第3話
王都から持ってきた衣装箱を開けて、私はいちばん簡素なドレスを引っぱり出した。
裾を膨らませる重たいパニエも、足に絡む長いレースも、今日は邪魔なだけだ。選んだのは、北風を通さない濃紺のウール地に、泥はねを気にせず大股で歩ける短めの裾。足元も華奢な絹の靴ではなく、地面をしっかり踏める革の編み上げ靴に履き替える。
守られるだけの飾り物として、彼の背中に隠れて歩くつもりはなかった。
哀れまれるために、この北の地へ来たのではない。対等な取引相手として、いつかは同じ景色を見られる伴侶として、隣に並んで立ちたい。
髪をすっきりとひとつに結い上げ、鏡の中の自分に笑いかける。
あの頑固な夫は、この格好を見てどんな顔をするだろう。呆れるか、目を丸くするか。想像するだけで、足取りが軽くなった。
◇
玄関ホールに降りると、黒い長外套を羽織ったアレクシスが待っていた。
私の足元から頭のてっぺんまでを眺めて、彼は小さく目を見開く。
「その格好は」
「視察に行くのに、裾を引きずるシルクは無粋でしょう? この靴なら、悪い道も平気ですわ」
胸を張ると、彼の口の端がわずかに緩んだ。
「馬車を回すつもりだったが……その足なら、歩いて回るのも悪くないな」
「ええ。窓越しに眺めるのではなく、自分の足で歩いて、領民の暮らしを見たいのです。お隣を歩かせていただけますか?」
アレクシスは短く頷くと、護衛たちに少し離れてついてくるよう命じ、昼間の大通りから中央市場へ抜ける道を選び直した。
「石畳の隙間には気をつけてくれ」
差し出された右腕に、私は迷わず手を滑り込ませた。厚い外套越しでも、しっかりとした腕の感触が伝わってくる。
晩秋の澄んだ日差しの下へ、私たちは並んで歩き出した。
◇
市場の通りに入ると、干し草と焼いた麦の匂いが風に乗って流れてきた。
店先で木箱を運んでいた赤ら顔の商人が、アレクシスに気づいて太い声を上げる。
「おいおい旦那、今日はえらく綺麗な花を連れてるじゃねえか!」
「軽口を叩くな。それよりマシュー、店裏の貯蔵庫の屋根板は直したのか。来週には初雪が来るぞ」
「へっ、言われなくてもとっくに塞いださ! 相変わらず口うるさい領主様だねえ」
商人は悪びれもせずに笑い飛ばした。
書類の上の数字だけではない。この人は、街のどこに綻びがあるかまで、ちゃんと頭に入れているのだ。
「まあ、それなら安心ですわね。この人の心配の種をひとつ減らしてくださって、妻として御礼申し上げます」
腕に手を添えたまま笑いかけると、マシューは目を丸くし、アレクシスは気まずそうに咳払いをした。
「ヴィオラ、余計なことを言うな」
「あら、本当のことですもの。ねえ?」
領民と遠慮なく言い合う夫の、意外な横顔。私の足取りは、自然と弾んでいた。
「アレクシス様。私が妻だなんて名乗ったから、お困りになりました?」
首を傾げて覗き込むと、彼は前を向いたまま、組んだ腕を少しだけ自分の脇へ引き寄せた。振りほどくのとは逆の、逃がすまいとするような力加減だった。
「困るわけがないだろう。ただ、君を無遠慮な目に晒したかと気になっただけだ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、耳たぶがうっすら赤い。
数歩進んだところで、私は果物屋の店先に目を留めた。木箱に山と積まれているのは、王都で見かける大ぶりな林檎ではない。北の冷たい朝露を浴びて、小さく引き締まった野林檎だった。
「アレクシス様、あれを見てくださいな」
「ただの林檎だが」
「今朝おっしゃっていたでしょう。酸っぱい小ぶりの実がお好きだって。あれを蜂蜜で蒸し焼きにしたら、きっとお気に召しますわ」
木箱を指差すと、アレクシスは虚を突かれたように目を見張り、それから静かに私を見下ろした。
「君は……朝の他愛ない話を、覚えていたのか」
「旦那様の好物ですもの。忘れるわけがありませんわ」
ぽかんとしている彼をよそに、私は店主に銅貨を払い、林檎の詰まった紙袋を受け取った。
「私が持とう」
当たり前のように左手で袋を引き取られたので、私は空いた右腕に、もう一度手を添え直す。
「ねえ、今夜のお仕事の合間に、焼き林檎を召し上がりませんか。温かいお茶を淹れて、二人で」
「……ああ。君が付き合ってくれるなら」
少し視線を泳がせながらも、彼はちゃんと頷いてくれた。
ささやかな約束を胸にしまって歩き出した、そのときだった。
「おい、樽を通すぞ! 脇へ寄ってくれ!」
角を曲がってきた荷車を避けようと、人波がどっとこちら側へ押し寄せた。誰かの肩が背中にぶつかり、敷石の窪みに足を取られる。
「あっ――」
「ヴィオラ!」
腰に腕が回された。
ぐっと強く引き寄せられ、気づいたときには、私は彼の胸に隙間なく抱き留められていた。
厚い外套越しにも、鼓動がはっきり伝わってくる。速い。転びかけた私の心臓と同じくらい、いや、それよりも。
「……怪我はないか」
頭の上から降ってきた声は、少し掠れていた。彼は私を抱えたまま、人通りの切れた軒下へ庇うように移る。
荷車が通り過ぎて、危険は去った。契約上の夫婦なら、すぐに離れるのが自然だろう。
「契約相手に怪我をさせては困るからな」
彼はもっともらしく言って、平静を装おうとした。けれど、腰に回された手はすぐには離れない。名残を惜しむように一拍ためらってから、ようやく指がほどかれる。
口から出る言い訳と、身体の反応が、まるで噛み合っていない。
――この頑固な人は、ちゃんと私を意識している。
そう思ったら、いつものように茶化す気にはなれなかった。乱れた息を整えて、私は彼の目をまっすぐ見上げた。
「助けてくださって、ありがとうございます。アレクシス様」
彼は何か言いかけて、結局、言葉を失ったまま黙り込んだ。冷たい空気の中で、二人の吐く息の白さだけが混じり合う。
私は小さく笑って、自分からもう一度、彼の腕に指を絡めた。
寄り添って通りへ戻ろうとした、そのときだった。
「おいおい、見間違いかと思ったが……本当にランカスターの娘か?」
人混みの向こうから響いた耳障りな声に、足が止まる。
王都で叔父が私に押しつけようとしていた、求婚者の一人だった。私のことなど見もせずに、父の商権と持参金だけを値踏みしていた男。どうして、こんな北の街にいるのか。
苦い記憶がよみがえりかけて、私は絡めた腕に力を込めた。
逃げるつもりはない。私はもう、言いなりになるだけの令嬢ではないのだから。




