝を迎えてほしいと頼んだら……我儘だろうか」
「我儘だなんて、どの口がおっしゃいますの!」
私は呆れたように眉を跳ね上げ、握られた手の甲を、わざと軽くつねってみせた。
「そもそも、この私を隣に縛りつけておけるとお思い? 当然、私の荷物はぜんぶこちらへ運ばせていただきます。お気に入りの羊皮紙も、王都から持ってきた父の帳簿も、全部ですわ!」
「ああ、好きなだけ持ち込んでくれ。執務室にも、君の机を新しく並べよう」
アレクシスが嬉しそうに相好を崩すので、私はすかさず釘を刺した。
「ただし、私が一人で本を読みたい時間には、邪魔をなさらないこと。それから、領主様のお仕事を覗いて茶化す時間も、ちゃんと日課に入れていただきますからね」
「それは手厳しいな。だが、喜んで受け入れよう。君の望む暮らしを、二人で作っていくんだ」
甘さに溺れるだけではなく、対等な夫婦として、毎日の決まり事を一緒に編み直していく。その手応えが、誇らしかった。
「さて、いつまでも怠け者の妻でいるわけにはいきませんわね!」
名残惜しさを振り切るように掛け布を払って、私は寝台から足を下ろした。
「待ってくれ、床が冷える。君の湯と着替えを先に頼んでこよう。私の支度など後でいい」
アレクシスが慌てて起き上がり、上着も羽織らずに動こうとする。自分を後回しにする癖が染みついたその背中に、私はため息をついた。
「またそうやって、ご自分を勘定から外そうとなさる! ほら、まずは貴方が袖を通してくださいな」
床に落ちていた彼のシャツを拾い上げて、厚い胸元に押しつける。
「……すまない。つい癖で」
苦笑しながら袖を通すと、彼は私の肩に手を添えて、優しく目を合わせた。
「君の言うとおりだ。これからは、私の都合も君に預けよう。――それで、今朝のパンの端は、君のために切り分けてもいいだろうか?」
「ええ、もちろん! 蜂蜜もたっぷりお願いしますわ」
互いの身なりを整え合って、私たちは並んで扉を開けた。
◇
廊下の先で、朝の見回りをしていた老執事が足を止めた。
「旦那様、奥様、おはようございます」
「おはよう。すまないが、ヴィオラの部屋の荷物を、すべてこちらの寝室へ移す手配を頼みたい。二人で相談して、そう決めた」
アレクシスが努めて平然と告げると、老執事は何ひとつ詮索せず、目尻を柔らかく下げて深々と頭を垂れた。
「かしこまりました。……まことにおめでとうございます、奥様」
含みのある温かな眼差しに、頬が一気に沸騰した。
「あ、あら。ずいぶんと手際がよろしいこと」
精いっぱい澄まそうとする私の腰に、アレクシスがそっと腕を回す。
「そんなに耳まで赤くしていては、強がりも台無しだな」
低く囁かれたからかいに、私は抗議の目を向けるのが精いっぱいだった。
食堂に入ると、アレクシスは当然のように私の隣の椅子を引き、自分もすぐ横に腰かけた。
「さっきのからかいのお返しは、今夜たっぷりさせていただきますから。覚悟なさってくださいね!」
「それは楽しみだ。君の仕返しなら、いくらでも歓迎しよう」
かつての鉄仮面はどこへやら、彼は笑いながら、焼きたての堅焼きパンの端を鮮やかに切り分けた。迷わず私の小皿にのせて、自分から蜂蜜の壺を引き寄せ、金色の雫をとろりと垂らしてくれる。
一年前は、一人で食事をとる彼のところへ、私が無理やり押しかけた朝食だった。今は、この人のほうから私の隣を求めて、温かいものを差し出してくれる。
口説き落としたほうが勝ち。そんな強がりは、もう必要なかった。
「ん……香ばしくて、甘いですわ。やっぱり、貴方に切り分けていただくのがいちばんですわね」
パンの端を頬張って微笑むと、アレクシスは満足そうに目を細めた。
「午前中は交易路の決裁がある。君の時間を邪魔する気はないが、疲れたらいつでも執務室に来てくれ」
「言われなくても、荷解きがひと段落したら冷やかしに参りますわ。午後は中庭の林檎の木でも眺めて、夕方には貴方を迎えに行きます」
「ああ、約束だ。仕事をきっちり片付けて待っている」
テーブルの下で、彼の指が私の指先をすくい上げた。
「日が落ちたら、一緒に夕食をとって……二人の部屋へ帰ろう」
別々に過ごす時間があっても、帰る場所は同じひとつの部屋。その当たり前で贅沢な約束が、胸をじんわりと満たしていく。
「ええ、喜んで。首を長くして待っていてくださいな、私の愛しい旦那様!」
テーブルの下で、節くれだった彼の指をぎゅっと握り返す。
一年前、氷のように冷たかったこの手は、今ではすっかり私の体温と溶け合っていた。
義務でも打算でもない。自分の意思で選び取った温もりを確かめながら、私は温かい紅茶を口に運んだ。




