第8話
本邸に帰り着いたその夜、山あいに垂れこめていた雲は、猛烈な吹雪に変わった。
頑丈な石造りの屋敷が軋むほど、凍てついた突風が外壁を打ちつけている。暖炉には赤々と薪が燃え、寝室の内鍵もきちんと掛けてあった。それなのに、窓枠ががたがたと鳴るたび、私の指先は嫌な冷たさを帯びて強張っていく。
『おとなしく従うと言うまで、そこから出さんぞ、ヴィオラ! 干からびるまで、その部屋で頭を冷やしていろ!』
吹き荒れる風の唸りに混じって、王都で叔父に浴びせられた怒鳴り声が、耳の奥でよみがえった。
逃げ場のない小部屋。外から掛けられた鍵。従うと言うまで出してもらえなかった暗闇。
あれはもう終わったことだ。ここはヴァルデンで、私は自分の意思でこの場所を選んだ。昼間、肩を貸してくれた人の温かさを思い出して、必死に自分に言い聞かせる。
けれど、あの人に心を許して、張りめぐらせていた強がりの鎧を緩めてしまったからだろうか。冗談の裏に押し込めていたはずの怯えが、堤を失った水のように胸の中へ流れ込んでくる。
「……平気ですわ。こんなもの、ただの風ですもの」
毛布を引き上げて、誰に聞かせるでもなく呟いてみる。膝を抱えた爪先は、どれだけ暖炉の火を見つめても震えが止まらなかった。
膝を抱えて耐えるだけの夜は、王都に置いてきたはずだ。拒まれるのが怖くても、あの人の隣を望むと決めたのは、私自身だった。
意を決して寝台を抜け出したとき、廊下から規則正しい足音が聞こえてきた。こんな荒れた夜に屋敷の戸締まりを見て回っているのは、あの人しかいない。
「……アレクシス様?」
扉のそばへ駆け寄って呼びかけると、足音がぴたりと止まった。
「ヴィオラか? 風がひどいが、どこか窓でも軋んだのか」
扉越しに返ってきた落ち着いた声に、凍りついていた息がわずかにほどける。私は内鍵を外し、重い扉を自分の手で内側から引いた。
手提げランプの灯りの中で、アレクシスが驚いたように立っていた。けれど彼は、敷居の外でぴたりと足を止めたまま、一歩も入ってこようとしない。
「あ、あの……少し、お茶の毒味でもしていただこうかと思いまして。悪妻の夜這いだなんて、笑われますかしら」
いつものように軽口で取り繕おうとしたのに、唇は情けなく震えて、掠れた声が夜気に溶けた。
真夜中の妙な申し出なのに、アレクシスは理由を問いただそうとしない。青ざめた私の顔を見て、痛ましそうに目を揺らしているだけだった。
「……嘘です。また、くだらない強がりを言いました」
私はうつむいて、冷え切った自分の指を握りしめた。
「今夜は、どうしても一人が怖いのです。身勝手なお願いだと分かっています。でも、アレクシス様。部屋に入っていただけませんか」
震える声で差し出した本音に、アレクシスは息を呑み、真剣な目で私を見つめ返した。
「本当に、私が入ってもいいのか」
「……はい。入ってください」
私が頷くのを確かめてから、彼はランプを手に、静かに敷居を越えて扉を閉めた。むやみに距離を詰めることはせず、暖炉のそばの肘掛け椅子に腰を下ろす。
薪のはぜる音に背中を押されるようにして、私は寝台の端に腰かけたまま、口を開いた。
「風の音が……叔父の怒鳴り声に似ていて。部屋に閉じ込められて、外から鍵を掛けられた日の暗闇が、どうしても頭から離れないのです」
アレクシスは問い詰めることも、憐れむこともしなかった。黙って、私の次の言葉を待ってくれていた。
「あの日、鍵を掛けられた暗闇の中でも、絶対に泣くものかと思っていました。弱いところを見せたら叔父の思うつぼだから、扉の向こうの叔父を、笑って見下してやるつもりで……。なのに今夜は、どうしても一人で立っていられなくなってしまって」
膝の上の指が、情けなさに縮こまる。
「貴方が領民のためにどれだけの荷を背負っているか、知っているから。私まで、貴方の重荷になりたくなかったのに」
アレクシスは椅子から立ち上がった。ゆっくりと歩み寄り、寝台の脇に片膝をつく。見上げてくる瞳に、呆れや説教の色はかけらもなかった。
「君は重荷などではない。今日、あの冷たい泥の中で私の荷を半分背負ってくれたのは、君だ。救われたのは私のほうだ」
低く穏やかな声とともに、大きな右手が私の前に差し出された。
握れとは言わない。取るかどうかを、私に委ねてくれている手だった。
私はその手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「お願いです、アレクシス様。……今夜だけ、私の手を握っていてくださいませんか」
張りつめていた糸が切れて、ぽろぽろと涙がこぼれた。もう、冗談でごまかすことはできない。
アレクシスは膝を起こすと、そばにあった木の椅子を、寝台のすぐ脇まで引き寄せた。腰を下ろし、冷え切った私の両手を、熱を帯びた大きな手のひらで包み直す。
「ああ、ここにいる。君が眠るまで――いや、夜が明けるまでずっといる。もう二度と、君を一人にはしない」
低く力強いその声は、暗闇に灯る祈りのようだった。
窓の外では、相変わらず吹雪が唸りを上げ、ときおり屋敷を軋ませている。怖さが魔法のように消えてなくなるわけではない。不意の風音に身体がすくむたび、重ねた手から、ぎゅっと強い力が返ってきた。
痛いくらいのその握り方が、冷たい記憶の底から私を引き戻して、今ここにある安全へと繋ぎとめてくれる。
彼の手を握ったまま、私はゆっくりと身体を横たえ、毛布を胸元まで引き上げた。
「一晩じゅうそんな硬い椅子に座っていたら、明日のお身体に障りますわ」
「頑丈なのが取り柄だと言っただろう。それに、義務や同情で言っているのではない。私が、ここにいたいんだ」
迷いのない目で見つめ返されて、強張っていた唇に、ふっと笑みが戻った。
「ふふ。そんなふうに堂々と居座られたら、調子が狂ってしまいますわね。私が貴方を口説き落とすはずでしたのに、これではまるで、私ばかりが落とされているみたい」
からかうように言ってみせたけれど、それは紛れもない本心だった。
繋いだ手から伝わる脈と体温が、嵐の音を少しずつ遠ざけていく。胸のざわめきが静かに溶けて、意識がゆっくりと、心地よい眠りの底へ沈んでいった。
「……落とされているのは、私の方だ」
意識を手放す寸前、風の音に紛れて耳元に落ちてきた呟きは、ひどく低くて、切実だった。
◇
カーテンの隙間から白い朝の光が差し込むころ、私は柔らかな温もりの中で目を覚ました。
指先は、まだ大きな手に包まれたままだった。どうやらこの人は、本当に夜明けまで一度も、私の手を離さなかったらしい。
寝台脇の硬い椅子に背を預け、私の手を握ったまま、アレクシスは静かな寝息を立てていた。いつもの険しさがすっかり抜けた、無防備な寝顔。見つめているだけで、胸がきゅっと締めつけられる。
ただ守られるだけでは終わりたくない。いつかこの人がすべての荷を下ろして、心から息をつける場所に、私がなりたい。
繋いだ手の温かさを確かめながら、冬の朝の静けさの中で、私はそう願った。




