第5話
空になった小皿の上で、スプーンが触れ合って澄んだ音を立てた。
「……美味かった。礼を言う」
口元を拭ったアレクシスは、さっきまでの少年のような表情を、すっと消してしまった。無防備な顔を見せすぎたと、慌てて自分を戒めるみたいに。
「夜分に長居をさせてすまなかった。明日に障る。部屋へ戻って休むといい」
銀盆へ伸ばしかけた私の指を避けるように、彼は素早く手を引いた。
あからさまな拒絶ではない。けれど、これ以上距離を縮めてはいけないと自分に言い聞かせているような、ひどくぎこちない後退だった。
「アレクシス様?」
「護衛を呼ぼう。ここは王都と違って夜が冷える。君の部屋の暖炉にも、薪を足すよう言っておく」
私をまっすぐ見ているのに、その目の奥に、分厚い硝子が一枚はめ込まれたようだった。昼間、市場で私を庇ったときの熱を、何食わぬ顔で凍らせようとしている。
本当に、絵に描いたような生真面目さ。
契約を守ることが私の尊厳を守ることだと信じ込んで、自分の中に芽生えた揺らぎまで、義務の重石で押しつぶそうとしている。呆れると同時に、たまらなくもどかしかった。
「お気遣い、痛み入りますわ。閣下」
そうやって線を引けば、私がおとなしく引き下がるとでも?
私は微笑みを崩さないまま、静かに席を立った。
「護衛は結構です。アレクシス様が、私の部屋の前まで送ってくださいな」
「私が?」
彼は戸惑ったように瞬きを繰り返した。
「だが、もう遅い。一日歩き回って疲れているだろう。それに、まだ書類の整理が――」
「書類は逃げませんわ。これはお願いではなく、私の望みです。誰の目もない夜くらい、護衛ではなく、夫である貴方の隣を歩いて帰りたいの」
まっすぐ見つめ返すと、彼は反論を呑み込むように喉を鳴らし、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。足元が暗い。ランプを持とう」
手提げランプを提げた彼と並んで、静まり返った石の廊下へ出る。冷えた夜気の中、彼は何も言わずに、私の歩幅に合わせて歩みを緩めてくれた。
壁に揺れる二人の影を眺めながら、私は口を開いた。
「アレクシス様。昼間、嬉しかったです」
「何がだ」
「ジェラルド様の手を止めてくださったとき、私の言葉を遮らずに、隣で盾になってくださったこと。私の意思を取り上げないまま守ってくださったのが、とても」
横目で窺うと、アレクシスは前を向いたまま足を止め、ランプの持ち手をきしりと握りしめた。炎が、固く結ばれた唇と、うっすら染まった耳を照らしている。
「当然のことをしたまでだ。あの場で戦っていたのは君だ。私が横から口を挟む筋合いはない」
早口に返された声は、どこか硬くて、少しだけ震えていた。
樫の扉の前で、アレクシスはぴたりと足を止めた。
ドアノブには指一本触れようとしない。ランプで私の足元だけを照らし、二歩ほど手前に下がった位置で立ち止まる。
「着いた。中に入ったら内鍵を掛けて、暖かくして寝るといい」
私の領域には、決して踏み込まない。初夜に交わした約束どおりの節度だ。
その誠実さを愛おしいと思う一方で、胸を細い針でつつかれたような痛みが走った。
私はノブに手を掛けず、ゆっくりと彼に向き直った。
「送ってくださって、ありがとうございます。……ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「執務室でも、今も。私が近づこうとするたびに、どうして半歩下がってしまわれるの?」
静かな廊下に、衣擦れの音さえ吸い込まれていく。
アレクシスは視線をさまよわせ、ランプの持ち手をまた軋ませた。
「君をこの厳しい土地に連れてきたのは、私だ。これ以上、私の都合で君の領域に踏み込むわけにはいかない」
「それは貴方の『義務』でしょう? では、私の『望み』はどこへ行けばいいのです」
見上げると、彼の喉仏が小さく上下した。
「私が自分の意思で、貴方の隣にいたいと思うことまで、拒まれるのですか?」
「拒んでいるわけではない」
アレクシスは苦しげに顔を歪めて、吐き出すように言った。
「ただ、困るんだ。君にそんなふうに踏み込まれたら、私は……君を尊重する男でいられなくなる」
心臓が、大きく跳ねた。
鉄の鎧の下に押し込められていたものの正体を、いきなり突きつけられた気がした。喉がからからに渇いていく。
いつものように「まあ、私の魅力に当てられてしまいました?」とおどけて、煙に巻くこともできた。そうすれば、これ以上踏み込む怖さからも、拒まれる怖さからも逃げられる。
けれど、目の前で唇を噛む彼を見て、私はその狡い逃げ道を捨てることにした。
「アレクシス様」
私はゆっくりとノブを回し、部屋の中へ半歩下がった。追い詰めたいわけではない。望みを伝えることと、相手に強いることは違う。それを、言葉ではなく行動で示したかった。
「私は、貴方に無理をさせたいわけではありません。我儘で困らせたいわけでも、誓いを破らせたいわけでもないの」
細く開けた扉の隙間から、ランプの灯りに揺れる瞳を見つめる。
「ただ、これだけは知っていてください。私が貴方の隣を望むのは、恩返しの打算でも、気まぐれでもありません」
ことりと、扉を閉めた。
厚い板一枚を隔てた向こうに、彼の張りつめた気配がまだ残っている。
私は内鍵には触れずに、冷たい扉に右の手のひらを押し当てた。
足音が遠ざかる気配はない。彼は立ち去ることもできずに、扉の前に立ち尽くしている。
顔は見えない。けれど、だからこそ言える気がした。
私は大きく息を吸って、扉に向かってはっきりと告げた。
「アレクシス様」
返事はない。ただ、衣擦れの音がぴたりと止んだ。
「私は、形だけの妻として守られて終わるつもりはありませんわ。貴方がどれだけ線を引いても、私は下がりません」
手のひらに力を込め、暴れる心臓を押さえつけるように言葉を続ける。
「覚悟なさってくださいませ。私、本気で貴方を口説き落として差し上げますから」
言い切った瞬間、向こう側で息を呑む気配がした。
続いて、こつん、と鈍い音が板に響く。額か、それとも握った拳か。扉を伝ってきた小さな振動が、手のひらにじかに届いた。
「……ヴィオラ」
木目を抜けて届いたのは、低く掠れた声だった。
「困らせるな。……頼むから」
冷たさなんて、どこにもない。理性の縁に必死でしがみついている人の、余裕のない声だった。
扉の厚みは、ほんの数寸。この板がなければ、伸ばした指先がそのまま彼の胸に触れてしまう距離だ。触れてもいないのに、指先がじんと痺れた。
「おやすみなさい、私の頑固な旦那様」
小さく囁いて、私は手のひらを離した。
明日から、あの鉄の鎧をどうやって剥がしていこう。
冷え切った寝室の暗がりの中で、胸の内だけが、いつまでも温かかった。




