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容疑

深夜に及ぶ解析作業。倉田が壁に貼り出した36枚の静止画が、ある「不可能な事実」を浮かび上がらせます。

そして、この事件をひそかに見守っていた男が、ついに動き始めます。

【2012年9月8日(土)午前二時頃 兵庫県警察本部庁舎15階 防犯カメラ解析室】


 日付が9月7日から8日へと変わって、すでに二時間が過ぎていた。防犯カメラ解析室は、蛍光灯の眩しさに晒されながらも、廊下の喧騒が嘘のように静まり返っていた。僅かな機械音が低く響くばかりで、多くの捜査員が仮眠や張り込みへと散った後、そこには倉田が1人、デスクに向かっていた。


 数時間前、岩田主任から短い連絡が入っていた。「態勢が整った。夜明けと共に動く」。それだけだった。今頃、山根刑事たちは元町の坂道のどこかに潜んでいるはずだ。夜明けまで、あと数時間。


 冷め切ったコーヒーカップから湯気は上がらず、デスクには食べかけの菓子パンの袋と、散乱した資料がそのままになっている。倉田の顔には二日にわたる徹夜の疲労が色濃く刻まれ、縁なし眼鏡の奥の目は、それでもなお、壁一面に貼られた36枚のA4用紙を凝視していた。それらは全て、今回の行方不明事件で少女が映り込んだ防犯カメラ映像から抽出された静止画のプリントアウトだった。手書きで記された時刻と場所が、そっけなく事実を突きつける。


 35枚はSD画質特有の粗い粒子の画像で、被写体は辛うじて少女と判別できる程度。しかし中央に貼られた一枚だけは鮮明なHD画質で、少女の顔立ち、服装、後ろで束ねた髪の輪郭までがはっきりと見て取れた。一昨日の夜、官邸の指示を受けた警察庁警備局の手で捜査端末のデジタルデータが全て接収された後、倉田の手元に残されたのは、このアナログな紙の束だけだった。科警研の歩容解析が「同一人物」と断言したその根拠も、今は全てこの紙の上にある。


 倉田は、三宮の監視カメラが捉えた少女の姿から、僅か十四分後、約4.5km離れた六甲道の防犯カメラ映像から抽出した静止画プリントに視線を移す。「どう考えても……繋がらない」。二日間、何十回と繰り返してきた問いが、また頭の中で鳴る。人間が、これほどの移動を可能とするはずがない。それでも警察は動く。この紙の束が示す「不可能」を根拠に、夜明けと共に。窓の外はまだ暗い。倉田は、壁の少女と二人きりで夜明けを待った。


【2012年9月7日(金)午前 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部】


 前日の官房長官緊急記者会見から一夜が明け、世間のプレッシャーは最高潮に達していた。

 上座には捜査本部長たる兵庫県警刑事部長、その隣に副本部長の捜査一課長。正面では捜査主任官の岩田が進行役を務め、各捜査班の班長たちが疲労を滲ませた顔で並んでいた。テーブルを取り囲む顔ぶれは一様ではない。強行班、鑑識班、機動捜査隊——兵庫県警の精鋭たちに交じって、大阪府警から応援に来た刑事たちの顔もある。首都圏から駆けつけた科警研の技官が端に座り、壁際には警察庁から派遣された特援のメンバー数名が立っていた。


 その特援の中で、1人だけ毛色の違う男がいた。痩身で地味なスーツ。他のメンバーが手帳にペンを走らせる中で、ただ静かに会議の流れを眺めている。スクリーンに映るスライドではなく、倉田の報告を聞く岩田の反応を、まるで採点でもするかのように静かに観察していた。胸の内ポケットから覗く身分証の端が、他の誰とも異なることを無言で示していた。岩田はその男の位置を一度確認し、すぐに目を戻した。


