事件の発端
舞台は数日前へと遡ります。2012年9月4日、神戸の街で子供たちが次々と姿を消し始めた——その最初の一日から、事件の発端を描きます。
SNSは混乱し、社会は恐怖に包まれていきます。岩田刑事たちが直面するのは、警察の常識を超えた異常事態。そして防犯カメラの映像に映し出された「少女の影」とは、一体誰なのでしょうか。
【2012年9月4日 火曜日】
神戸の街は、残暑が居座っていた。三宮センター街のアーケードを抜けた石畳の道には、晩夏の強い陽射しが白く反射し、アスファルトからは陽炎と共に重苦しい熱気がせり上がってくる。正午の天気予報では、気温29.3度・湿度64%と発表されており、午後は更に上昇することから30度を超えると予想されていた。それでも人々は変わらぬ日常を謳歌している。商店街のスピーカーからはAKB48のヒット曲「フライングゲット」が軽快に流れ、牛丼チェーンの看板には「並盛280円」の鮮やかな文字が躍る。デフレの停滞感が染み付いた世相のなかで、夕刊紙が「野田内閣、支持率最低更新」の見出しを掲げていた。
—— 午後二時十二分 そごう神戸店前
行き交う人々でごった返す広場。母親の真理子は、小学1年生の藤沢健太の左手をしっかりと握っていた。真理子の右手のスマホが振動する。友人からのLINEメッセージ。内容を確認しようと、真理子は片手でスマホを操作した。
「健太、ちょっと待っててね」
真理子はそう言って、健太の手をそっと放した。すぐにスマホに視線を落とし、両手で返信を打ち込む。送信ボタンをタップしてスマホをポケットにしまうと、再び健太の手を握ろうと手を伸ばした。しかし、そこに触れるべき温もりはなかった。
「健太?」
真理子ははっとして周囲を見回した。しかし、息子の姿はない。人混みを見渡しても、その小さな背中はどこにも見当たらなかった。
「健太! 健太!」
声を張り上げるが、雑踏の騒音にかき消されていく。急速に現実味を帯びていく恐怖に、真理子の背筋が凍りついた。
震える手で110番をダイヤルする。
「子供が……迷子になったんです。そごうの前で……」
耳元で響く自分の声が、異様に遠く聞こえた。背後で、いつもの賑やかな雑踏が、今は恐怖を煽る不協和音に聞こえる。
—— 午後二時十五分頃 兵庫県警通信指令室
110番の着信音がひっきりなしに鳴り響く部屋で、オペレーターたちは冷静に事案を処理していた。
「はい、兵庫県警です。……お子さんが、迷子ですか。……お名前、年齢をお願いします」
通常業務の一環だ。迷子案件は日常茶飯事。藤沢健太の通報は、迷子として生田署に情報が流された。「人員派遣、広報車による呼びかけ」の指示が出される。警察官が駆けつけ、商店街に「健太くん、健太くん」という声が響く。だが、数十分が経過しても、健太が発見されることはなかった。
—— 午後三時四十一分 灘区の六甲道公園
母親がバッグから水筒を取り出した「3秒の空白」で、5歳の女児が遊具の陰から消えた。
—— 午後三時五十五分 兵庫区
学童保育からの帰り道。友人たちと連れ立って歩いていた小学2年生の女児が、曲がり角を曲がった直後、引率の教師の視界から忽然と姿を消した。教師は「曲がった直後にはもういなかった。まるで煙のように」と、震える声で証言した。
—— 午後四時二十分 兵庫区のタワーマンション
小学1年生の男児が、自転車置き場へ向かうため親の目を離れた。だが、自転車置き場の防犯カメラを確認しても、男児がそこに現れた形跡はなかった。
最初の数件は、それぞれが個別の「迷子案件」として、管轄の警察署へと情報が流れていった。この時はまだ、これらの事案が繋がっているとは誰も考えていなかった。
—— 午後四時三十分 通信指令室
ベテランオペレーターの山下は、受話器を置き、手元のメモに目を落とした。
「……主任、今日の子供の通報、少し多くないですか?」
彼女の声に、隣の席のオペレーターが頷く。
「確かに。神戸市内だけでもう8件。迷子にしては、ちょっと多すぎますね」
まだ小さな違和感。しかし、その違和感は時間の経過と共に膨らんでいく。
—— 午後五時 神戸市内(街頭・各家庭)
サンテレビのニュース枠が、短い一報を流した。
『神戸市内で本日、子供の行方不明事案が複数件発生しています。警察が関連を調べており、お子さんのいるご家庭は十分にご注意ください』
