プロローグ
ようこそ、『五次元の不在証明』の世界へ。
2012年9月8日、土曜日の朝。神戸・元町の静かなマンションで、17歳の逢坂瑠那は、ひとりでココアを作り、iPhone4SのLINEの通知を開かないまま、ロンドン五輪の余韻が残るテレビを眺めていました。何もかも普通のはずの朝に、彼女はなぜか「ずれている」ような感覚を抱いています。そして、玄関のドアが開く。
静かに、しかし確実に、物語の幕が上がります。
【2012年9月8日 土曜日 朝七時三十分 神戸市中央区元町】
JR東海道線から少し北へ上る坂道の途中、オートロック付き分譲マンションの最上階、角部屋。南向きの大きな窓から、初秋の朝日が差し込んでいた。まだ夏の熱気を薄く残した空気が、その光に染まっていく。
私はリビングのキッチンで、ケトルが湯を沸かす音に耳を傾けていた。その間に、美濃焼の白いミルクジャグへミルクを注ぎ、電子レンジで温め始める。
やがて湯がボコボコと沸き立ち、カチッとスイッチが戻って音が止んだ。あらかじめココアパウダーとグラニュー糖を入れておいたマグカップに、熱湯をほんの少しだけ注ぐ。ココアビーターで、粉っぽさが消えて艶が出るまで練る。そこへ、レンジで温まったミルクを静かに注ぎ入れた。深い茶色の底から白が立ち上り、混ざっていく。仕上げにもう一度ビーターを差し込み、円を描く。カップの中は、温もりを凝縮したようなやわらかなペールブラウンに変わっていた。甘い香りが立つ。両手で包むと、熱が指先に伝わり、束の間の安堵を覚えた。
地デジ対応の大型テレビからは、音量を絞ったニュースが低く流れている。ロンドン五輪の余韻と、野田改造内閣をめぐる政局。お決まりの顔ぶれと、変わらぬ閉塞感。画面の向こうは、停滞したいつもの日常だった。
ダイニングテーブルの上で、私物のiPhone4Sの画面がふわりと明るくなった。LINEのアイコンに「1」。送り主は、中学からの唯一の親友、本田真美。きっと他愛もない用件だろう。「今日何する?」とか、「駅前の新しいパン屋行かない?」とか。私には少し眩しすぎる、その種のメッセージ。
指を伸ばしかけて、結局、画面は開かなかった。既読をつけたくないわけではない。ただ、今は返信する気分ではなかった。——というより、返信する必要がないことを、どこかで分かっていた。
「既読」という言葉が人間関係を縛り始めた時代に、これは奇妙な振る舞いだったと思う。「返事こない」「既読無視された」と騒ぐ友人たちを、私はいつも少し離れた場所から眺めていた。そうやって距離を取ろうとする一方で、私の身体のほうは、否応なく人目を引いてしまう。
175センチ。周りの誰よりも頭ひとつ抜きん出ていることを、小学校に上がる頃から意識してきた。だから服は地味なものばかり選んだし、背筋を伸ばしきらないよう、わずかに背を丸めて立つ癖がついた。目立たないための、習慣。清潔感だけは保つようにしていたが、誰かの目に映りたいとは思わなかった。
ココアの香りが薄れていく。私はマグカップを手に、南向きの窓へ視線を向けた。
大阪湾の上空に、白く薄れた朝の月が、か細く浮かんでいた。
いつも通りの海。いつも通りの空。いつも通りの神戸の街。
なのに、何かがわずかにずれて見えた。世界の輪郭が薄くなり、別の何かと重なっている。薄い紙を二枚、ほんの少しずらして重ねたように、海も空も街も、縁のところが二重になっている。音でも光でもない、五感では捉えきれない「ノイズ」。それは言葉にならないまま、私の内側で鳴っていた。
昨日までの日常という薄い膜が、剥がれ落ちていく予感。私はたぶん、それを知っていた。
マグカップの口が唇に触れるか触れないか、その一瞬だった。
エントランスのインターホンが鳴った。