 刑事部長が短く頷いた。それを受けて、岩田が口を開いた。


「では、始めます」


 その一言で、会議室が静まり返った。


「倉田主任。解析結果を全員に共有してください」


 倉田は立ち上がり、手元のプリントアウト資料をテーブルに広げた。捜査端末のデジタルデータが前夜に回収されて以来、彼の手元に残るのはこの紙の束だけだ。


「神戸市内の約500台の防犯カメラ映像を解析しました。36箇所のカメラ映像に、同一の特徴を持つ人物が断片的に確認されています」


 スクリーンに最初のスライドが投影される。夜間のSD画質、青白いノイズまみれの映像から切り出された静止画だ。輪郭は(おぼろ)げで、顔の判別はできない。判るのは、背格好と服装——白の半袖Tシャツ、クロップドパンツ、白いスニーカー、一つに束ねた髪、という特徴だけだ。


「35台はいずれもSD画質です。この画質からでは顔を特定することはできませんでしたが、服装・体型・歩行姿勢の特徴から同一人物と推定しています」


 配布された資料に視線が集まる。35枚のぼやけた静止画。それぞれに時刻と場所がある。三宮、元町、六甲道、ポートアイランド——神戸市内の広域に、白昼の雑踏や夜間の街角を問わず、繰り返し現れる「影」。


「ただし——」倉田は続けた。「先程の35台とは別に、1台だけ例外があります」


 スクリーンが切り替わる。それまでとは次元の違う鮮明さで、一枚の静止画が映し出された。白昼の映像。少女がほぼ正面を向いた瞬間が、くっきりと捉えられている。白の半袖Tシャツ、ダークインディゴのクロップドパンツ、白いコンバース。後ろでひとつに束ねた髪。まだあどけなさを残す頬のライン、まっすぐな瞳。


 会議室から、いったん音が消えた。


(なだ)区の信用金庫に設置されたHD画質対応の新型カメラです。この1台だけ、顔の識別が可能なレベルで少女が映っています」


 倉田は手元のプリントアウトを数枚、テーブルに追加で配布した。先ほどの35枚とは明らかに異なる、鮮明な静止画だ。捜査員たちが手に取り、顔を近づける。


「これだけ鮮明に映っていれば、照合の手がかりにはなります。昨日から顔認証データベースへの照会、周辺学校・施設への聞き込みを進めていますが、身元の特定には一定の時間を要します。現時点では該当なし。照合作業は継続中です」


 倉田は一度、言葉を切った。資料に視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げる。視線の先は、壁際に控える特援の一角——あの痩身の男の方向だった。一秒にも満たない、しかし会議室の何人かが確かに気づいた間があった。


「一点、申し添えます。このHD映像のデジタルデータは、昨夕、特別捜査支援チームの方によって回収されています。現在、我々解析班の手元に残っているのは、この紙のプリントアウトのみです」


 報告口調のまま、感情は乗せない。それが倉田という人間の流儀だった。しかし、その事実をこの場の全員に向けて読み上げることの意味を、倉田は十分に理解していた。


 会議室が、今度は別の種類の沈黙に包まれた。


 最初に動いたのは、特援のリーダーだった。眉をわずかに寄せ、自分のチームのメンバーを素早く一瞥する。


「——失礼。『特別捜査支援チームによって回収された』とのことですが、私はそのような指示を出した覚えがありません」


 静かだが、明確な困惑だった。テーブルを囲む捜査員たちの視線が、自然と壁際のある一点へ集まった。


 特援の列の端——痩身で地味なスーツの男。他のメンバーが一斉にリーダーへ目を向ける中、その男だけが微動だにしなかった。会議室全体の視線を受けながら、表情ひとつ変えない。


