第2話
第2話 執務室の相席と、二つ目の取引
ヴァルデンの朝は、王都よりずっと早く、そしてひどく冷たかった。
目を覚ますと、窓硝子一面に細かな氷の花が張りついていた。羽毛布団から這い出すにはそれなりの覚悟が要ったけれど、昨夜の自分との約束を破るつもりはない。
小机の上には、昨夜アレクシスが貸してくれた軍服の上着がある。寝る前に、自分で畳んでおいたものだ。袖口の繕い跡を見ていると口元が緩みそうになって、私は慌てて引き締めた。
甘やかされて流されるのは、性に合わない。
叔父の屋敷で生き延びるために身につけた計算と用心を、冷えた朝の空気と一緒に胸へ吸い込む。
身支度を整えて廊下へ出ると、掃除を始めていた使用人たちが、私を見るなり戸惑ったように壁際へ下がった。持参金で旦那様を買った王都の令嬢。きっと、そんなふうに噂されているのだろう。
居心地の悪さを笑顔で覆って、私は食堂へ向かった。
長い食卓には、誰の姿もなかった。代わりに、白髪まじりの髪をきっちり撫でつけた老執事が恭しく一礼する。昨夜、主人の後ろで神経質そうに控えていた人だ。
「おはようございます、奥様。よくお休みになれましたでしょうか」
「ええ、とても。ところで、閣下のお姿が見えないようですけれど?」
老執事は少し視線を泳がせ、言葉を選ぶように顎を引いた。
「閣下は夜明け前から、執務室で急ぎの案件にかかっておられます。朝食もそちらで簡単に済ませるとのことですので、奥様はどうぞごゆっくり」
「あら、そうなの」
予想どおりの答えに、私はわざとらしく首を傾げた。
本邸で迎える最初の朝から、妻を食堂に置き去りにして執務室に籠城する。一線を守る誠意のつもりか、それとも昨夜、耳まで赤くした失態から逃げているのか。
どちらにしても、あの頑固な人を一人にしておく理由はない。
「なら話は早いわ。朝食を執務室へ運んでちょうだい。二人分ね」
「……は。執務室へ、でございますか」
「夫婦で会話をしてはいけないなんて条項、契約書には一行もなかったはずよ」
目を白黒させる執事から、私は銀盆を受け取った。
◇
階段を上がり、重い樫の扉を二度ノックする。返事を待たずに押し開けた。
「アレクシス様、差し入れに参りましたわ」
「ヴィオラ嬢!?」
羊皮紙の束と格闘していたアレクシスが、弾かれたように顔を上げた。羽ペンを握ったまま、露骨に眉を寄せて立ち上がる。
「なぜここへ。執務室は私的な場所ではないし、今は冬の備蓄計画の見直しで手が離せない。朝食なら食堂で――」
「その、手が離せない真面目な旦那様のために運んできたんです。お仕事の手は止めなくても、口は動かせますでしょう?」
澄まして机の前まで歩み寄り、銀盆を置く。焼きたてのパンと根菜のスープの湯気が、インクの匂いをやわらかく塗り替えていった。
「それと、嬢は要りませんわ。私はもう、貴方の妻ですもの」
アレクシスが、ぐっと言葉に詰まる。
「朝食を抜いて倒れられたら困りますの。大事な投資先が破綻してしまいますでしょう? 回収できない貸し付けなんて、ランカスターの名折れです」
「……君は、口が減らないな」
アレクシスは毒気を抜かれたように息を吐いた。その隙に私は書類の山を少し脇へ寄せ、向かいの椅子に腰を下ろす。
「さあ、冷めないうちに。向かい合って召し上がるだけで結構ですから」
観念したように、彼も正面の椅子に座った。
机の隅に、縁の欠けた木の深皿が置いてあった。いつもこの冷えた部屋で書類をめくりながら、一人で食事を流し込んでいたのだろう。
「……いただく」
黙々とスープを掬う彼に、私はパンをちぎりながら訊いてみた。
「ねえ、アレクシス様。お好きな食べ物は何ですの?」
「は?」
スプーンが止まる。
「好きなものなど、腹が膨れれば何でもいい。そんなことを考える余裕は――」
「義務や責任の話は結構です。ただの雑談ですわ」
しばらく黙り込んでから、彼はぼそりと言った。
「……強いて言うなら、焼き林檎だ。酸っぱい小ぶりの実を、少しの蜂蜜で蒸し焼きにしたもの。昔はよく食べた」
気まずそうに逸らされた横顔。借金とも領主の重責とも無縁の、あまりに素朴な答えだった。
「ふふ。氷の辺境伯の好物が焼き林檎だなんて、可愛らしいですわね」
「からかうな。……君はどうなんだ」
「私ですか? 香草の利いたお料理と、しっかり焼き目のついたパンが好きです。王都のふかふかした白パンより、噛みごたえのある堅焼きのほうが性に合っていて」
ただの雑談のつもりだった。
けれど、叔父の顔色を窺い、損得ばかり数えて暮らしてきた私にとって、自分の好みを口にすること自体がずいぶん久しぶりだった。
アレクシスは黙ってナイフを取ると、銀盆の堅焼きパンに刃を入れる。いちばんよく焼けて香ばしそうな端のところを切り分けて、私の小皿にのせる。
「固いところが好きなら、ここがいい。冷めると歯が立たなくなるから、温かいうちに食べるといい」
当たり前のことのように言って、彼はまたスープに目を落とした。
私は、その横顔から目が離せなくなった。
からかって主導権を握るつもりだったのに。何気なくこぼした好みを一瞬で拾い上げて、当然のように差し出してくる。そんな飾らない気遣いに、心臓が勝手に跳ねてしまった。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言って、端を齧る。香ばしい麦の味と、かりっとした歯ざわり。おかげで少しだけ、胸のざわめきが落ち着いた。
彼がスープを飲み干し、机の上の時計に目をやったのを見計らって、私は背筋を伸ばした。
「ところで閣下。午後は街の視察に出られると、執事から伺いました。私もお供させていただけませんか」
「視察に?」
アレクシスは怪訝そうに眉を寄せた。
「王都のような華やかな店はひとつもない。道も悪い。君のような令嬢が歩く場所ではない」
「名ばかりでも、私は辺境伯夫人です。領地のことを何も知らずに閉じこもっていたら、叔父たちにつけ入る隙を与えてしまいます。それに何より、貴方が守ろうとしている街を、この目で見てみたいのです」
まっすぐ見つめると、彼は困ったように視線を揺らし、やがて根負けしたように息を吐いた。
「……分かった。ただし、私のそばを離れないと約束してくれ」
「ええ、喜んで!」
形だけの契約結婚に、小さな風穴が開いた朝だった。