甲高い電子音が、広い最上階の部屋に響き、壁と家具に反響して減衰した。私は驚かなかった。むしろ「ようやく来た」という納得が、胸の奥から湧いた。予期していたというより、もう避けられない出来事として、心のどこかが先に受け入れていた。
父の書斎兼自室は、玄関ホールから直接入れる位置にある。リビングとはドア一枚で仕切られているが、そのドア越しに、書斎の扉が開く音と、父が部屋を出る気配が伝わってきた。父はリビングには入ってこない。玄関ホールのインターホン親機へ向かったのだろう。
低い声が、途切れた電子音の向こうと交わされる。
「はい、逢坂です」
「……」
「承知いたしました」
父の声に、感情はなかった。事務的な応答が数秒。ピッ、とオートロックが解除される音がした。外の世界と私を隔てていた境界が、そこで消えた。私を閉じ込めていた檻の鍵を、最も信頼すべき人物が開けた。
マグカップをテーブルに置く。飲みかけのココアは、もう冷め始めている。さっき両手に移ったぬくもりも、指先から抜けていくところだった。
厚い共用壁の向こう、エレベーターホールで機械の駆動音が始まった。最上階へ向かってモーターが唸り、ワイヤーがシャフトを擦る。その振動が躯体を伝って、逢坂瑠那の日常へ近づいてくる。やがて音は止み、ホールに静けさが戻った。
マグカップから手を離して、どれくらい経っただろうか。
玄関のインターホンが、唐突に鳴った。
父が応じる気配。ガチャリ、と錠が外れる音が、静まったリビングまで届く。続いて玄関ドアが外へ開かれる重い音。
複数の足音が、大理石の床を叩いて入ってくる。一人分ではない。二人、三人。硬い靴音が、リビングの静寂を無遠慮に踏みにじっていく。
父と彼らのあいだに、言葉はない。ただ、父の慣れた足音が先導するようにこちらへ近づく。
仕切りドアのレバーハンドルが下がり、開け放たれた。流れ込んできた異質な気配が、張り詰めていた空気を上書きする。現れたのは、二人の男と、一人の女だった。
先頭に立ったのは、三十代後半とおぼしき女だった。黒のスーツに白いシャツ。毅然とした表情の奥に、疲労がにじんでいる。彼女は私を視認すると、一瞬だけ目を合わせ、すぐに視線を外して、ポケットから警察手帳を取り出した。
「逢坂瑠那さんですね。兵庫県警察本部、捜査一課の山根と申します」
提示された顔写真と氏名が、ぼんやりと目に映る。山根刑事は所属と名を名乗ったあと、丁寧な口調で続けた。
「現在、神戸市内で発生している広域児童失踪事件の捜査で、お話を伺いたいことがあります。大変恐縮ですが、警察署までご同行願えませんでしょうか」
「願えないか」という言葉は、選択の余地があるかのように響く。だが、分かっていた。彼らの背後には、百人を超える子供たちの失踪と、街全体の不穏がある。断ることは許されない。断れば、その先に待つのは「強制」というもっと冷たい言葉だ。
刑事たちをリビングへ通したあと、父は仕切りドアのそば、玄関ホール側に半身を引いて立っていた。会話に耳を傾けているようにも、ただ状況を観察しているようにも見える。その顔には、親としての動揺も、娘を案じる色もない。私が連行される手順を、検品でもするように見つめている。彼は警察に道を開け、私のところまで案内した。そのごく自然な行為が、私の日常を終わらせた裏切りだった。
山根刑事の言葉は届いた。だが、その意味が頭の中で像を結ぶまでに、不自然な遅れがあった。時間が、ゴムのように引き伸ばされていく。周囲は色彩を失って遠のき、彼女の声は、命の通わない平板な音にしか聞こえなかった。
私は、小さく頷いた。
弁明も、質問も、逃げたいという衝動もない。ただ一言だけ口にした。
「はい」
いつもの日常に対する、最後の一言だった。