「……あなたが、やったのか」


 大阪府警の刑事が、低い声で言った。答えを求めているというより、確認だった。


 男は胸の内ポケットに手を入れ、身分証をテーブルの上に静かに置いた。それだけだった。


「内閣官房の指示に基づく措置です」


 一言だけ。抑揚もなく、釈明もなく。


「詳細を聞かせてもらいたい」リーダーが一歩踏み込んだ。「我々は同じチームのはずだ。なぜ——」


「申し上げられません」


 遮断は完全だった。男は身分証をポケットに戻し、視線を正面に戻した。もうそこには何もない、とでも言うように。


 会議室に、今度はより深い沈黙が落ちた。「内閣官房」という言葉の重さが、怒りの矛先を宙に浮かせていた。誰かが何かを言いかけて、止めた。


 岩田は、一拍だけ間を置いた。


「——わかりました。その件は、別途確認します」


 憤りを飲み込んだ声だった。これ以上追及しても、この場では何も出ない。岩田にはそれがわかっていた。捜査を止めるわけにはいかない。


「続けます」


 その一言で、会議室が再び動き始めた。


 口を開いたのは、大阪府警から応援に来た強行犯捜査の刑事だった。


「この少女1人が、103人を誘拐したという話か? そもそも、映像が改ざんされている可能性はないのか」

「単独犯という前提なんですか」


 別の声が重なった。兵庫県警の強行班のベテランだ。


「103人だぞ。1人でできる話じゃない。当然、背後に組織があると見るべきじゃないのか。国内の中核派か、それとも外国の工作機関か」


 静かな同意のざわめきが広がる。岩田は制するように片手を上げた。


「組織犯罪の線は当然、並行して追っています。ただし、この人物が36箇所の現場周辺で繰り返し確認されている事実は動きません。組織のメンバーである可能性も含めて、まずこの人物が何者かを特定することが先です」


 特援のリーダーが、ひとつ息を整えてから口を開いた。


「捜査主任官の見立てはどうですか。この少女の役割として、何が考えられますか」


 岩田は一拍置いた。


「現時点では断言できません。ただ、カメラが捉えた36箇所の現場周辺に、この人物が繰り返し確認されている。仮に案内役や誘い込み役だとしても、同時多発的にこれだけの規模で動くには1人では不可能です。複数人が同じ役割で動いていた、つまり組織が関与していると見るのが自然です」


「その線なら筋が通る」と誰かが呟いた。


「子供の警戒心を解くには同性の若い人間を使うのが手口としては自然だ」強行班の刑事が続けた。「カルト系の組織が若い女性を先兵として使った事例はいくつもある。オウムがそうだった」


「外国の工作機関が国内の人身売買ルートを使った線も消せないんじゃないか」テーブルの端から声が飛んだ。「尖閣をめぐって各国が動いているこの時期に、103人というのは規模が大きすぎる」


「背後の組織については、我々も独自に動いています」


 特援の中でも別の立ち位置に立つ、やや若い捜査員がそこで初めて声を出した。外国工作機関、あるいはカルト系組織の動向を専門とする公安の人間だと岩田は踏んでいた。


「国内外の過激派組織、宗教団体の動向を照合中です。現段階では特定の組織に絞れていませんが、引き続き情報を収集しています」


 岩田は頷いた。


「公安ラインの動向は、引き続き共有いただけますようお願いします。こちらの捜査と重複するようであれば調整いたします」


「海上保安庁からも照会が来ています」一課長が付け加えた。「港を使って国外移送された可能性を排除できないと」


「六甲山系の捜索についても継続中です」鑑識班の担当者が資料を手にしながら報告する。「大阪と京都の機動隊が昨夜から入っていますが、広大すぎて絞り込めていません」


 議論が多方向に広がる中、会議室の空気は次第に重くなっていた。


 HD画像のプリントアウトが各捜査員の手に渡っていた。顔の特徴は把握できている。しかし顔の照合というのは、データベースへの照会・周辺施設への聞き込み・他府県への照会と、段階を踏んで時間をかけるものだ。一晩二晩で割れれば御の字、というのが実情である。デジタルデータは前日夕刻に「特別捜査支援チーム」の名のもとで持ち去られており、精度の高い照合環境は失われていた。照合の手がかりを自分たちから奪っておきながら、今もこの場に「チームの一員」として立ち続けている。岩田は、壁際の男をちらりと見た。男は相変わらず、何も語らない。


 岩田は各班の報告を一通り聞き終えて、静かに口を開いた。


「整理します。現時点での未解決事項は三点——重要参考人の身元照合、三宮から六甲道への移動矛盾の説明、そして背後組織の特定。いずれも継続中です」


 会議室に、低い沈黙が落ちた。焦燥というよりは、諦観に近い空気だった。未解決事項を並べれば、この捜査がまだ何も掴めていないに等しいことが、改めて浮き彫りになる。103人分の重さだけが、会議室に満ちていた。


