第1話
「叔父が選んだ殿方は、どなたも私の持参金と父の残した商権しか見ていらっしゃらないの。豚の群れに放り込まれるくらいなら、飢えた狼の巣に飛び込むほうがずっとましですわ」
私は閉じた扇の骨を指先で弾いて、にっこりと笑ってみせた。
王都の外れにある、ヴァルデン家の古い別邸。その応接室は、晩秋の風よりも冷え冷えとしていた。破れかけた壁紙を隠そうともしない部屋で、磨き込まれた黒檀の机を挟んで座る男――アレクシス・ヴァルデン辺境伯は、眉ひとつ動かさずにこちらを見据えている。
社交界では「氷の辺境伯」だの「呪われた借金王」だのと、好き勝手に囁かれている人だ。けれど間近で見る瞳は、よく研いだ鋼の色をしていた。鍛え抜かれた身体に、ほつれを丁寧に繕った軍服。
噂なんて当てにならない。この人はただ、父親の残した借金を律儀に背負い込んでしまった、損な性分の人なのだ。
「ランカスター嬢。戯れ言に付き合う暇はない」
低い声だった。
「父の不始末でこの領地が負債を抱えているのは事実だ。だが、哀れみで施しを受けるつもりはない」
「施しだなんて、人聞きの悪い。これは純然たる取引ですわ、閣下」
私は胸元から羊皮紙の契約書を取り出し、机の上に滑らせた。
「私の持参金を全額お貸しします。それで、外の高利貸しへの借財を一括で清算なさって」
アレクシスは眉根を寄せたまま、羊皮紙には指一本触れなかった。
「名門ランカスター家の令嬢を買い取る金など、我が家には銅貨一枚もない。君の叔父が何を企んでいるかは知らないが、領民を養うための矜持まで売り払う気はない」
「買い取るのではないと申し上げているでしょう? 貸し付けですわ」
私は机に両手をついて、身を乗り出した。冷たい黒檀が手のひらに張りつく。
「成人した私の結婚に、後見人の許しは要りません。そして嫁いだその日に、父の遺した持参金も商権も、叔父の手を離れて私のものになる。だから叔父は、自分の息のかかった放蕩貴族に私を嫁がせたがっているの。夫ごと、私の財産を握るために」
アレクシスは黙って聞いている。
「そんな男の妻になったら、私の人生はそこで終わりです。でも貴方となら、お互いの自由を守れますわ」
「自由、だと?」
「ええ。私の持参金で、法外な利息の借財をすべて片付けてください。代わりに貴方には、私への返済義務が残ります。特産の交易路を立て直して、およそ一年で完済できたとき――私が望めば、円満に離縁して私を解放すること。それまでは私に指一本触れない、『白い結婚』を誓っていただきます」
「白い結婚……」
アレクシスは低く呟き、そこで初めて、契約書へ鋭い視線を落とした。
「名ばかりの妻として扱い、指一本触れず、完済したら持参金ごと無傷で解放する。本気で言っているのか。君のような令嬢が、あんな寒村に閉じ込められる道理はない」
「閉じ込められるのではなく、避難するのです。それに、誰でもよかったわけではありませんわ」
私は胸を張り、鋼色の瞳をまっすぐ見つめ返した。
「昨年の大飢饉のとき、私財をすべて投げ打って領民に穀物を配った領主がいたこと。社交界の誰も知らなくても、私は知っています。自分の欲のために私を食い物にしないと信じられる殿方は、王都中を探しても貴方しかいなかった」
アレクシスはわずかに目を見開き、何かを堪えるように口元を引き結んだ。
長い沈黙のあと、彼は羽ペンを取った。
「あの荒れた土地に君を縛りつける罪悪感に、耐えられるとは思えない。だが、契約どおり君に触れず、一年後に自由を返す。それが、私に差し出せる唯一の誠意だ」
迷いを断ち切るように、契約書の末尾へ署名が刻まれる。
「君の尊厳と安全は、この命に代えても守る」
差し出されたペンを受け取り、私も隣に名を書き入れた。
こうして交わした冷たい契約が、私たちの歪な始まりだった。