地元住民はまだ深刻には受け止めていなかった。「迷子が多いな」程度の認識。商店街の休憩ベンチに座る初老の男性は、ガラケーのワンセグ放送でそのニュースを確認しようとするが、電波の入りが悪く、画面は粗いモザイクのままだった。
「なんか、ニュースになってるん?」
隣の女性が声をかけるが、男性は首を振る。
「いや、ようわからん。迷子がどうたら言っとるけど」
SNSのタイムラインにも、まだ漠然とした不安が漂う程度だった。Twitterに「そごうの近くで警察が子供探してる。なんか事件?」という投稿が上がり、十数件のリツイートを得た。夕方になると、灘区や兵庫区から「公園に警察来とった」「救急車も来とうわ」といった目撃情報が散発的に投稿され始める。
2ちゃんねるのニュース速報板では、「【兵庫】神戸で迷子多発?警察が各地に展開中【不審】」というスレッドが立ち上がっていたが、まだ数十件のレスで止まっていた。ハッシュタグ「#神戸迷子」が使われ始めるが、トレンド入りするほどの勢いはない。
日常が、その均衡をほんの少しずつ崩し始めていた。
—— 午後六時 兵庫県警通信指令室
室内は、熱気の籠もった異様な空気に包まれていた。晩夏の湿気と、鳴り止まぬ電話の着信音が、室内の緊迫感を増幅させていた。
「18件……19件……もう20件か!」
オペレーターの1人が、手書きの集計用紙を睨みながら呟いた。神戸市内各所からの子供の行方不明通報は、この時点で20件に達しており、全てが「小学校低学年以下」という共通項を持っていた。通常、これだけの件数が、一日のうちに同じ地域で集中することは、まずあり得ない。長年の経験が、「これは単なる迷子ではない」と告げていた。通信指令室の主任は、受話器を取り、捜査一課の当直回線に直通の内線を入れる。
「捜査一課、当直ですか。今日の子供の行方不明、現時点で20件に達しました。複数区で同時多発です。異常と判断しています」
当直から報告を受けた捜査一課長は、受話器を置くと直ぐに二本目の電話を手に取った。刑事部長への直通回線だ。報告しながら、もう片方の手で岩田を手招きする。
兵庫県警捜査一課の岩田刑事は、別件の贈収賄事件に関する書類仕事から顔を上げた。夕方の薄暗いオフィス。一課長が電話口で短く告げている内容が、断片的に耳に入ってくる。
「……はい。子供の行方不明、市内複数区で同時多発、本日だけで既に20件です。通信指令室が異常と判断。至急ご判断を……」
電話を切った一課長が、岩田に向き直った。
「岩田。今聞いた通りだ。刑事部長が動く。お前は今すぐ所轄(生田署・灘署・兵庫署・神戸水上署)との連絡体制を構築しろ。各署の地域課員と刑事課員を現場に集中させる」
「……20件?」
岩田は立ち上がった。叩き上げの三十年の刑事経験が、脳裏に警鐘を鳴らしている。一日に、同じ地域で、同じ年齢層が、20件。その数字だけで十分だった。これはただの行方不明事案ではない。
午後六時二十分頃、捜査一課長からの報告を受けた刑事部長は、本件を「特異行方不明事案」と判断し、即座に警察本部長へ具申した。本部長の決裁により、当夜のうちに「連続児童行方不明事案捜査指揮本部」の先行設置が決定される。あわせて県下全域への緊急配備が発令され、警察庁への特異事案速報と、近畿管区警察局・隣接府県警察への広域緊急配備の協力要請が、ただちに手配された。これは通常なら翌日以降になる手続きを大幅に前倒しした、異例の初動だった。
命令を受けた岩田は動いた。所轄への連絡を次々と入れながら、同時に県警の通信指令課を通じて、無線が市内の全警察車両へ一斉に飛んだ。
「マル被、現認なし! 市内各署、周辺聞き込み急げ!」
「広域児童失踪事案、刑事事件として捜査開始。全署、情報を本部へ集約せよ!」
人員が圧倒的に足りない。各署の刑事課は通常の夜間業務の人員しかおらず、時間外呼び出しのサイレンが鳴り響く。普段は静かな警察署の廊下も、宵の口にもかかわらず、慌ただしく行き交う捜査員の足音でざわついていた。ただの行方不明じゃない——岩田のなかで、その確信が形をなし始めていた。
—— 午後十時 兵庫県警察本部庁舎/市内各所
