第7話
あの朝の約束から三週間。ヴァルデンの山裾は、すっかり白く雪をかぶるようになっていた。
どれだけ書類に追われていても、朝食の席には必ず顔を出すこと。淹れたてのお茶は、せめて一口は飲むこと。
毎朝の『口説き』という名のしつこい催促のおかげで、そんな小さな決まり事が、この屋敷の新しい日常になりつつある。
「ヴィオラ。本当に馬車に残らなくていいのか。昨夜の霜で道はひどくぬかるんでいるし、風も刺すように冷たい」
ところが、いざ屋敷の外の仕事となると、この頑固な辺境伯の悪い癖が顔を出す。
前庭で外套の留め金を直しながら、アレクシスは困ったように眉を寄せて私を見下ろしていた。乗馬用の丈夫な革靴に、毛皮の裏地がついた外套。執事が手配してくれた防寒は完璧なのに、まるで私が一歩外へ出ただけで割れてしまう硝子細工であるかのような警戒ぶりだ。
「何度同じことをおっしゃるの。どうしても連れて行きたくないなら、今ここで全力で袖にしがみついて、お邪魔して差し上げますけれど?」
「……勘弁してくれ。君なら本当にやりかねない」
ため息をつきながらも、彼は手袋越しに私の襟元へ手を伸ばし、風が入らないよう丁寧に整えてくれた。
口では義務だ責任だと言いながら、指先ひとつにまで過保護がにじみ出ている。この背中を、一人で泥道へ行かせるわけにはいかない。
◇
護衛の騎兵を伴った馬車に揺られて、二刻ほど。霜で白く凍った街道を抜けて、山あいの小さな農村に着いた。荷車が刻んだ深い轍がぬかるんで、馬車はそれ以上進めない。ここから先は、歩いて見て回ることになった。
「閣下、こんな寒空の下まで、わざわざ……」
出迎えた初老の村長に、アレクシスは気取らない調子で頷いた。
彼はまず越冬用の共同貯蔵庫へ足を運び、隙間風を防ぐ目張り板、積み上げた薪の乾き具合、麦袋の湿り気を、ひとつずつ自分の手で確かめていく。
あの朝に聞いた『飢えのない土地』は、机の上の空論ではなかった。乾いた薪や明日の糧になる麦袋という、手で触れられるものとして、ちゃんとここに息づいている。その姿を見ているうちに、胸を突かれたような気持ちになった。
「この先の坂は崩れかけている。足元に気をつけろ」
凍った泥で足を取られる坂道でも、アレクシスはいつも私の半歩前を歩き、冷たい山風を背中で遮ってくれた。
水路の補修に使う重い角材が届くと、人手が足りないのを見て取って、自分から真っ先に肩に担ぎ上げる。
けれど、夜明け前から執務を重ねてきた疲れは、頑丈な彼の身体も確実に削っていた。吐く息がわずかに乱れている。角材を支える手袋の指先が、小さく震えているのが見えた。
乾いた脇道で待つよう言われていた私は、迷わずぬかるみに足を踏み入れた。冷たい泥が靴底に吸いついて重い。それでも足は止めなかった。
「ヴィオラ、何をしている! 戻れ、ここは――」
青ざめるアレクシスを手で制して、私はそばに控えていた護衛と村の若者に合図を送った。二人に角材のもう一方の端を支えさせると、彼一人にかかっていた重みが目に見えて軽くなる。
私に、太い角材を担げるほどの腕力はない。だから泥だらけになるのも構わず、縄や留め金具を両腕に抱えて、作業する人たちの手元へ次々に差し出す役を買って出た。
「お屋敷で待っているだけの妻はお断りだと、申し上げましたでしょう? ねえアレクシス様、夫婦の荷物は半分ずつ背負うものですわ」
冷たい風の中で笑いかけると、彼は呆気にとられたように息を呑んだ。
一瞬、眉根を寄せて迷うような顔をしたあと、肩の強張りを解いて、短く息を吐く。
「……すまない。そっちの端を、しっかり押さえていてくれ。ヴィオラ、いちばん太い留め具を頼む」
一人で背負い込むのをやめて、彼が初めて、周りに――私に、はっきりと助けを求めた。
「はい、これですわね」
もちろん、王都育ちの私の手つきが慣れたものであるはずもない。縄の結び方に手間取っていると、村のおかみさんが「奥様、こうやって二重に輪を掛けるんですよ」と教えてくれる。私は泥まみれのまま頷いて、教わったとおりに必死で指を動かした。
水路の補強がひと区切りついたころには、冬の鈍い日差しが西へ傾きはじめていた。
「……すまない。君の外套も靴も、泥だらけにしてしまったな」
私の足元を見て申し訳なさそうに謝りながら、彼の手は素直にこちらへ伸びてきた。手袋を外した指先で、頬についた泥を拭われる。
「だが、君が隣にいてくれて、本当に心強かった。……嬉しかったんだ」
頬に触れる指の熱と、飾り気のない本音。いつもなら軽口で返せるはずの舌が、すっかり固まってしまった。
口説き落とす側だったはずなのに、心臓が痛いほど跳ねて、顔に血がのぼるのを止められない。
「あ、あの、閣下、奥様! 身体が冷えたでしょう、温かい麦湯をどうぞ!」
村長が湯気の立つ椀を運んできた瞬間、私たちは弾かれたように離れた。アレクシスは耳まで赤くして咳払いをし、私も取り繕った笑顔でお礼を言うのが精いっぱいだった。
◇
帰りの馬車の中には、規則正しい車輪の軋みだけが響いていた。
「ヴィオラ。君こそ、疲れていないか」
薄暗い車内で、アレクシスが静かに訊いてきた。気づけば、手袋を外した彼の手が、冷えた私の指先を包むように重ねられている。
「慣れない作業で、冷たい泥の中にまで入らせてしまった。頑丈さだけが取り柄の私と違って、君はひどく疲れただろう」
「王都のか弱い令嬢と一緒にしないでくださいな」
いつもの調子で強がろうとしたのに、指先から伝わってくる熱に、言葉が喉の奥でほどけていく。
誰かに弱みを見せたら付け込まれる。ずっとそう信じて、身構えて生きてきた。けれど、不器用に手を差し伸べてくれるこの人の前でなら、背負い込んできた強がりを少しだけ下ろしてもいいのかもしれない。
「……でしたら、少しだけ責任を取ってくださいな」
小さく息をついて、私は彼の外套の肩に額を預けた。
アレクシスの身体が、一瞬だけ強張る。けれどすぐに、戸惑いを溶かすような深い息とともに、私の重みを受け止めてくれた。
持参金への恩義でも、守るべき相手への義務でもない。隣にいてほしいと、一人の人として請われた。その重みが、胸の芯をじわりと溶かしていく。
まだ口づけも、本当の告白も交わしていない。それでも、冷たい契約の檻の向こうにあった彼の心は、私の手の届くところまで降りてきていた。
馬車の小窓の外では、いつの間にか鉛色の雲が低く垂れこめていた。山あいの木々が、不穏な風に大きく揺れている。荒れ模様の気配が車窓を震わせていたけれど、寄り添った肩の温かさだけは、どんな寒風にも脅かされそうになかった。




