第4話
「お前の叔父上に頼まれて、早馬を乗り継いでわざわざ迎えに来てやったんだ。神殿に抜け駆けして婚姻届を出して、逃げおおせたつもりか?」
人混みをかき分けて現れたのは、ジェラルドだった。派手な仕立ての上着を旅の埃で汚したまま、嘲るような笑みで私を上から下まで眺め回す。
「亡き父親の遺産を守りたくて、こんな辺境の借金貴族に持参金ごとすがりついたってわけか。どうせ金目当てに騙されてるだけだろう。今ならまだ間に合う。さあ、俺と王都へ帰るんだ」
この男は、私たちの契約の中身など何ひとつ知らない。叔父の言いつけどおりに、私の財産を回収することしか頭にないのだ。
浴びせられた侮蔑に、私は怯むどころか、アレクシスの腕に添えた指に力を込め直した。
「ご親切な忠告、痛み入りますわ、ジェラルド様。ですが、連れ戻される筋合いはございません。私は誰に強いられたのでもなく、自分の意思でアレクシス様の妻になったのですから」
はっきりと拒まれて、ジェラルドの顔が忌々しげに歪んだ。
「何を馬鹿な。婚姻届が受理されたからって調子に乗るなよ。バルトロメ殿を本気で怒らせてみろ、王都の取引から締め出されるぞ。持参金で借金を肩代わりさせた偽装結婚だと社交界に触れ回られたら、お前なんか一瞬で悪名まみれだ!」
神殿での誓約が済んだ今、彼らに私を連れ戻す権限はない。だからこそ、商売と評判という卑劣な手で脅しにかかっているのだ。
そんな脅しは、とうに覚悟の上だった。
「どうぞ、お好きなだけ言いふらしてくださいな。評判を盾にすれば私が怯むとでも? 私の財産を私がどう使おうと、私の自由です。叔父の人形として飼い殺されるくらいなら、悪妻の汚名くらい喜んで背負って差し上げますわ」
「なっ……この恩知らずの小娘が!」
思いどおりにならないと見るや、ジェラルドは顔を真っ赤にして、私の腕をつかもうと手を伸ばしてきた。
その手は、私の肌に届かなかった。
アレクシスが組んでいた腕をほどいて私を背に庇い、踏み込みざまにジェラルドの手首をつかみ取ったのだ。左手に提げた紙袋の林檎は、ひとつも揺れていない。
「私の妻に触れるな」
地を這うような低い声。ぎり、と骨の軋む音がした。
「ぎゃっ……!? な、何だ貴様、離せ!」
「彼女はたった今、自分の意思をはっきり告げたはずだ。耳が遠いのか? これ以上の無礼は、辺境伯夫人への不敬とみなす」
騒ぎを聞きつけた護衛たちが、剣の柄に手を添えて間合いを詰めてくる。
アレクシスは、私の言葉を横取りしなかった。私が出した答えを、隣で裏打ちするように立っていた。
彼が無造作に手を放すと、青ざめて呻くジェラルドの両脇を、屈強な護衛たちがすかさず固める。
「二度とこの地に足を踏み入れるな。ヴィオラを脅かすことは、ヴァルデン家への宣戦とみなす。王都のバルトロメ殿にも、そう伝えるがいい」
「お、覚えていろ……!」
捨て台詞を吐いて踵を返したジェラルドは、三歩も行かないうちに、荷車の轍に溜まった泥水へ足を突っ込んだ。派手につんのめって、自慢の上着ごと泥の中に転がる。
一瞬の静けさのあと、市場のあちこちから笑い声が弾けた。
「おいおい、王都の伊達男は泥遊びがお好きらしいぜ!」
マシューの野次に、笑いはさらに大きくなった。ジェラルドは泥だらけの顔を真っ赤にして、痛む手首を押さえながら、這うように人垣の向こうへ逃げていく。
その背中が見えなくなり、周りのざわめきが落ち着いたところで、私はようやく息を吐いた。
「アレクシス様。助けてくださって、ありがとうございます」