捜索は夜間に突入し、難航を極めていた。日没後の公園や商業施設周辺は薄暗く、わずかな光が闇を切り裂く。捜査員たちは懐中電灯を手に、草むらや路地の隅々まで目を凝らすが、成果は上がらない。防犯カメラ映像の確保も急務だが、進んでいない。市内の防犯カメラはDVRによる録画が主流になりつつあるが、ネットワーク接続などとうてい望めない。映像を回収するには、捜査員が現場に出向き、DVR本体のHDDを押収するか、店舗や施設の管理者に頼んでDVD-Rに焼き出してもらうしかない。その交渉と作業だけで一箇所あたり二、三時間かかる。
この日の公式発表では「行方不明者22人」。しかし、実際には25件以上の通報が入っており、保護者の身元確認や住所照合作業が追いついていないのが実情だった。複数の親戚が同一の子供を別々に届け出る「重複通報」の仕分けにも、限られた人員が割かれている。
岩田は兵庫県警察本部庁舎22階の廊下で、自販機で買った冷たい缶コーヒーを握りしめていた。蛍光灯の冷たい光の下、壁のモニターにはNHKのニュースが映し出されている。「神戸市で子供の行方不明が相次ぐ」——まだニュースのトーンは静かだ。しかし、その背後にある深い闇を、岩田は肌で感じていた。
SNSでは、その静けさとは裏腹に、情報の濁流が渦巻いていた。夕方の段階ですでに「#神戸誘拐」というハッシュタグがTwitterのトレンド入りを果たしており、夜になってさらに拡散が進んでいた。「黒いワンボックスが子供をさらってる」「外国人グループが怪しい動きをしている」「犯人グループが乗った車のナンバーが〇〇」——信憑性の低いデマが次々と生まれ、瞬く間に拡散されていく。警察の広報課は手動でデマへの対応ツイートを出し始めるが、焼け石に水だった。2ちゃんねるの「ニュース速報+」板では、「神戸で大量誘拐!?ヤバすぎる件」というスレッドが次々と立ち、またたく間に★5を超え、まとめサイトがその情報を集約し、さらに拡散を助長する。LINEやガラケーメールでは、「神戸で子供が消える事件が起きています。お子さんを外に出さないで!このメッセージを5人に送ってください」といったチェーンメールが猛烈な勢いで出回り、事実確認もないまま人から人へと渡っていったが、この情報爆発に対応できる体制を、警察は持ち合わせていなかった。
—— 午後十一時 全国各地(テレビ中継)
東京キー局のニュース番組が、ほぼ同時刻に速報を打った。テレビ朝日「報道ステーション」、TBS「NEWS23」が、立て続けに「神戸の異常事態」をトップニュースで報じる。
「神戸市内で、子供の失踪が異常なペースで相次いでいます。1日だけで少なくとも20人以上が行方不明となっており、警察は組織的な誘拐事件の可能性も視野に捜査を進めています」
スタジオのキャスターの表情は硬い。「神隠し」「テロ」という言葉が、この夜、初めて画面に登場し、日本中に衝撃が走った。岩田はコンビニ弁当を温めながら、遠くのテレビの音を聞いていた。東日本大震災から1年半が経過し、復興への祈りと、日常の中に潜む漠然とした不安が混在する夜だった。岩田は、子供たちが消えた理由を掴めないまま、重く長い夜を過ごすしかなかった。
【2012年9月5日 水曜日】
—— 午前六時 全国各地(テレビ中継)
夜が明け、皆がテレビをつけたその時、日本列島が昨日とはまったく違う朝を迎えたことを知った。全国ネットの朝のニュースは一斉に「神戸」を伝えた。各局の速報テロップが画面の下を流れ続ける。NHK「おはよう日本」、日本テレビ「ZIP!」、テレビ朝日「グッド!モーニング」——どの番組も、三宮からの慌ただしい中継映像を繋いでいた。画面には、夜通し行われた捜索活動の様子や、疲労をにじませながらまだ人影まばらな通りを調べる警察官たちの姿が映し出されていた。
「神戸市内で発生した子供の行方不明事件は、夜間のうちにさらに件数を増やし、現在40人を超える失踪者が確認されています。警察は組織的な事件と見て、大規模な捜査本部を設置する方針を固めました」
キャスターの声は緊迫し、表情は硬い。一夜にして、神戸は「子供が消える街」として烙印を押された。テレビ画面に映し出される現場の緊迫感、そして次々と報じられる異常な数字が、人々の当たり前の日常を、もう後戻りできないところまで変えつつあった。
—— 午前六時三十分 兵庫県警察本部庁舎