 その時だった。


 上座に座る捜査一課長が、テーブルに置かれたセキュア端末の画面を一瞥して、静止した。他の捜査員にはほとんど気取られない、わずかな動作だった。しかし倉田は見逃さなかった。一課長の指先が端末を操作し、その目に、驚愕というよりも「ついに来たか」という種類の光が走るのを。


 一課長は視線だけで倉田に合図を送った。


 倉田は無言で立ち上がり、端末から転送されたデータをメインスクリーンに映し出した。


「——緊急報告です」


 その一声で、会議室が凍りついた。スクリーンに、二つの情報が並んで表示された。


 左側——(なだ)区の信用金庫の映像から切り出された、鮮明なHD画質の静止画。少女がほぼ正面を向いたその一枚は、倉田班も紙のプリントアウトとして持っていた。白の半袖Tシャツ、ダークインディゴのクロップドパンツ、白いコンバース。後ろでひとつに束ねた髪。まだあどけなさを残す頬のライン、まっすぐな瞳。だがスクリーンに映し出されたそれは、紙の上の粒子ではなく、前日夕刻に持ち去られたデジタルデータそのものから生成された、圧倒的に鮮明な解析済み画像だった。


 右側——簡潔な文字列。


 『身元判明。逢坂瑠那おうさか るな、17歳。神戸市中央区元町在住。情報提供元:内閣官房。』


 会議室を、今度は別種の沈黙が覆った。


 映像を持ち去った連中が、自分たちの手で解析し、この会議の最中に答えを届けてきた——その事実の意味を、それぞれが咀嚼(そしゃく)しようとしていた。「なぜ今なのか」「昨日持ち去って、一晩で割り出したということか」という疑問が、声にならないまま会議室に充満する。「内閣官房」という四文字が持つ重さと、自分たちから持ち去ったデジタルデータを使って処理された画像がスクリーンに映し出されているという事実が、この事件の背後にある見えない力を、改めて突きつけていた。


「17歳か……」

「組織に使われている、ということか」

「内閣官房が身元を知っていた、ということは——最初からこの娘を追っていたのか?」


 怒号よりも困惑が先立つ声が飛び交う。103人という規模の犯行に17歳の少女が関与しているという事実の重さと、「なぜ内閣官房が」という不信感が、同時に会議室に広がっていた。


「……17歳の小娘が、この事件の鍵を握っているというのか。内閣官房まで動かして」大阪府警の刑事が、腕を組んだまま低く言った。


 岩田は、会議室を一度見渡した。多方向から上がる仮説と疑問と、そして「上」への不信。それは混乱ではなく、この事件の複雑さそのものだった。警察がまだ照合の途上にある中で、持ち去った側が先に答えを持ってきた。その事実が意味することを、岩田は重く飲み込んでいた。


「この少女の役割と背後の組織、両方を同時に追います。公安ラインとの情報共有、他府県応援の皆さんとの役割分担、港湾・山岳部の捜索——それぞれ継続をお願いします。まずこの少女の動線を確定させることが第一です」


 壁際の男は、相変わらず無表情でその場を眺めていた。スクリーンに映る少女の名前を、彼だけが、昨夜からすでに知っていた。


 小休憩に入り、多くの捜査員が席を立ち、コーヒーカップを手に一息ついている。しかし岩田は、山根、倉田、そして数名の幹部捜査員と共に、スクリーン前の席に留まっていた。警察庁から派遣された特援のリーダーもまた、その場に残っている。彼の隣に座る男は、休憩中も微動だにせず、ただ静かに会議室を見渡していた。内閣官房の指示に基づく措置——先ほどの一言だけを残し、何も語らない男が、その場に依然として座り続けていた。


 休憩の終わりを告げるように、倉田が再びスクリーンに向かった。彼の表情は疲労を滲ませながらも、どこか確信に満ちている。


「ここからが、この捜査の核心です」


 その重い口調に、ざわめいていた会議室が再び静まり返った。倉田が操作するモニターには、神戸市の地図が映し出され、三宮と六甲道の二点が赤く点滅している。画面の右隅には、先ほど提示された逢坂瑠那の静止画が小さく表示され、その下に時刻が記されていた。