素直に礼を言うと、彼は林檎の袋を持ち直して、少し決まり悪そうに目を伏せた。
「礼には及ばない。契約がどうこうという前に、目の前で客人に乱暴を働かせるわけにはいかない。それに……妻として迎えた以上、守るのは当然の務めだ」
客人。務め。
そんな言葉で包んでいるくせに、さっき彼が言い放った「私の妻」という響きが、耳から離れなかった。
形だけの白い結婚。互いの利害を満たすためだけの、打算ずくの関係。そう自分に言い聞かせてきたのに、彼は人前で私を妻と呼んで、家の名まで賭けて守ってくれた。
胸が騒いで、どうにも収まらない。
「客人ではなく、妻ですわ。アレクシス様」
私は少し意地悪く笑って、さっきほどかれたままの彼の右手に、自分から指を重ねた。
大きな手がびくりと強張る。一瞬ためらってから、冷えた私の指を包み返してきた。
「ヴィオラ。街の者たちが見ている」
「ええ、見ていますわね。でも、妻として堂々と隣を歩かせていただきます。やましいことなんて、何ひとつありませんもの」
遠巻きの好奇の目を受け止めて、私は顔を上げた。彼が人前で盾になってくれたのだ。私が縮こまる理由はない。
「さあ閣下、残りの巡回を済ませてしまいましょう。日が落ちて風が冷たくなる前に」
「……ああ」
小さく息を吐きながらも、アレクシスは重ねた手を離さずに、歩調を合わせてくれた。
予定どおり資材置き場と診療所を回り、夕闇が街を包みはじめるころ、私たちは屋敷への帰り道についた。
◇
夜、静まり返った執務室へ、私は銀盆を運んだ。
皿の上には、昼に買った野林檎。厨房の竈で芯までじっくり蒸し焼きにしてもらい、金色の蜂蜜がとろりと照っている。
「約束どおり、差し入れに参りましたわ」
皿を置くと、羽ペンを握っていたアレクシスの肩から、すっと力が抜けた。
「本当に作らせたのか」
「ええ。冷めないうちにどうぞ」
彼は小さなスプーンで、柔らかく煮崩れた実を掬って口に運んだ。
喉が小さく動く。いつも険しく寄っている眉根が、ゆっくりとほどけていった。
「……昔の味だ。甘すぎなくて、酸味が立っている。悪くない」
ぽつりとこぼしたその顔は、重責を背負う辺境伯のものではなかった。どこか少年のような、飾らない素顔だった。
「アレクシス様も、そんな柔らかいお顔をなさるのですね」
私も自分の分を掬って口に入れる。舌がきゅっとなるほどの酸っぱさの奥から、素朴な蜂蜜の香りが広がった。淹れたてのお茶を一口含むと、喉の奥まで温かくなる。
「余計なことを言うな。普段は真面目に執務をしているだけだ」
「ええ、知っていますわ。一日じゅう眉間に皺を寄せて、分厚い鎧を着込んでいるみたいですもの」
「君は本当に、減らず口ばかりだな」
呆れたように肩をすくめながら、彼はごく自然に、二口目へスプーンを伸ばしていた。
昼間、「私の妻に触れるな」と言って盾になってくれた手。今、好物ひとつで肩の力を抜いている、気取らない横顔。
守られるだけの契約妻で満足するつもりなんて、最初からなかった。けれど、こんな顔を見せられてしまっては、打算も予防線もどこかへ飛んでいってしまう。
もっとこの頑固な人を暴いてみたい。私の前でだけ、息を乱させてみたい。
形だけの夫のまま逃げ切れると思ったら、大間違いですわ、アレクシス様。
白い結婚の檻なんて、私が壊して差し上げます。本気で、貴方を口説き落としてみせますから。
カップの縁に唇を寄せて、私は誰にも見えないように、こっそりと笑った。