警察庁は本件を「広域重要事件 準指定」へと格上げした。「警察庁指定事件に発展するおそれのある事件」に適用される、指定の一歩手前の区分である。事態は警察庁長官へ緊急報告され、直ちに近畿管区警察局による広域調整が発動された。同局を司令塔として、近畿管区内の関係都道府県警察へ通達が発出され、全国の警察機構にも情報共有が広がりつつあった。同時に、警察庁からは広域捜査指導官の現地派遣も決定された。
兵庫県警察本部庁舎22階の一室には、「神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部」の看板が掲げられた。通常ならば警視以上の幹部が座る前線の指揮席に、今日は捜査一課の叩き上げである岩田刑事が捜査主任官として陣取り、現場の指揮を執っていた。薄暗いフロアには、昨日まで別件の捜査にあたっていた私服警官や制服警官が次々と集結する。机は急ピッチで運び込まれ、電話回線が引き回される。早朝の時点で二百名だった動員数は、昼過ぎには四百名規模へと拡大する見込みだ。彼らは皆、寝袋を抱え、文字通り詰める覚悟でやってきた。
捜査本部の壁一面には、行方不明となった子供たちの顔写真が張り出されていた。幼稚園児のあどけない笑顔、小学校低学年のやんちゃな顔、それぞれが何気ない日常の中で撮影されたものだ。しかし、いまやそれは「消えた命」の証として、捜査員たちの胸を抉る。大型モニターには神戸市全域の地図が映し出され、各失踪地点には赤い点が不気味に瞬いていた。
岩田は、その赤い点に埋め尽くされた地図を、一睡もしていない目で睨み続けていた。缶コーヒーをすでに3本空にしているが、疲労は限界を超え、眠気は通り越して、むしろ意識が冴えわたっているような錯覚を覚える。
庁舎の窓の外では、神戸市内の主要道路に「なにわ」「和泉」「京都」「奈良」ナンバーの警察車両や機動隊バスが連なっているのが見えた。応援部隊の急増で警察無線はすでに混信状態に陥っており、機動通信隊が市内の高層ビル屋上に臨時通信アンテナを設置して回っているとの報告が入っていた。千葉の科学警察研究所からも専門家チームが現地入りし、失踪現場の痕跡分析を開始するという。そして同日午後三時には内閣官房に「官邸対策室」が設置されるとの連絡が上から降りてきた。官邸まで動いたか。岩田は、この事件が自分たちの手の届く範囲をすでに超え始めていることを、肌で感じていた。
「岩田主任、捜査項目です」
若い刑事が資料を差し出す。岩田は無言で受け取り、目を走らせる。
防犯カメラ映像の一斉収集——神戸市中央区、灘区、兵庫区を中心に、JR・阪急・阪神の主要駅構内、コンビニエンスストア、商店街、学校・幼稚園・保育園周辺の公的街頭カメラ。
「中央区、灘区、兵庫区の三区合わせても、警察がアクセスできる防犯カメラは500〜800台といったところか。どれもネットワークには繋がっていない。銀行や新築ビルはHD画質の機器も入っているが、街頭や商店の大半は低画質のままだ。回収は全部、人間の足でやるしかない。全部集めるだけで何日かかると思っている?」
岩田は独り言のように呟いた。
広域聞き込み捜査——失踪現場周辺の全住民、近隣の学校・幼稚園関係者、コンビニ店員。
「四百名でも到底足りん。だがやるしかない」
港湾の監視強化——「子供を海から運び出す」という最悪の事態を想定し、神戸港の出入りに目を光らせる。ただし、現時点では正式な封鎖命令を出せる根拠がない。実態は「強化警戒」であり、海上保安庁への協力打診も、あくまで非公式の要請にとどまっていた。
不審者情報の照合——過去の児童関連事件の被疑者リスト、性犯罪者情報との照合。
Nシステム——兵庫県警が管理する自動車ナンバー自動読取装置を全面稼働させ、国道2号、43号、阪神高速の各主要幹線に設置された読取装置で、現時点で把握済みの失踪現場付近を通過した全車両のナンバーを照合中だ。しかし、不審車両は一台もヒットしていない。
Tシステム——国土交通省が管理する旅行時間測定システム。本来は交通量調査用だが、ナンバーの一部を記録しており、Nシステムの死角を補完する「裏の捜査リソース」として活用できる。しかしこちらも結果はゼロだった。
車を使っていない? それとも、追えない? 岩田は静かに困惑した。
岩田の脳裏を一つの疑問が支配していた。「身代金なし、犯行声明なし」。この事実が、捜査本部を最も苦しめていた。動機が見えない。身代金目的なら連絡があるはず。政治的要求なら声明が出るはずだ。しかし、何もない。
