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消えた蟻

物語は一気に1996年へと遡ります。震災から1年9ヶ月が過ぎた神戸で、父・宗一が幼い瑠那の傍らで目撃した、ある奇妙な出来事。これが全ての始まりでした。

 1996年10月。震災から1年9ヶ月が過ぎた神戸の街には、再生への鈍い鼓動が響き渡っていた。山の手の坂道を忙しなく行き交う車の音、遥か下方に広がる市街地から聞こえるクレーンの軋み、重機が地を穿つ鈍い轟き。かつて「異国情緒」と形容された街並みは、今や「建設現場」という様相を呈していた。空き地には真新しいビルが立ち上がり始め、更地には基礎工事の重機が鎮座する。それでもまだ、ブルーシートで覆われた屋根や、窓が失われたままの家屋も散見され、震災の傷跡は生々しく残っていた。人々は「頑張ろう」の合言葉を胸に、失われた日常を取り戻すために必死だった。その喧騒と、人々の熱量が街全体を覆っていた。


 そんな街の熱気とは裏腹に、神戸の山の手にある逢坂邸は、奇妙な静けさを保っていた。震災で半壊と認定された日本家屋は、応急処置のままそこに立っていた。傾いだ庭石の隙間から雑草が顔を出し、縁側の木材は所々軋む。だが、その庭の一角だけは、まるで時間の流れから切り離されたかのように、穏やかな秋の陽光に包まれていた。


 縁側に腰を下ろした逢坂宗一は、庭で遊ぶ2歳になったばかりの娘、瑠那を静かに見守っていた。薄手のカーディガンを羽織った宗一の顔には、柔和な父親の表情が浮かんでいる。しかし、その瞳の奥には、どんな些細な変化も見逃すまいとする、鋭い観察者の眼光が宿っていた。


 宗一は厚生省から出向してきた、神戸市の児童福祉担当官だ。平日は朝早くに家を出て、市庁舎の窓口で市民の相談に応じ、書類を処理し、担当ケースの家庭を訪問する。夕方には、車で認可保育園まで瑠那を迎えに行く。他の親たちと世間話を交わし、瑠那の手を引いて家路を急ぐ。その姿は、ごく普通の、少し寡黙なシングルファーザーだ。


 保育園の園長や保育士は、何度か宗一に尋ねたことがある。「瑠那ちゃんは、少し、ええと……他の子と違うところがあるような気がしまして」「何でしょう?」「なんていうか、集団の中にいるようで、いつも1人で何かを見つめているような……」「個性ですから」宗一はいつも穏やかにそう答える。しかし、その視線の奥で、内調への報告書に書くべき言葉を、すでに組み立てていた。瑠那は満1歳になった頃から保育園に通い始めた。公安当局は、瑠那が通うその保育園を既に把握し、彼女を取り巻く環境全てを管理下に置いていた。国が極秘監視している2歳児が、毎朝ほかの子供たちと一緒に、何の変哲もない日常を送っている。その事実が、宗一の日常に深々と影を落としていた。


 今日は土曜日。宗一は午前中から在宅で、溜まった書類に目を通していた。午後になり、瑠那が庭で遊びたがったため、こうして縁側に座っている。瑠那は、庭の片隅に伸びる(あり)の行列に夢中になっていた。おもちゃを手に、地面にしゃがみ込んでいる。


 宗一の背後に広がる居間は、彼の几帳面な性格を反映し、簡素ながらも整然と片付けられていた。震災で失われた家具も多く、最低限の生活用品で賄っているような印象を与える。応急補修された室内は、まだ所々に亀裂が残り、壁紙の浮きが目立つ。それでも、埃一つない床、きちんと畳まれた座布団、本棚に並んだ書籍の背表紙。そこかしこに、宗一の任務への緊張感が滲み出ていた。


