第6話
翌朝、朝食の鐘が鳴り終えて半刻が過ぎても、アレクシスは食堂に現れなかった。
「閣下は夜明け前から、書類と格闘しておられます」
苦笑まじりの老執事からそう聞いた私は、湯気の立つお茶を盆にのせて、迷わず執務室の扉を叩いた。
「入れ」
短く返ってきた声が、妙に硬い。昨夜の動揺がまだ尾を引いているのが分かって、思わず口元が緩んだ。
扉を開けると、北向きの窓から差し込む淡い朝の光の中で、アレクシスは帳簿の山に埋もれていた。軍服の襟元はもうきっちり留めてあるけれど、目の下にはうっすらと隈が浮いている。
「失礼いたしますわ、アレクシス様」
私が足を踏み入れた途端、羽ペンを走らせていた手がぴたりと止まった。こちらを見た彼の喉が、小さく上下する。
昨夜の扉越しの宣言を、この人は一晩じゅう忘れられなかったらしい。
「ヴィオラか。朝食なら、私はもう――」
「一口も召し上がっていないと、伺っておりますわ」
足を緩めずに歩み寄り、帳簿の隙間に盆を滑り込ませる。
机を回り込んで隣に立つと、軍服の上からでも、両肩がおそろしく張りつめているのが見て取れた。徹夜明けの疲れと、私を意識しすぎている緊張とで、大きな背中が鉄板みたいに強張っている。
「そんなに肩を怒らせてペンを握っていたら、せっかくの頑丈なお身体も持ちませんわ」
「気にするな。いつものことだ」
「帳簿の話ではなく、貴方ご自身の話をしているんです。……少し、触れてもよろしいですか?」
アレクシスが、ぎょっとしたように目を見張った。視線が、私の手元と宙のあいだを忙しく行き来する。
「触れるとは、何を」
「ただの肩揉みですわ。それとも、妻の手に触れられるのが怖いのですか?」
「……馬鹿を言うな。そんなわけがあるか」
意地を張って顔を背けた彼の背後へ、私は回り込んだ。
「では、おとなしく背中を預けてくださいな」
言いながら、その広い両肩に手をのせる。
体重をかけて揉みほぐしはじめると、大きな背中がびくりと震えた。本当に、石のように固い。
「っ……ヴィオラ」
「動いては駄目です。まあ、なんて凝り方。ねえアレクシス様、たまには妻の誘惑に負けて、少し休んでくださいません?」
耳元で囁くと、彼は首筋をうっすら赤くして、困り果てたように息をこぼした。
「これを誘惑と呼ぶ令嬢が、王都のどこにいる」
「ここにおりますわ。ほら、ちゃんと効いているでしょう?」
苦笑しながらも、彼は私の手を払いのけなかった。しばらく黙って指の動きを受け止めていたかと思うと、ふいに、自分から肩の力を抜く。
かたり、と羽ペンが机に置かれた。
「……少しだけだ。君の淹れた茶が冷めるまでの間だけだぞ」
そう呟いて、アレクシスは椅子の背にもたれかかった。いつも張りつめていた人が、私の差し出した休息を受け入れて、湯気の立つカップに手を伸ばしている。
肩から手を離し、私は机の脇に回って、彼と目の高さを合わせた。
「アレクシス様。貴方はこのヴァルデンを、本当はどんな領地にしたいのですか?」
両手でカップを包んでいた彼が、湯気の向こうで目を伏せた。遠い冬の記憶を手繰り寄せるような、静かな声だった。
「昨年の冬、穀物を配って回った村で、小さな女の子が母親の袖を引いて泣いていた」
それは領主の義務の話というより、一人の青年の古傷のように聞こえた。
「泥水みたいに薄い粥の椀を、母親は自分では口をつけずに娘に差し出していた。その子が私を見上げて、『領主様、春になったらお腹いっぱいパンを食べられる?』と訊いたんだ。……私は、何も約束してやれなかった」
カップを包む指に、ぎゅっと力がこもる。
「どれだけ雪が深くても竈の火を絶やさず、誰もが明日のパンの心配をせずに眠れる土地にしたい。飢えのない領地を作ること。それが、私のただひとつの願いだ」
「……とても、温かくて強い願いですわ」
私は静かに頷いてから、小さく首を横に振った。
「でも、アレクシス様。その『誰もが』の中に、貴方ご自身の食事と眠りも、ちゃんと入れてくださいね」
「私のことなど――」
「私が嫌なんです」
遮るように言うと、彼は驚いたように目を見張った。私は机に手をついて、逃げ道を塞ぐように覗き込む。
「領民がお腹いっぱいパンを食べて笑っていても、貴方が一人で冷えた部屋に籠もって、食事も抜いて倒れてしまったら意味がありません。私は、その春の景色を、笑っている貴方の隣で見たいの」
お金を貸しただけの相手で終わりたくない。貴方が一人で抱え込んでいる無理を、一緒に減らせる相手になりたい。その思いを込めて、まっすぐ見つめた。
アレクシスは言葉を失ったように私を見つめ返して、喉を小さく鳴らした。
「……君は、本当に厄介な妻だな」
ぶっきらぼうにこぼれた声は、低くて、けれど温かかった。
彼は深く息を吐くと、書類を端へ押しやって立ち上がった。
「……腹が減ったな」
ぼそりとした一言に私が瞬きをすると、彼は視線を逸らして、照れ隠しのように首の後ろを掻いた。
「食堂に何か用意させよう。ヴィオラ、君も来て、隣に座っていてくれないか」
義務のための休息ではない。私と一緒にいたいという、彼自身のささやかな望みだった。
口説き落としに来たのは私のほうなのに、そんな不器用な誘い方をされたら、こちらの調子が狂ってしまう。頬が緩むのを隠しきれなかった。
「ええ、喜んで。お腹いっぱいになるまで、ずっと隣で見張って差し上げますわ」
◇
食堂で湯気の立つ椀を抱え、アレクシスは温かいスープをしっかりと平らげていった。その横顔を隣から眺めながら、私は切り出した。
「アレクシス様。さっきお話しくださった村へ、次の視察のとき、私も連れて行っていただけませんか?」
スプーンを置いた彼が、目を丸くした。
「農村にか? 街の大通りとは違う。道はぬかるむし、風は刺すように冷たい。王都育ちの君を連れて行く場所ではない」
「お屋敷で温かいお茶を飲んで待っているだけでは、貴方が何を背負って、何を守ろうとしているのか分かりません。貴方の願いの現場を、この目で知りたいのです」
ただ世話を焼きたいのではなく、同じ景色を見たい。そう伝えると、彼は困ったような、それでいて嬉しそうな顔で息をこぼした。
「頑固なところは、私以上だな。分かった。ただし、防寒を万全にすること。それと、絶対に私のそばを離れないこと。これが条件だ」
「ええ、仰せのとおりに」
差し出された約束を胸に抱いて、私は笑い返した。冷え込む朝の食堂が、いつもよりずっと暖かく感じられた。




