最終話
同じ部屋で目を覚まし、同じ食卓を囲み、日が落ちれば同じ寝台へ帰る。そんな毎日が、すっかり私たちの当たり前になっていた。
叔父が連れて行かれてから、ふた月。北の地には本格的な冬が来て、執務室の窓の外には、音もなく雪が降り積もっている。けれど暖炉の火が赤々と燃える部屋の中は、寒さを忘れるほど暖かかった。
大きな執務机に寄り添うように、新しく誂えてもらった私の机が並んでいる。父の帳簿を広げた私の横で、羊皮紙にペンを走らせていたアレクシスが、ふと顔を上げた。
その瞳に、かつての張りつめた険しさは、もうどこにもない。
「ヴィオラ、ここまでにしよう。少し手を休めて、茶にしないか」
自分からペンを置いて立ち上がる。朝から晩まで食事も忘れて書類に埋もれていた人が、自分から休もうと言い出すのだから、たいした進歩だ。
「まあ。あの仕事熱心な領主様が自分から筆を置くなんて、明日は大雪でも降るのかしら……あらいけない、もう外は真っ白でしたわね!」
「からかわないでくれ。君の淹れた茶を、早く飲みたかっただけだ」
そこへ扉が叩かれ、老執事が二通の手紙を銀盆にのせて入ってきた。
「奥様宛てに、王都から届いております。監察院からと……もう一通は、その」
言葉を濁した執事から受け取った一通目には、王立監察院の封蝋が押されている。
中身は、叔父の裁きの知らせだった。
横領はすべて認められた。叔父の屋敷も私財も商会の持ち分も、残らず差し押さえられて私への返済に充てられる。父の商権は正式に私の手に戻り、叔父には、北方の鉱山での十年の労役が言い渡されたという。
裁きの場で、叔父は最後まで私の名を呼んで、許しを請い続けていたそうだ。
「……鉱山の宿舎は、夜になると外から鍵が掛かるそうですわね」
ぽつりと言うと、アレクシスは何も言わずに、私の肩を引き寄せてくれた。胸の奥にずっと刺さっていた古い棘が、ようやく抜け落ちた気がした。
二通目は、便箋三枚にわたる、見覚えのある乱暴な筆跡。ジェラルドだ。
叔父から私の持参金を分けてもらえるつもりで、賭場で借金を重ねていたこと。叔父の失脚で債権者が押し寄せ、屋敷を追われたこと。実家からも縁を切られ、今は港で荷揚げの日雇いをしていること。
そして最後に、『昔のよしみで、どうか少しばかり用立ててもらえないだろうか』と、震える字で書き添えてあった。
「昔のよしみ、ですって」
思わず笑ってしまう。あの市場で、私の腕をつかもうとした人が、どの口で。
「返事は書くのか?」
「ええ、今すぐに」
私は便箋をたたみ直すと、暖炉の前に立って、炎の中へ落とした。三枚の紙はあっという間に縁から黒く縮れて、灰になって崩れていく。
「これが返事ですわ。灰なら、どこへでも飛んでいけますもの」
「……君を怒らせるのだけは、やめておこう」
「あら、賢明なご判断ですこと」
顔を見合わせて、私たちは小さく笑った。
◇
湯気の立つ琥珀色のお茶を、二つのカップに注ぐ。
「どうぞ、冷めないうちに」
カップを受け取ったアレクシスは、空いたもう一方の手で、ためらいなく私の指先を包み込んだ。
分厚くて、じんわりと温かい。
一年前の初夜、凍えるほど冷たかった手とは、まるで違っていた。
「覚えていらっしゃいます? あの晩、私が強引にお茶を淹れて差し上げなかったら、貴方は今ごろ凍りついていましたのよ」
「ああ、よく覚えている。あのときからずっと、君の手の温もりに救われてきた」
アレクシスは目を細めて、私の指に自分の指を絡めた。
カップを手に、二人で窓辺へ寄る。見下ろす街並みは一面の雪に覆われていたけれど、家々の煙突からは、いく筋もの白い煙が穏やかに立ちのぼっていた。蓄えた薪と麦が、人々を寒さから守っている証だった。
「見てくださいな。誰も明日のパンに怯えずに、温かい火を囲んでいますわ」
「ああ。……それに、彼らの暮らしを守るだけでなく、私自身がこうして温かい茶を飲んで、君と笑い合っている。昔の私には、想像もできなかった幸せだ」