 宗一の視線は、瑠那の無邪気な仕草の裏に潜む何かを捉えようとしていた。瑠那が生まれてこの方、宗一の視線は常に、彼女に注がれてきた。それは父としての表の顔と、計画からの任務という、相反する重荷を同時に背負った眼差しだ。宗一は訓練によって、その感情を切り離す術を身につけていた——あるいは、感情が動こうとするのを、動く前に止める術を。彼は瑠那を「愛しい娘」と見つめながらも、同時に「観察対象」としての数値や記録を脳内で整理する。その温もりの裏で、冷徹な理性が常に働いていた。


 十三世紀のドイツ。ハーメルン市に現れた謎の笛吹男は、その異様な笛の音で街中の鼠を誘い出し、全てをヴェーザー川へと葬り去ったという。しかし、約束された報酬を反故にされた男は、再び笛を吹き、今度は130人の子供たちを音の彼方へと誘い、二度と戻らぬ場所へと連れ去った。笛の音が生み出す「制御不能な服従」。そして、「境界を越えた消失」というモチーフ。それは、古の寓話として語り継がれてきた、人が抗いようのない現象への警鐘でもあった。


 宗一の脳裏に、その伝説の概要がよぎった。縁側に座る彼の視線の先では、地面に低くしゃがみ込んだ瑠那が、右手に持ったおもちゃのラッパを口に当てて、ぷー、と幼い肺活量で音を鳴らしている。甲高い、しかしどこか力の抜けたその音色は、ハーメルンの笛吹男が奏でた、人を惑わす魔の旋律とは似ても似つかない。それでも、宗一の瞳は、ラッパを吹く瑠那の仕草と、小さな指先を向けられた蟻の行列を、寸分違わず追っていた。


 瑠那は右手でラッパを吹きながら、左手の人差し指をゆっくりと動かしている。指は、土の上を這う蟻の行列に触れることはない。かろうじて空を切るだけだ。それは、何かを「指し示す」というよりも、見えない糸をなぞるように、あるいは辿るように、そして明確な意志をもって動かしているように宗一には見えた。


 次の瞬間、宗一の視覚が、その光景を捉えた。


 一匹の蟻が行列から突然、掻き消えるように消滅したのだ。まるで、その一点に見えない落とし穴でもあったかのように。後続の蟻も、何の躊躇(ためら)いもなく、その「消失点」へと進み、先程の蟻と同じように、ある点を境に次々と姿を消していく。その速度は、行列が地面を這う、あの緩慢な速度のままだ。速くもなく、遅くもない。ただ、そこにあったはずのものが、何の前触れもなく、消えていく。


 宗一は息を呑んだ。しかし、それは感情的な驚愕ではない。彼の思考は瞬時に、その現象を「観測データ」として処理しようと働いていた。


 瑠那のすぐ隣には、空のジャムの瓶が置かれている。透明なガラス製で、蓋は固く閉まっている。今朝の朝食で使い切ったジャムの瓶。それを宗一が洗ったものだ。

 その密閉された瓶の底に、どこからともなく、蟻が現れ始めていた。一匹、二匹。やがてその数は数十匹に達し、瓶の中を(うごめ)いている。瓶には当然、蟻の出入り口となるような穴は一切ない。蓋も固く閉まったままのはずだ。


 ぷー、と再びラッパが鳴る。

 瑠那は不意に立ち上がり、左手でジャムの瓶をひょいと持ち上げた。くるりと宗一の方へ振り返ると、満面の笑顔で瓶を差し出す。その得意げな顔は、何ら異常を知らぬ、純粋な2歳児のものだ。右手ではまだラッパを握りしめ、再び甲高い音を奏でる。


「パパ、見てー!」


 その声は、空虚な空間に吸い込まれていくように、宗一の耳に届いた。


「すごいね、瑠那」


 宗一は平静を装い、いつものように穏やかな声で返した。幼い瑠那は、父の言葉に満足したように、瓶をその場に置き、また別の遊びへと注意を移していく。庭の隅に転がった、震災で割れた植木鉢の欠片を拾い上げ、そこに何かを見つけようと夢中になっている。彼女にとって、今起こったことは、何ら特別なことではなかったのだろう。