岩田は会議室のホワイトボードに向き直り、マーカーを手に取った。
「動機不明」
たった四文字が、この事件の途方もない異常性を物語っていた。子供が40人を超えた。犯人は、一体何をしようとしているのか。
—— 午前十一時頃 全国各地(ワイドショー中継)
ワイドショーは一斉にこの事件を特集し始めた。「情報ライブ ミヤネ屋」(読売テレビ)は、三宮からの生中継を繋ぎ続け、「失踪者が50人を超えた」という衝撃的な数字を日本中のリビングに叩き込んだ。スタジオでは、専門家と称するコメンテーターたちが顔を並べ、「組織犯罪の可能性」「外国勢力の工作」「カルト宗教の関与」など、どれも証拠のない推測を口々に並べた。憶測は憶測を呼び、不安はさらに煽られていく。「とくダネ!」(フジテレビ)は、神戸市内の「ゴーストタウン化」を報じた。公園から子供の姿が消え、学校の登校率が3割を切った地域もある。スーパーやコンビニでは、防犯グッズが飛ぶように売れ、売り切れが相次いだ。
SNSの熱気は、一夜にして別次元へ跳ね上がっていた。Twitterでは「#神戸誘拐」が終日トレンドのトップを独走し続ける。昨夜と同じデマが、より多くの人間の指によって拡散される。「黒いワンボックスが子供をさらっている」「外国人グループが怪しい動きをしている」——これらは昨夜と同じ出所不明の情報だ。しかし、数万件の拡散を経ると、もはやデマと事実の境界線は溶けて消える。虚報が都市伝説として定着する速度は、警察の否定ツイートの何十倍も速かった。週刊誌の記者たちは、すでに神戸に集結し始めていた。ホテルの空室はあっという間に埋まり、街は異様な熱に包まれていく。
岩田は、兵庫県警察本部庁舎22階の廊下に設置された自販機の前で立ち止まった。食堂の扉の隙間から、誰かの携帯が鳴る音が漏れてくる。スマートフォンを持つ捜査員がいる一方で、ガラケーしか持たない者も多い。通信手段もばらばらのまま、デマの洪水に抗う術を持たない無力感が、岩田の胸に重くのしかかっていた。
この日の夜、失踪者の数は約80件にまで膨らんだ。モニターの地図に灯る赤い点は、もはや数えきれる数ではなかった。
【2012年9月6日 木曜日】
兵庫県警察本部庁舎22階の神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部。窓の外には神戸の街が広がり、晴れた朝の光の中で人々が行き交うのが見える。しかしその日常の光景は、ガラス一枚を隔てただけで完全に別世界だった。室内には缶コーヒーと汗と紙の匂いが染み付き、空調の唸りだけが低く響いている。100人を超えた。その数字だけが、壁の地図の前で岩田の頭を占領していた。
—— 午前九時 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部
内閣官房長官が緊急記者会見を開いた。事件は前日午後から政府・官邸を動かし始めており、9月5日午後三時には官邸の危機管理センターに「官邸対策室」が発足していた。テレビモニターには、青い背景の前に立つ長官が、硬い表情で声明を読み上げる姿が映し出されている。
「神戸市内において、現時点で百名を超える児童が行方不明となっているとの報告を受けております。昨日午後、官邸内の危機管理センターに「神戸市内児童連続失踪事案に関する官邸対策室」を設置いたしました。本件は極めて異常かつ重大な事態であり、政府としては安否の確認と救助を最優先課題として、警察庁を中心に関係閣僚が緊密に連携し、政府の総力を挙げて全力を尽くす所存であります。国民の皆様におかれましては、落ち着いて行動いただくとともに、不審な情報等があれば速やかに警察へ通報いただくようお願い申し上げます」
「言葉だけは立派だが、現場の絶望を何も分かっていない」
岩田刑事は、テレビモニターを見ながら呟いた。捜査本部には、疲労と無力感が濃密な霧のように立ち込めている。二十四時間体制での捜索は既に三日目に入り、多くの捜査員は寝袋を抱えてこの場に詰めかけていた。コンビニ弁当や牛丼、カップ麺の空容器が、所々に山をなしている。