◇
婚礼は王都の神殿で、叔父に嗅ぎつけられる前に済ませた。祝宴も賛美歌もない、誓約書を出すだけの簡素な式だ。
その足で王都を発ち、馬車に揺られること五日。北の果てのヴァルデン本邸に着いたときには、すっかり夜の帳が下りていた。
彼が案内してくれたのは、邸でいちばん日当たりのよさそうな主室だった。
「今夜からここが君の部屋だ。私の寝室は廊下の突き当たりにある。扉の内鍵は必ず掛けて眠るといい。私を含め、誰ひとり君の許しなく踏み込ませはしない」
内鍵。
その言葉に、ふと可笑しくなった。叔父の屋敷にいたころ、鍵というのはいつも外から掛けられるものだったから。内側から自分で掛けていい鍵なんて、何年ぶりだろう。
アレクシスは淡々と告げると、約束どおり一線を守るように、踵を返して扉へ向かった。
事務的にもほどがある。思わず苦笑したとき、窓の隙間から吹き込んだ夜風が、薄いドレス越しに肩を撫でた。
「っ……」
小さく身震いして腕を抱えた、その途端。
足を止めて振り返った彼が、ためらいもなく自分の上着を脱いだ。ずしりと重い布地が肩を包む。残っていた体温と、乾いた針葉樹のような匂いが、ふわりと立ちのぼった。
「北の夜を甘く見ていた。すぐに薪を足させよう」
「あ、ありがとうございます、閣下。でも、それでは貴方が」
「私は寒さに慣れている。……風邪を引かれたら、契約に障る」
そっけない言い草のわりに、口元はどこかぎこちない。
打算で選んだはずの、無骨な夫。頑なに背を向けようとするくせに、震える私を放っておけない。その矛盾が、少しだけ気になった。
◇
ずり落ちかけた上着の留め具に手を伸ばしたとき、襟を直そうとしていた彼の手に、私の指先が触れた。
冷たい。
人に上着を貸しておきながら、彼の指は氷のように冷え切っていた。五日間ずっと馬の手綱を握り、夜気に身を晒してきたせいだろう。
アレクシスは弾かれたように手を引き、今度こそ扉へ向かう。
「待ってください、アレクシス様」
ノブに手を掛けた背中を、気づけば呼び止めていた。
「こんな夜更けに使用人を起こすまでもありませんわ。暖炉の湯沸かしに、まだお湯が残っています。王都から持ってきた、いい茶葉もありますの」
「しかし、君の手を煩わせるわけには」
「名ばかりとはいえ、今夜は初夜ですもの。妻のお茶を断るなんて無粋な真似、なさいませんわよね?」
断られるのが怖くて、つい冗談めかしてしまう。彼は毒気を抜かれたように立ち尽くした。
その隙に湯を注いで、湯気の立つカップを差し出す。
「ほら、一口だけでも。初日に夫を凍え死なせたなんて噂が立ったら、持参金目当ての悪妻呼ばわりですわ」
「……毒でも入っていなければいいが」
憎まれ口を叩きながら、アレクシスはしぶしぶカップを受け取った。やっぱり、指先が痛いほど冷たい。
私は迷わず、カップを包む彼の大きな手の上から、自分の両手を重ねた。
契約違反だと払いのけられるか。不快そうに咎められるか。
身構えていた私の予想は、あっけなく外れた。
アレクシスは手を引くどころか、びくりと肩を跳ねさせて、息を止めたまま固まってしまったのだ。
「な……」
視線が泳ぐ。みるみるうちに、耳の先まで赤く染まっていく。
手を払うこともできないまま、彼は目を伏せて、絞り出すように言った。
「すまない。君にこんな気遣いをさせるつもりはなかった。だが、誓おう。私がいる限り、二度と君を凍えさせはしない」
重ねた手の下で、硬い指先に少しずつ温もりが戻っていく。
避難先として選んだだけの、契約上の夫。
なのに、この不器用な熱に触れた瞬間、私はこの人のことをもっと知りたいと思ってしまった。
明日の朝食は、逃がさない。執務室に押しかけてでも、同じ卓につかせてみせよう。
私は微笑んで、重ねた手に少しだけ力を込めた。