「誰か一人が犠牲になる平和なんて、私はごめんですもの。荷物は半分ずつ。貴方が自分を幸せにすることを諦めないでいてくださるから、私もここで笑っていられるんです」
私は彼の手の甲に指を滑らせて、見上げた。
「それで? 領主としてではなく、一人の男の人としての、貴方の望みは何かしら」
アレクシスは照れたように口元を緩めて、絡めた指に力を込めた。
「春が来たら、中庭の林檎の木の下で、二人で茶を飲みたい。満開の花の下で、あの麦畑のときよりも、もっと長く君の手を握っていたい」
「まあ、可愛らしい望みですこと。ええ、必ず叶えていただきますわ」
「では、君の今の望みは? 春を待たなくても、私にできることなら何でも言ってくれ」
真剣な目で訊かれて、私はわざと大げさに考えるふりをした。
「そうですわねえ……」
唇を尖らせて、彼の胸元を人差し指でとんとつつく。
「今夜の夕食で、パンの端を全部私に譲っていただくこと。一口だって、貴方にはあげませんから」
「そんな小さな我儘でいいのか? いくらでも譲ろう」
アレクシスは笑って、私のカップを受け取った。自分の分と一緒に窓辺の小机へ置くと、空いた両手で私の腰を引き寄せる。
「では、私からもひとつ我儘を言わせてもらおう。仕事に戻る前に……妻からの口づけがほしい」
不意打ちの甘いおねだりに、心臓が跳ね上がった。
「まったく、いつからそんなにおねだりがお上手になられましたの!」
文句を言いながら、私は彼の上着の襟をきゅっと握り、背伸びをして、自分から唇を重ねた。
触れるだけの、淡い口づけのはずだった。なのに唇を離した途端、全身がかっと熱くなる。
「……これで、ご満足いただけまして?」
精いっぱい澄ました顔で見上げると、アレクシスはこらえきれないというように顔をほころばせた。
「ああ。これ以上ないくらい満たされた。……だが、耳まで林檎のように赤くした妻を見ていると、狂わされているのが私だけではないと分かって、安心するよ」
「なっ……! どこを見ていらっしゃいますの、意地悪!」
熱くなった顔を手で覆おうとすると、彼は低く笑いながら、その手をやさしく捕まえて指を絡めてきた。
「勝った負けたと言い合っていても、結局はお互い、底なしに惚れ抜いているんだ。おあいこだろう」
「……もう、そういうところですわよ!」
睨みつけながらも、こみ上げてくる笑みは隠せなかった。
◇
机に戻ると、私は引き出しから、真新しい羊皮紙を一枚取り出した。
「アレクシス様。せっかくですから、新しい契約を結びませんこと?」
「契約?」
怪訝そうな彼の前で、私はペンを走らせた。
一、夫は、一人で荷を背負い込まないこと。
一、朝食のパンの端は、妻のものとする。
一、妻は、夫を口説き続けること。
期限は、定めない。
書き終えた羊皮紙をくるりと回して差し出すと、アレクシスはしばらく黙って文面を眺め、それからこらえきれないように吹き出した。
「そういえば、一年前に白い結婚を言い出したのは、君のほうだったな」
「ええ。ですから責任を持って、私の手で終わらせて差し上げましたの」
彼は笑いながら羽ペンを取った。
一年前、迷いを断ち切るように署名した手が、今度は迷う理由などひとつもないというように、私の名前の隣へまっすぐに名前を書き入れる。
「期限がないということは、完済の日が来ない借りだな」
「ええ。利息もたっぷりいただきますから、一生かけて払ってくださいな」
「望むところだ。一生では足りないかもしれないが」
ペンを置いた彼の手が、羊皮紙の上で私の手に重なる。並んだ二つの署名を見つめて、私は笑った。
白い結婚を言い出したのは、私。終わらせたのも、私。
だから、口説き落としたこの人を一生手放さないと決めるのも、私だ。
「覚悟なさってね、旦那様。この契約に、完済の日は来ませんから」
窓の外では、雪が静かに降り続いている。暖炉の火がぱちりと爆ぜて、重なった二人の手と、並んだ二つの名前を、橙色に照らしていた。
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