喉に薄い膜が張ったような渇き。心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速い。足元から微かな浮遊感がせり上がってくる。だが声にしようとした瞬間、その揺らぎは消えた。私の声は驚くほど静かで、迷いがなかった。沈黙のリビングに、その一言が定着する。
山根刑事の眉が、わずかに動いた。彼女は私の瞳の奥を覗き込み、一瞬だけ視線を止めた。それから何かを納得したように、重い息を吐いた。
視界の端に、父がいた。
仕切りドアの傍ら、玄関ホール側に半身を引いて、それでも私からははっきり見える位置に佇んでいる。舞台袖から役者を見据える演出家のようだ、と思った。驚きも、悲しみも、怒りもない。あるのは、観察者の眼差しだけ。その視線は、長く綴られてきた物語の最後に添えられる、静かな幕引きのカットを思わせた。
ダイニングチェアに座ったまま、私は父の顔を正面から見据えた。
その刹那、思考が加速した。
視線を合わせても変わらない表情。だが瞳の奥の澱んだ感情から、数分前の記録が一コマずつ、静止画となって流れ込んでくる。インターホンへの応答。オートロックの解除。エレベーターが上がるまでの沈黙。玄関の解錠。刑事たちをここまで「案内」した、淀みのない所作。それらが今、一本のフィルムとして繋がった。これは偶然の訪問でも、突然の踏み込みでもない。すべて、父が用意したシナリオの一部だった。
父は、私の保護者だった。それは事実だ。だが同時に、観察者でもあった。
幼い頃の記憶が押し寄せる。言葉を覚える前から、私の世界は常に父の視線の中にあった。彼が私を見るとき、そこに親の情愛はなく、「得られたデータ」への乾いた満足だけがあった。あの眼差しの先に、いつも「何か」が潜んでいることを、私は漠然と感じていた。
その「何か」が今、公権力という形で姿を現した。
逃走経路を塞ぐように立つ二人の男。彼らもまた、この演出の一部だ。この光景を仕組んだ意志が、彼らの指先一つ、視線一つまで制御している。
繋がったフィルムは、さらに奥の映像を高い解像度で見せた。インターホンに応じる声のトーン。解除ボタンを押す指の重さ。玄関を開く角度。父の行動に、無駄も迷いもなかった。彼は警察官に扉を開いたのではない。私をこの道へ誘導したのだ。
私という存在が公権力へ引き渡される、その瞬間。彼が仕組んだシナリオの最終ページが、今めくられた。
親子の情など、この男には最初からなかったのか。この日のために役を演じ続けてきただけなのか。淡々とこなす、ただの任務だったのか。
その問いが内側で反響し、虚無に消えていく。
視線を父の顔から、白いワイシャツの胸元へ、そして僅かに膨らんだポケットへと移した。そこには、市販のどの機種とも違う、無骨で角張った端末が収まっているはずだ。幼い頃、充電器に繋がれたそのディスプレイに、見慣れないロゴと文字が並んでいたのを覚えている。
父の掌が、布越しに端末の輪郭をわずかに押さえた。何かが完遂された合図に見えた。父の瞳は変わらず私に向いていたが、その奥には、長い観察の結果を吟味するような深みが増していた。
窓から差し込む朝の光が、埃の粒子を照らしている。室内の静けさは、この部屋だけが世界から切り離されたかのようだった。時間の流れが粘り気を帯び、加速していた思考が、ほぼ元の速さに戻る。
ただ、壁の時計の秒針が、視覚的にわずかに遅れて見える。世界の輪郭が薄れ、その背後から別の世界のノイズが透けてくる。言葉にならないざわめきが、感覚を侵していく。私は、山根刑事の次の言葉を待っていた。
身体は鉛のように重く、意識が端からゆっくり遠ざかっていった。
山根刑事が、促すように軽く顎を引いた。私は立ち上がった。ダイニングチェアが床と擦れる音。リビングのドアをくぐり、玄関ホールへ向かう。父は仕切りドアの脇に立ったままだ。言葉は交わさない。ただ、その無言の視線が背中に刺さる。彼が何を見ているのか、今の私には分からない。あるいは、見たくなかっただけかもしれない。