官邸対策室の発足と時を同じくして、岩田は別の訪問者の存在を意識し始めていた。昨日から、捜査本部の幹部会議に見慣れない顔が混じっている。警察庁から派遣された「特別捜査支援チーム(以後:特援)」——背広を着たキャリア官僚たちだ。彼らは岩田のような叩き上げの現場刑事とは別世界の人間で、口を開けば「統計的な傾向」と「上への報告ライン」しか語らない。現場を数字とデータでしか見ない、冷え冷えとした眼差しが、岩田の焦燥を煽る。ただ、チームの中に1人だけ、他の面々とは毛色の違う男がいた。質問をしない。メモを取らない。ただ、聞いている。バッジは他のメンバーと同じチームのものだが、胸の内ポケットには別の何かが入っているように見えた。気のせいかもしれない。岩田はそう思うことにした。
さらに気になるのは、捜査本部のトップ層——本部長や捜査一課長——が、時折、会議室に籠もって外部の誰かと連絡を取っていることだ。「内閣官房からの問い合わせだ」と一言で片付けられるが、その後、捜査の特定項目について「しばらく動くな」という指示が降りてくる。理由は語られない。
—— 午前十時十七分 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部
兵庫区在住の小学1年生男児が行方不明。母親が朝に気づいたが、届け出が遅れたケースだ。これで行方不明者は103人。通信指令室から捜査本部に数字が上がってくる。岩田はホワイトボードの「行方不明者数」の欄を「103」に書き換えた。
—— 午前十一時 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部
午前十一時ちょうど、捜査本部に警察庁からの緊急通達が届いた。本件を「警察庁広域重要指定事件」に指定する旨の通知だった。適用されたのは、広域重要事件捜査要綱のただし書。通常は複数県にまたがる犯罪に適用される指定を、「社会的反響の特に大きい特異重要事件」として一地方組織の枠を超えた組織捜査を要すると認める、異例の拡張規定だった。準指定からわずか一日での格上げ。一都市内に閉じた事件で本指定が適用されるのは、日本警察史上ほぼ前例のない事態だった。
本指定を受け、動員規模は一気に拡大する。これまで近畿管区中心だった応援は、関東、中部、九州の各管区にまで及び、警視庁SITの精鋭部隊も空路で神戸へ向かっていた。現在四百名規模の捜査本部は、夕刻までに一千五百名に達する見込みだ。モニターを見つめ、「ついに本指定か」と岩田は低く呟いた。叩き上げ三十年の刑事経験においても、準指定からわずか一日での本指定、しかも一都市内に関してこれが適用されるのは、初めて見る事態だった。国家がこの事件の異常性を正式に認めたということだ。それは一筋の光でもあり、同時に、事態がそこまでこじれているという証でもあった。岩田は、胸の奥で何かが静かに冷えていくのを感じた。
—— 午前十一時三十分 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部
岩田は缶コーヒーを片手に、神戸市全域の地図の前に立つ。赤い点が無数に打たれた地図は、もはや地図というより、何かの暗号に見える。
「いったい何が目的なんだ……」
神戸港周辺の検問は昨夜から厳重に敷かれ、六甲山系の山狩りも連日行われていた。しかし、それらは全て空振りに終わっている。「マル被、現認なし」「特異点なし」。無線から飛び交う報告は、常にその繰り返しだ。こんな大規模な、しかも同時多発的な事件で、動機が一切不明というケースは、三十年の刑事経験で一度たりとも記憶になかった。部下の若い刑事が、昨夜、感情を抑えきれずに泣いているのを見た。疲労がピークに達し、無力感が全身を苛んでいるのだ。
閉塞感に包まれた捜査本部で、岩田は見慣れない男たちが刑事たちの動きを値踏みするように見つめていることに気づいた。警備部公安課の捜査員たちだった。彼らは事件の背後にカルトや外国勢力の関与を疑っているらしく、現場の地道な捜査とは別のラインで、すでに独自に動き始めているようだった。刑事たちの憔悴をよそに、独自の論理で立ち回る彼らの姿を見て、岩田は苦い思いを噛み締める。公安の介入。岩田の胸中を、拭いきれない不穏な予感が支配していた。