「こちらをご覧ください」


 倉田が指し示したのは、三宮のコンビニエンスストア外に設置された防犯カメラ映像から切り出された静止画だ。画面には、白の半袖Tシャツにクロップドパンツ姿の少女が、通行人の中に溶け込むように歩いている。日時は9月4日午後二時十二分。

 次のスライドには、(なだ)区六甲道公園近くの交差点に設置された信号カメラの映像。やはり同じ服装の少女らしき人物が映っていた。日時は9月4日午後二時二十六分。


「この二つの地点は、直線距離で約4.5km離れています」


 倉田はレーザーポインターで二点間を結び、画面下部に距離と時間を表示した。


「この間、約4.5kmの距離を、わずか十四分で移動したことになります」


 会議室に広がるのは、沈黙だった。

 その数字は、岩田には既知のものだった。倉田から最初に報告を受けた日から、何度反芻(はんすう)しても同じ不快感が戻ってくる。約4.5kmを十四分——時速にして約19km/h。マラソンの女子トップランナーに並ぶ速度だ。車両の関与はNシステム・Tシステムで否定されている。自転車やバイクという線も当然検討した。しかし国道2号・43号のNシステムと沿道の防犯カメラを照合した結果、該当する映像は一枚も出なかった。仮に裏道を選んだとしても距離が延び、信号を一つも引っかからず全力で走ったとしても、ロードバイクで二十分以上、バイクでも十五分は下らない。二輪の動線も、物理的に成立しない。


(ならば、どう説明する)


 昨日から何十回と繰り返してきた自問が、またしても岩田の胸中に重くのしかかった。


「倉田主任。改めて確認するが、共犯者——まったく同じ服装・容姿の別人が各地点に配置されていた可能性は、現時点で排除できますか」


 倉田は一拍置いてから、答えた。


「排除できます」


 その断言に、会議室がわずかに揺れた。


「私たちには、このプリントアウトした静止画があります」


 倉田は手元の資料を一束、テーブルに置いた。それは、束になった大量の印刷物だった。


「36地点、各地点につき20枚。1フレーム毎秒で切り出した、20秒分の連続静止画です。合計720枚」


 720枚。岩田は、その数字の重さを一瞬だけ噛み締めた。


「それを持って、現地入りしている科警研の技官チームに掛け合いました。昨日の昼過ぎ、歩容解析と写真投影法による解析を依頼しました」


 倉田はスクリーンを切り替えた。そこには、複数の静止画を重ね合わせた合成図が表示されている。ぼやけた輪郭の上に、骨格の推定ラインと角度の数値等が記されていた。


「科警研の解析結果が——これです」


 倉田は、A4一枚の報告書をスクリーンに映した。


「骨格の振幅パターン、接地時の膝の角度、歩隔——歩く際の左右の足の間隔——が、極めて高い一致を示しています。さらに、髪を耳にかける際の特有の予備動作、およびショルダーバッグの慣性運動の周期も、ほぼ一致しています」


 倉田はそこで、一度だけ岩田を見た。


「……岩田主任。これは替え玉ではありません。36地点に映っているのは、全て、同一人物の歩き方です」


 会議室は、言葉のない深い沈黙に包まれた。


(ならば、彼女は一体どうやって)


 岩田自身、報告書の結論が頭に入ってこなかった。極めて高い一致。36地点。整然と並ぶ事実が確かなものであるほど、かえってその異常さが際立った。720フレームの静止画をプリントアウトし、科警研の技官に持ち込んで出た答えが——物理的に不可能、という結論だ。


(瞬間移動でもしたというのか……)


 馬鹿げた思考が岩田の脳裏をよぎり、すぐに振り払われた。


(刑事は目の前の証拠で動く。それ以外にない)