玄関で靴を履き、開かれた扉から外廊下へ踏み出す。背後で、玄関ドアがゆっくりと閉まり、マンションの静寂が私たちを包んだ。ドアの向こうには、父が、長く守り続けてきた沈黙とともに残された。
エレベーターの呼び出しボタンを押す。すぐに到着ランプが点き、重い駆動音とともに上がってくる。一瞬、ロンドンの喧騒が幻聴のように耳をかすめた。先月閉幕したオリンピックの余韻か、それとも、牛丼並盛が二百八十円に張りついたままの、この平坦な日常の音だったのか。
「どうぞ」
山根刑事に促され、私は男性刑事二名に挟まれてエレベーターに乗り込んだ。きしむ機械音が、下降する箱を満たす。一階のボタンの点灯を目で追う。
エントランス。壁のアナログ時計は、七時四十一分を指していた。自動ドアが滑り開くと、初秋とは思えない湿った熱気が、屋内の冷気を押し流して流れ込んできた。
一歩外へ出ると、熱を帯びた空気が肌にまとわりつく。朝のニュースでは、午前七時の神戸は二十七度と伝えていた。今日が酷暑になるのは間違いない。石畳の坂道が、朝陽を浴びて白く光っている。
南北に連なる緩やかな坂は、まだ静かだった。けれど、その静けさには普段と違う緊張が張りついている。わずかに広くなった路肩に、二台の白いセダンが停まっていた。一台はトヨタ・アリオン、もう一台はマークX。どちらも街に溶け込む車種だが、この場所、この時間、この並び方は不自然だった。白い塗装が直射日光を撥ね返し、風景からそこだけが切り取られたように静止している。
視線は自然と、坂の傾斜に沿って南へ下りていった。その先で、JR東海道線の高架を快速電車が滑っていく。上空、西寄りの淡い青に溶けるように、下弦の月が白く浮かんでいる。
世界の輪郭が薄くなり、別の不確かな何かと重なっている感覚。言葉にならないノイズが、意識の奥で砂嵐のようにざわめいていた。
人通りはまだ少ない。散歩中の老夫婦、開店準備中らしいカフェの従業員が、ちらりと私たちを見る。その表情には、好奇心とわずかな警戒が混じっていた。彼らの目に、この光景はどう映るのだろう。
線路を走る電車の音が、規則正しく響いてくる。近くの喫茶からモーニングコーヒーの香りが漂い、街路樹では名残のセミが鳴いていた。その声が、異常に暑かった夏の終わりを告げている。
「こちらへ」
山根刑事の事務的な声が、思考を現実へ引き戻す。
促されるまま、アリオンの左後方へ進んだ。後部ドアは、用意された私の席を示すように開かれている。
車内に身を沈める直前、私はもう一度、南西の空を仰いだ。
陽光に灼かれ、白く透けていく月が、まだそこにいた。風情ある朝月などではない。青いキャンバスを刃で削り取ったような、不自然な空白だ。
信じていた十八年間の平坦な日常。その膜が今、目に見えない巨大な指によって裏返されようとしている。空に残された月は、剥がれ落ちた現実の跡のように、ただ白く、頭上にぽっかりと空いていた。
背後から迫る刑事の影が、朝の光を遮った。
鈍い音を立てて、金属の扉が世界を分断した。
世界は、私の外側で相変わらず律動を刻み、動き続けている。
だがこの鉄板の内側で、私だけが——。
どこか違う次元の深淵へ、音もなく沈み込んでいく。
底の抜けた、奇妙な浮遊感の中にいた。
第一話をお読みいただき、ありがとうございます。
2012年、まだiPhone4Sが「新しい」と感じられた時代。LINEの「既読」問題に翻弄され、ロンドン五輪の余韻が冷めやらぬ中、牛丼並盛は280円という閉塞感が漂っていた、あの頃の空気を描きたいと思いました。スカイツリー開業の話題もすっかり定着し、「停滞しているのに、何かが始まろうとしている」そんな時代の一日が舞台です。次話から、一気に物語が動き出します。