テレビのワイドショーは「情報ライブ ミヤネ屋」を筆頭に、朝から晩まで神戸からの生中継を繋ぎ続けた。「史上最悪の誘拐事件」「前代未聞の神隠し」。センセーショナルな言葉が、日本中のリビングに叩き込まれる。スタジオの専門家たちは、根拠のない「組織犯罪」「外国勢力の関与」「カルト宗教」といった憶測を垂れ流し続けた。週刊文春と週刊現代は「緊急増刊号」の準備に入り、見出しには「警察は何をしていた?」「神隠しの真相」といった挑発的な文句が躍る。海外メディアのBBCやCNN、ロイターも神戸に記者を派遣し始め、事件は外交問題化する懸念を帯びていた。
Twitterは「#神戸神隠し」「#神戸誘拐」が終日トレンドのトップを走り、「#警察何やってる」といった警察を非難するハッシュタグも急上昇していた。一部のアカウントは、「黒幕は外国の工作機関だ」「複数のプロによる計画的犯行に違いない」といった断片的な憶測を投稿し始め、それがまとめサイトで拡散されていく。2ちゃんねるでは犯人像をめぐるスレッドが乱立し、根拠なき推測が書き込まれていた。警察の広報課はデマへの対応に追われるが、情報の洪水を止める術はなかった。
—— 午後零時三十分頃 兵庫県警察本部庁舎15階 防犯カメラ解析室
張り詰めた沈黙を破るように、岩田のPHSが震えた。
「岩田主任、来てもらえますか。……複数の現場に、同じ特徴の人物が映っています」
電話の主は、防犯カメラ解析班の主任・倉田だ。
解析室は、兵庫県警察本部庁舎15階の最も奥まった一角にあった。薄暗い室内には、埃っぽい空調の音が響き、押収したDVRのHDDと、施設管理者に焼いてもらったDVD-Rの束が、机の上に乱雑に積み上がっている。いくつものモニターが並び、それぞれ異なる時刻の、異なる場所の映像を映し出していた。約四十名の捜査員が、昼夜を問わず、目と耳を酷使し、映像に張り付いている。彼らは9月5日早朝に捜査本部が設置されて以来、丸三十時間以上、一睡もせずにこの作業を続けていた。兵庫区、中央区、灘区の主要地点から、捜査員が一件一件足で回収してきた約500台分の映像だ。日に日に増員される捜査員のローラー作戦が、回収を予想以上の速さで進めていた。それらを一つ一つ再生し、異常がないかを目視で確認していく、気の遠くなるような作業だ。
倉田主任が、岩田を一つのモニターの前へ案内した。
「岩田主任、失踪現場、もしくはその近辺に設置された防犯カメラの映像を突き合わせていたんですが……」
若い刑事が、再生ボタンを押す。
画面に映し出されたのは、三宮の雑踏。2012年9月4日、午後二時十二分の映像だ。失踪した小学1年生のAが最後に目撃されたコンビニの外カメラ。DVR特有のざらついた低画質の中に、1人の少女の姿が確認できた。白いトップス、暗い色のボトムス、白いスニーカー。髪は後ろで一つにまとめている。私服姿の、ごく普通の十代と思われる少女だ。
次の映像。灘区、9月4日午後二時二十六分。別の失踪者Bの現場近くの交差点の信号カメラ。やはり、同じ少女らしき人物が映っている。画質は粗く顔の判別はできないが、体格、髪型、服装の組み合わせ——白いトップスに暗いボトムス、白いスニーカー——どれもが一致している。
次。兵庫区。
次。中央区。
岩田は息を呑んだ。画面の中で、同じ少女が、神戸市内のあちこちに現れていた。離れた場所に、立て続けに。とても歩いて移動できる間隔ではない。
誰かが「まるで幽霊だ」と呟いた。
「何台の映像に映っている」
岩田の声は、枯れていた。
倉田主任は、モニターから目を離さずに答えた。
「……解析済みの約500台のうち、36台で確認できています」
しかし、倉田主任は険しい表情で続けた。
「問題は、ここからです。我々はこの少女の足取りを追うため、カメラ映像のリレー捜査を試みました。三宮のカメラに姿が確認された約十四分後、直線距離で約4.5km離れた六甲道のカメラに、再び同一人物が映っています。徒歩なら小一時間はかかる距離です。しかし、その間に存在するはずの何十台ものカメラには、彼女の姿は一切ありません。NシステムもTシステムも、その区間を通過した不審車両はゼロ。タクシーやバスの乗車記録も全て照合しましたが、該当するものは見つかっていません」
倉田主任は一拍置いた。
「映像のバグ、あるいはハッキングも疑いました。ですが、複数のメーカーの、別々のシステムが、まったく同じ「欠落」を示しています。ハッキングでは、説明がつかないんです」
「彼女は……空を飛んだとでも言うのか」