 岩田は顔を上げ、会議室にいる全員を見渡した。困惑と混乱、そして戸惑いの表情。これでは捜査が立ち行かなくなる。


「この数字は、現時点では外部に一切出さないよう、徹底をお願いします」


 岩田の声は低く、しかし明確だった。


「この数字が外部に出れば、捜査の根拠そのものが問われることになります。原因が究明されるまでは、捜査本部内部の機密として厳重に管理していただきたい。警察庁の皆さんにも、重ねてご協力をお願いします」


 それは、説明のつかない矛盾を、一時的に隠蔽するものだった。だが、岩田はそれを「捜査情報の厳格な内部統制」と捉えていた。混乱を避けるため、捜査を続行させるため、最善だと判断した。

 捜査本部長である刑事部長は、岩田の言葉に黙って頷いた。特援のリーダーも、表情を変えずに頷く。しかし、その隣に座るあの男は、この判断を誰よりも冷静に聞き入れていた。その瞳には、警察官とは異なる種類の計算が宿っている——岩田にはそう見えた。


『彼女は……空を飛んだとでも言うのか』


 会議室の沈黙の中、岩田の頭からその言葉が離れなかった。長年の刑事経験で培ってきた常識と論理が、目の前の事実に根底から揺さぶられていた。説明のつかない、生理的な恐怖が、彼の胸の奥に(おり)のように溜まっていくのを感じた。


【2012年9月7日(金)夜 兵庫県警察本部庁舎20階】


 廊下の先に、何の変哲もない事務室のドアがある。その脇に、部署名のプレートはない。県警本部に勤める者でも、この一室に何があるかを知る者はごくわずかだった。だが、内側はまるで別世界だった。


 ドアの内側には窓がなく、壁に設置されたフラットパネルモニター群が、部屋全体を青白い光で照らしている。室内の照明は最小限に落とされ、その冷たい光だけが、内閣情報調査室・特定事案分析第四班参事官、内藤の横顔を無表情に浮かび上がらせていた。兵庫県警警備部公安課の特命班がこの拠点を構えてから三年。警察庁警備局の極秘指揮のもと、「第一種秘匿管理資産」逢坂瑠那を監視し続け、その情報は内藤の特四へと集約されてきた。


 内藤の眼前に広がるモニターには、複数の情報ソースが並行して表示されている。


 モニターAは、東亜社会基盤研究所(TSRI)の組織概要だ。表向きは港湾・通信・エネルギー分野の政策提言を行う非営利シンクタンク。理事長である久世泰三(60歳前後)の顔写真と経歴が添えられている。元大手総合商社役員、政財界に幅広い人脈を持つ保守系有力者。警察庁警備局から集約された分析は、その本質をこう定義していた。


「実態:1970〜80年代コンドル・ネットワーク日本支部として発足した右翼フィクサー後継組織。

 思想的核心:根絶浄化。

 構成員:元自衛官・元警察官・民間軍事会社経験者を含む。

 現在、公安の監視対象として継続マーク中。」


 モニターBには、TSRIの実行部隊「コンパス」の主要メンバーリストと、公安から集約された動向情報が流れている。特四の表の顔は、警察庁警備局・公安調査庁から情報を集約し精査する「特定事案分析グループ」だ。今回の事案でも、公安がTSRIの不審な動きを察知・監視強化したことで、その情報が特四へと流れ込んだ。今夜のモニターBは、その経路が機能した証だった。


 モニターCに映し出されているのは、特捜本部の隠しカメラ映像。音声は断片的だが、岩田刑事が疲弊した表情で「この数字は、現時点では外部に一切出すな」と指示を下している場面が捉えられていた。内藤は無表情でそれを眺める。警察は常識の壁に阻まれ、身動きが取れなくなっている。その事実を、内藤は静かに確認した。


 そして、モニターDには、逢坂瑠那の顔写真と、今回のカメラ映像から抽出された鮮明な静止画。宗一が長年にわたり提出してきた、膨大な行動履歴と「観察記録」の報告書群が傍らに並ぶ。

 カメラに捉えられた逢坂瑠那の不可解な行動。これにより警察に目をつけられることになった。だが内藤には、それが何かの始まりだという感覚があった。18年間の観察が積み上げてきたものが、静かに収束しようとしている——そう確信できる根拠を、内藤は持っていた。しかしそれを誰かに明かすつもりは、一切ない。