 宗一はゆっくりと縁側から立ち上がり、瑠那の傍らに置かれたジャムの瓶のところまで歩み寄った。瓶を拾い上げると、手のひらに、数十匹分の蟻の微かな重みが感じられる。右手で蓋の締まり具合を確かめてみるが、固く完璧(かんぺき)に密閉されている。表面に穴も亀裂もない。瓶の中では、確かに蟻たちが生きたまま蠢いている。その光景は、宗一の、そして世界の常識を、根底から揺るがすものだった。


 宗一は自分の目を疑わなかった。彼の視覚は、常に客観的なデータとして事象を捉えるよう訓練されている。

 蓋に穴一つなく、瑠那が瓶を開けた形跡もない。

 蟻が地面から消え始めた時刻と、瓶の中に蟻が現れ始めた時刻は、彼の目で確認した限り、ほぼ一致している。

 そして何よりも、瑠那の手は一度たりとも瓶に触れていない。彼女の左手は蟻の行列をなぞり、右手はラッパを握っていたのだ。


 これは、魔法ではない。

 宗一は、その現象を物理法則の範疇(はんちゅう)で捉えようと思考を巡らせる。瑠那は、瓶を密閉された空間として見ているのではない。彼女は、三次元的な「境界」を物ともせず、その内側へ、直接蟻を「導いた」のだ。入口や出口といった類の穴を通過するというプロセスはまるでなかった。そこには、三次元空間における移動経路が存在しなかった。ある点でただ消え去り、そして別のある点で突然姿を現す。その不気味なほどの効率性と、空間的な移動がゼロであることを示唆するその光景は、宗一の冷静な観察者としての心を震わせた。彼女は、三次元世界からは決して干渉できない、より高次の空間へと蟻を引き込み、そして引き出した。薄っぺらい二次元の紙を折り畳んで、離れた二点を直接重ね合わせるのは簡単なことだ。しかし、三次元空間そのものを、紙と同じように折り畳むことなんて想像すらできない。だが、彼女は、これをいとも簡単にやってみせたのだ。

 宗一は、ただ観察者として、その事実を脳裏に刻み込んだ。


 西の空へと日が沈み、夜の帳が神戸の山の手を包み込む。微かに聞こえるのは、建設現場で働く大型機械の停止を知らせる鈍いモーター音か、あるいは遠く阪神高速を走る車の走行音か。震災から1年9ヶ月が経ったとはいえ、街のそこかしこには未だ深く刻まれた爪痕が残っていた。復興の槌音は、宗一にとってはすでに日常の風景の一部と化していた。


 宗一は、暗い書斎の椅子に深く腰掛けていた。目の前には、チャコールグレーの筐体を持つ東芝DynaBookが置かれている。B5サイズのコンパクトな面積とは裏腹に、ずっしりとした重みがあり、視野角の狭いSTN液晶は、宗一がわずかに顔を動かすたびに画面の色合いを変えた。キーボードを叩くカチャカチャという乾いた音が、静まり返った部屋に響く。赤いゴムキャップのアキュポイントを親指で操作し、画面上のカーソルを意のままに動かす。


 宗一の指が、一つ一つ、正確にキーを叩いていく。彼の思考は明瞭で、感情の混じらない鋼のようなロジックで事象を分析し、それを簡潔な文字列へと変換していった。


「識別番号:EU-1996-1012-C1RN

 対象者:

  瑠那(2歳)。位相幾何学的異常行動を初めて確認。

  庭にて蟻の行列に対し、左手人差し指による非接触の「なぞる」動作を実施。

 転移個体数:

  視認にて少なくとも数十。ただし行列の全体数が不明なため転移率は算出不能。

  直後、対象者傍らに置かれた密閉容器(透明ガラス製・蓋閉状態)内部に蟻の出現を確認。

  容器に対する物理的接触なし。侵入経路は皆無。

 観測精度:中(転移の連続性が未確認のため)。

 情動的反応:なし。」


 画面に映し出される文字は、一切の感情を排した事務的なもので、父親の情愛を滲ませる行は一行たりとも存在しない。それはまるで、遠い星の生命体を記録するかのような、冷徹な観察記録だった。


 報告書を書き終え、データをフロッピーディスクへ保存した宗一は、DynaBookをシャットダウンした。液晶のバックライトが消え、画面が暗転すると、書斎には再び静寂が戻った。キーボードを叩く音も、ディスクのシーク音も、排熱ファンの微かな唸りも途絶え、宗一は暗い机の前で、しばらくの間座ったままだった。業務を終えた瞬間、感情を封じ込めていたわずかな緊張が緩む。しかし、何かが溢れ出すことはない。感情が動こうとするその寸前で、宗一の意識はそれを止めることに習慣づけられていた。それは感情が「ない」のではなく、感情が「動く前に止まる」という無感覚だった。


 宗一はゆっくりと立ち上がり、書斎のドアを開けた。狭い廊下を進み、瑠那の寝室の前で立ち止まる。ドアの向こうからは、幼い寝息がかすかに聞こえてくるようだった。宗一はドアノブに手をかけ、一瞬だけ迷った。その逡巡は、愛情から来るものではない。ただ、報告を終えた後で、もう一度「対象者」の現況を確認すべきかどうかの、観察者としての判断だった。彼は結局、ドアノブをそっと回し、わずかな隙間から室内を覗き込んだ。月の光が差し込む部屋の片隅、小さな布団で、瑠那はすやすやと眠っていた。その無邪気な寝顔は、昼間の異常な現象とは何の結びつきもないかのように見えた。宗一は安堵(あんど)するでもなく、ただ静かにドアを閉め、廊下を引き返した。彼の瞳の奥に宿る凍てついた光は、微動だにしなかった。


 書斎に戻った宗一の視線が、机の端に無造作に積まれた書類の束の一角に、一瞬だけ吸い寄せられた。それは、市役所の担当ケースのファイルに紛れた、一枚の記録だった。薄く顔を覗かせているその書類の端には、心の奥底に沈めていた「逢坂」とは異なる姓が見えた。瑠那の、母親に関する記録の断片だ。宗一はすぐに視線を手元の机へ戻す。感情に蓋をする行為は、彼にとってはもう、思考よりも速い脊椎反射となっていた。


 瑠那がいなければ彼女は死ななかった——宗一はそう思った。この子の母親は、宗一が担当官として関わり、任務として側に寄り添い、そしていつしか本気で愛するようになった女性だった。彼女は瑠那を産んだ日に死んだ。宗一はその事実を、今夜も感情なく、しかし胸の底で決して消えることのない重さとして抱えていた。その感情の全てを封じ込めていなければ、彼はこの「観察」という任務を続けることはできなかっただろう。


 宗一の脳裏には、昼間のあの寓話が再びよぎった。ハーメルンの笛吹男。報酬を反故にされた男が、笛の音で130人の子供たちを連れ去ったという伝説。笛の音は鼠を消し、そして子供たちをも、境界の向こうへと誘った。あの無垢な、たった2歳の少女の指先。その先に消えた数十匹の蟻たち。やがて、笛の音が消し去るのは、蟻どころではなくなるのかもしれない——その不穏な予感は、16年後の「103人失踪(しっそう)事件」の静かな予兆として、宗一の胸に深く刻み込まれていくのだった。


突然の過去パートに戸惑われた方も、いらっしゃるかもしれません。でも、この1996年の秋こそが、物語のすべての土台です。震災後の復興途上にある神戸という舞台と、まだ2歳になったばかりの瑠那。「ハーメルンの笛吹男」の寓話が、宗一の胸にどんな予感を刻んだのか——それが分かると、この先の物語がまた違って見えてくるかもしれません。

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