岩田の言葉は、乾いていた。答えを求めているわけではなかった。ただ、それ以外に言い表せる言葉がなかっただけだ。
36台。約七パーセント。膨大な映像の海の中で見つけ出された、しかし偶然と断じるにはあまりにも多すぎる数字。岩田は、缶コーヒーを握りしめたまま、モニターを見つめ続けた。36台のうち35台は低画質のDVR映像で、人物の輪郭は辛うじて識別できる程度だ。しかし、一台だけ違う映像があった。
灘区の信用金庫に設置された防犯カメラ。HD画質対応の新型機器で、映像は他とは比べ物にならないほど鮮明だった。その画面の中で、少女は一瞬だけ、ほぼ正面を向いている。白の半袖Tシャツ、ダークインディゴのクロップドパンツ、白いコンバース。一つにまとめた髪が、残暑の風に少し揺れていた。顔の造作が、はっきりと読み取れた。表情は、驚くほど平静だった。
倉田主任が静かに言った。
「この一台で、身元の照合ができます」
1人の人間が、同時に複数の場所に存在することは、物理的に不可能だ。だが、この映像は、その矛盾を突きつけていた。
照合作業が始まった。顔認証システム——犯罪歴者のデータベースに少女の顔はヒットしない。運転免許証の顔写真データベース——十代と見られる少女が免許を持っている保証はなく、照会手続きは時間を食う。近隣の学校・塾・習い事施設への緊急聞き込み——「知っている」という声は上がらない。手がかりが出るたびに潰れていく。窓の外の空が、じりじりと赤みを帯び始めていた。
—— 午後六時四十分頃 兵庫県警察本部庁舎15階 防犯カメラ解析室
照合作業がなお詰まっていた夕刻、解析室に1人の男が現れた。昨日から捜査本部の幹部会議に同席していた、あのチームの中の1人だ。細身の体に上等な背広を完璧に着こなし、チームと同じバッジを胸に付けているが、胸元には別の身分証らしきものが、わずかに覗いていた。男は表情一つ変えずに告げた。
「例の少女に関する映像データ、全データを提出いただきたい。国家安全保障上の機密情報解析が必要です」
「機密情報、だと? 一体何のことだ」
岩田が問い返すと、男は感情の欠片もない声で答えた。
「手続きはすでに上を通っています」
異論を挟む間もなく、データは回収されていった。男が去った直後、捜査本部の端末から「例の少女」の映像にアクセスしようとしたところ、突然「データ不存在」のエラーが表示されるようになった。担当の解析官は「システム上のバグだ」と説明したが、岩田には信じられなかった。
—— 深夜 兵庫県警察本部庁舎22階 神戸市児童連続行方不明事件特別捜査本部
デジタルデータは持ち去られたが、解析班が事前に印刷していた静止画は手元に残っていた。それを頼りに、捜査本部の照合作業は続いていた。他府県の照会、犯罪者データベースとの突合、周辺住民への聞き込み——しかしいずれも空振りに終わった。少女の身元は、この夜のうちには割れなかった。
岩田はデスクに戻り、壁のホワイトボードを見つめた。「103」という数字が、赤いマーカーで書かれたまま動いていない。少女の映像は紙の上にしか残っていない。身元は不明のまま。しかし夜明けの捜査会議で、事態は動くはずだ。岩田にはそう確信する根拠があった——「上」は既に何かを掴んでいる。あれだけの迅速さで映像を回収した連中が、照合に手間取るとは思えない。答えは、すでに誰かの手の中にある。
【2012年9月7日 金曜日】
—— 深夜
神戸市中央区元町のマンションの一室では、逢坂宗一が1人、机に向かっていた。
内調からの連絡は、夜に届いていた。翌朝、警察が来る。そう告げられていた。
宗一がペンを取り、何かを書き始める。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
何を書いたのか、この夜に知る者はいない。
103人もの子供が一日で消えるという前代未聞の事態。AKB48の「フライングゲット」が流れ、牛丼並盛280円が並ぶ街の日常に、あまりにも異質な恐怖が忍び込んでいく——そのギャップを書きたかった話です。東日本大震災から1年半、まだどこかに不安が漂っていたあの時代の空気も、背景として意識しました。DVRの防犯カメラ映像を地道に一本一本確認していく捜査員たちの姿に、少しでも「リアル」を感じていただけたなら嬉しいです。