 内藤は手元の携帯電話を取り上げ、短縮ダイヤルを一つ押した。呼び出し音が二度鳴り、三度目で宗一が出た。


「警察が動く。明朝、夜明けと共に踏み込む」


 内藤の声は低く、感情を含まない。受話器の向こうで、宗一が息を呑む気配が伝わってきた。


「お前はただ見ていろ。動くな。それだけでいい」


 内藤が求めているのは「何かをする」ことではなく、「何もさせない」ことだった。警察が逢坂瑠那に接触することで、何かが起こる。そう期待させるだけの確信が、内藤にはあった。


「しかし、参事官。彼女が本当に容疑者として——」

「余計な感情は要らない」


 内藤はそれだけ言って、間を置いた。続く言葉はない。だが、その沈黙は、宗一には命令として機能する。内藤が何を考えているか、聞いても答えが返ってこないことを知っている。

 宗一は、ただ「わかりました」とだけ答えた。


 内藤は通話を切り、携帯電話を机に置いた。微かな音だけが、静まり返った部屋に響いた。内藤は再びモニターへと向き直る。青白いモニターの光が、その底知れない瞳の奥を照らし出していた。


【2012年9月7日(金)深夜 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部】


 特捜本部は、まるで夜を徹した戦場の様相を呈していた。蛍光灯の青白い光が煌々と室内を照らし、捜査員たちの疲弊した顔を浮き彫りにする。デスクにはコーヒーやエナジードリンクの空き缶が散乱し、資料の山が崩れかけていた。壁に設置されたモニターには、インターネット上の「犯人探し」が過熱する2ちゃんねるの掲示板や、デマが拡散するTwitterのトレンドワードが映し出されている。「#神戸誘拐」のハッシュタグが独り歩きし、関係のない人物の顔写真が晒される事態も報告されていた。


 鳴り止まない電話は、被害者家族からの「うちの子を返せ」「無能警察!」という怒声ばかりだった。その夜、興奮した被害者家族、特に102人目と103人目の子供の親たちが兵庫県警察本部庁舎に押しかけ、1階総合受付のセキュリティゲート前で制止しようとする職員との間で小競り合いが発生した。無線でその報せを受けた捜査員の顔に、疲労に重なる苦い表情が走った。庁舎の外では報道陣が殺到し、カメラのフラッシュと夜間照明が窓から断続的に差し込み、不穏な光が室内で躍っていた。地上デジタル放送に移行してから一年が過ぎた鮮明なテレビニュースでは、被害者たちの顔が次々と映し出され、犯人への憎悪を煽るかのような演出がされていた。


 別室では、捜査幹部が身柄確保の方針について最終調整を行っていた。


「逮捕状を取るべきだ。17歳とはいえ、これだけの事件だ。逃亡リスクを軽視できない」


 強硬派の声に、慎重派が応じる。


「任意同行で十分だ。少年課との調整も要る。手続きを誤れば後で詰められる」


 岩田は両者の言葉を聞きながら、静かに口を開いた。


「まず任意同行で確保する。身元を割ったのは我々じゃない。この段階で強引に動けば、後の手続きが崩れる。逮捕状の準備は並行して進めろ。明朝、夜明けと共に踏み込む」


 岩田は幹部たちを見渡した後、声を落として付け加えた。


「逮捕状の準備書類は、少年課と連携して今夜中に整えておけ。任意同行を断られた場合に備え、被疑事実の整理と少年法上の手続き確認まで済ませておく。令状の請求自体は明朝になるが、その場で即座に動けるよう、今夜のうちに地ならしをしておきたい」


 室内に沈黙が落ちた。幹部たちは顔を見合わせ、岩田の判断に静かに頷いた。


 散会の空気が漂い始め、捜査員たちが1人また1人と席を立った。廊下に出る者、仮眠室へ向かう者、電話を手に取る者——それぞれが夜明けまでの持ち場へと散っていく。岩田は誰もいなくなった会議室に最後まで残り、ホワイトボードの端に書き殴られた「103」という数字を一度だけ見つめてから、部屋を出た。重い扉を背後で閉め、廊下を歩き出した直後だ。曲がり角で警備部公安課の捜査員と鉢合わせした。昨日の朝から特捜本部に出入りし始めた公安は、岩田にとって常に不信の対象でしかなかった。


「岩田主任。少しよろしいか。この件、背後に国家的な動きがある。テロ組織、あるいは外国工作機関の関与の可能性を排除できない。我々にも情報共有を」


 警備部公安課の捜査員は低い声で迫る。


「捜査情報は捜査本部を通じて共有する。今後、直接うちの者に接触するのは控えていただきたい」


 岩田は表情を変えずに突き放した。警備部公安課の捜査員は声を落としたまま続けた。


「あなたも分かっているはずだ、岩田主任。この事件は刑事事件の枠を超えている。そちらが動き続けるなら、上のラインで調整させてもらう」


 岩田は黙って警備部公安課の捜査員の横をすり抜け、歩き去った。脅しとも警告ともつかない言葉が、彼の背中に突き刺さる。公安が「上のラインで調整する」と言えば、それが実際に機能してしまうのが、この世界の現実だった。


 休憩室の椅子に沈み込み、岩田は冷めた缶コーヒーを啜った。心臓の鼓動が、全身の疲労に拍車をかけるように重く響く。ふと気配を感じて顔を上げると、入り口に山根刑事が立っていた。


「岩田さん……正直に言っていいですか。あのカメラに映った少女の目——私には、どうしても犯人の目には見えないんです」


 山根の言葉に、岩田は一瞬眉をひそめた。彼の視線は厳しかったが、その奥には微かな揺らぎがあった。


「山根、刑事は直感で動くな。証拠で動け。103人の子供がどこかで息をしているんだぞ。感情に流されるな」


 しかし岩田自身も、内心では山根の言葉が頭から離れなかった。


(あの娘は、どうやってあの距離を越えた)


 三宮から六甲道へのリレー捜査が破綻した時に口にした言葉が、繰り返し脳裏に浮かぶ。長年の経験で培った常識が、今、根底から揺さぶられていた。

 その時、担当の刑事が休憩室に顔を出した。


「岩田主任。任意同行の態勢、整いました」と短く報告した。


 岩田と山根の間に、数秒の沈黙が訪れた。言葉ではなく、2人の間に流れる重い空気。103人の命を背負う重圧が、その場に凝固していた。岩田は静かに缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨て、立ち上がった。


「直ちに、逢坂邸周辺への張り込みを開始する」


 岩田の指示で、山根を含む担当班が逢坂邸周辺へと向かった。9月8日未明、神戸・元町の坂道は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。港の灯りが遠く瞬き、古い石畳が涼しい初秋の夜気を吸い込んでいる。尖閣諸島国有化をめぐる緊張が列島全体を覆い始める中、2012年の神戸の夜は、どこか出口の見えない静けさの中にあった。私服警官たちが住宅街の陰に巧妙に配置されていく。坂の半ばに佇む重厚なマンション。最上階の角部屋が逢坂邸である。南に面した窓からは、まだ——光が漏れていた。その窓を見上げる警官たちの視線が一点に集中している。捜査本部に残った岩田は、無線で最終指示を出す。


「各員、位置についたら無線を切れ。夜が明けたら動く」


 岩田は、捜査本部の電話を手に取り、現場に向かった山根を呼び出した。


「山根。上が余計な口を出す前に、あの娘の身柄を確保する。何が起きても、お前は目の前のマル被だけを見てろ。——頼んだぞ」


倉田の孤独な深夜作業に共感していただけましたでしょうか。アナログからデジタルへの移行期だった当時の防犯カメラ事情、地道に紙のプリントアウトで照合を続ける執念を、できるだけ丁寧に書きました。歩容解析で「極めて高い一致」という結論が出た瞬間、事件の構図が一つ確定するあの静けさが好きです。TSRIとコンパス、そして内藤という男の登場——この話から、物語が新しい層へと踏み込みます。

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