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黄金の鳥籠

取調室から連れ出されて四日。歪覚が静まり返った丹波篠山の施設で、瑠那は「次に来る何か」を待っていました。

そこで告げられた「ユークリッド計画」の全貌。そして、内藤が差し出した「選択肢」とは——。

 丹波篠山の山深くに建つその施設の一室には、窓があった。

 分厚い二重ガラスの向こうには、どこまでも広がる濃密な緑があった。陽光が降り注ぎ、風にそよぐ樹々の葉は、きらきらと光の粒を跳ね返す。耳を澄ませば、鳥のさえずりが微かに聞こえるような錯覚を覚えるが、それは錯覚でしかない。密閉された空間は、外部の音をほとんど完全に遮断していた。

 部屋は清潔だった。クリーム色の壁紙。窓際に、対面2人掛けの小さな木のテーブルと椅子。ベッドはマットレスのみだが、シーツは毎日新しいものに交換してくれるようだ。本棚はなく、テレビもラジオもない。スマートフォンはあの朝、自宅のテーブルに置きっぱなしにしてきた。情報と娯楽から完全に隔絶された空間は、ホテルと留置所の中間、あるいはそのどちらでもあるかのようだった。


 逢坂瑠那は、その部屋に身を置いて四日が経っていた。

 9月8日の午後、地下3階の取調室から見知らぬ者たちに連れ出され、窓に目隠しが施された黒塗りのセダンで延々と山道を走った。どれくらいの時間を移動したのか、正確には分からない。しかし、神戸の市街地から遠く離れた場所であることだけは確信できた。窓外の景色は、都会の人工的な光の束から、漆黒の山の稜線へと変わっていった。

 この四日間、実質的な会話はなかった。三食の食事は、無表情な所員によって届けられた。扉を開け、盆をテーブルに置くと、無言のまますぐに部屋を出ていく。食事は栄養バランスが考慮され、温かいものは温かく、冷たいものは冷たいまま提供された。何一つ不自由はなかった。ただ、人間的な交流だけが欠落していた。

 喉が渇いても、腹が空いても、眠気が差しても、感情が湧き上がってくることはなかった。それはまるで、自らの肉体が、どこか遠くから遠隔操作されているかのような感覚だった。


 最も顕著な変化は、歪覚(わいかく)の「静けさ」だった。

 警察に連れ去られる前夜、私の歪覚は、異常なノイズで埋め尽くされた。(おぞ)ましいものが(うごめ)く不快な感覚と、子供たちの悲痛な震えが、同時に私の内側を掻き乱した。しかし、ここへ連れてこられて以来、そのどちらもが完全に止んでいた。


 禍々しいノイズは、もう聞こえない。

 悲痛な震えも、もう届かない。

 世界の解像度が落ちきったかのように、すべてが平坦で静かだった。


 この静けさが何を意味するのか、私には判断できなかった。あの邪悪なものが消滅したのか、子供たちが解放されたのか。あるいは、私が単に、その感知範囲の外へと連れ去られただけなのか。いずれにしても、今の私には絶望や怒りは湧かず、ただ「何も感じない」という乾いた事実だけが横たわっていた。誰に聞くこともできず、その答えを知る術もなかった。


 心の奥底に、不思議な解放感が宿っていた。

 あの朝、島の輪郭と倉庫のスケッチを記した便箋をキッチンに置き、父に託した。その瞬間、「これで私の役目は終わった」と感じた。身内と呼べるのは父しかいなかったから、彼に委ねるしかなかった。彼が私のメッセージをどう処理するのか、あるいは何もできないのか、それはもう、どうでもよかった。やれることはやった。

 そのときから、私の内側で奇妙な諦念が始まっていたのかもしれない。怒りでも恐怖でもなく、次に来る「何か」を、ただ待つのみ。それは18年間かけて培われてきた、私の「受容」の構えだった。幼い頃から、私は常に周囲から異物として見られ、理解されず、孤独だった。その中で、この歪んだ世界を受け入れることでしか、私は自分を保てなかった。そして今回もまた、その「受容」が機能していた。


 午後三時を少し回った頃だろうか。部屋の扉が開く音がした。ただ、電子ロックの解除音は聞こえなかった。

 視線を扉の方に向けると、見知らぬスーツの男と、私の父、逢坂宗一が立っていた。

 見知らぬ男は五十代半ばに見えた。スーツの仕立ては良いが、着古されているように見える。瞳の奥には、感情を一切映さない冷たい光があった。一方、宗一は、これまで見たことがないほどに、感情を排した顔つきをしていた。感情という感情が、すべて抜き取られた顔だった。彼の目には、いつもの「検査」の視線すら宿っていなかった。

 私は彼らを静かに見つめた。そして、来るべきものを待った。


「逢坂瑠那さん。私は内閣官房、内閣情報調査室の内藤と申します」


 五十代半ばの男——内藤と名乗ったその人物は、ビジネスの場で交わされるような丁寧で形式的な口調でそう切り出し、ドア側の椅子に腰を下ろした。父は内藤の右後ろに立ち、分厚いファイルを両手で抱えていた。


 内藤は間を置かず、言葉を続ける。


「まず、あなたに関する事実をひとつお伝えしておきます。逢坂瑠那という人間は、2012年9月9日付けで、死亡が確認されました」


 私は驚かなかった。体内に満ちていた静けさが、その言葉によってわずかに深まっただけだった。言葉の意味を、頭の中で反芻(はんすう)する。死亡——それは、世間的に私が「いなくなった」ことを意味する。警察署からここへ連行された時から、私はすでに「いない」存在だったのかもしれない。そう考えると、むしろ腑に落ちる気がした。


 内藤は次の事実へと移った。


「9月8日深夜から9日未明にかけての作戦で、103人の子供たちは全員、無事に保護されました」


 その言葉を聞いた瞬間、私の体の奥底で、何かが静かに()いだ。安堵(あんど)、というより——決着、だろうか。歪覚の静寂が意味していたことの一つが、ここで初めて明かされた。子供たちは、助かったのだ。


「子供たちは、全員無事だったんですね」


 それは問いではなく、確認だった。内藤に向けて口にした言葉だったが、私の視線はいつの間にか、彼の右肩越しに立つ父へと動いていた。キッチンに置いた便箋。あの夜、私が書いた「パパへ」の文字。父は、それを適切に処理してくれた。だから子供たちは助かった。——気づけば、目の奥が熱くなっていた。私はゆっくりと瞬きをした。目を開けると、父と視線が交わった。その目が、わずかに——本当にわずかに——ほころんだように見えた。しかし、それは一瞬のことで、すぐに元の凍てついた湖面へと戻っていった。


 内藤は、再び事務的な口調で事実を羅列する。


「子供たちを誘拐し、監禁していた組織は、東亜社会基盤研究所、通称TSRIという組織です。右翼フィクサーの後継を自称する団体で、コンパスと呼ばれる実行部隊を擁していました」


 TSRI、コンパス。その響きを耳が拾った瞬間、静まっていたはずの歪覚が、奥底でわずかに身じろぎした。あの夜、私の内側を掻き乱した「禍々しいノイズ」——その正体が、初めて言葉として輪郭を持つ。ノイズはもう聞こえないのに、名前の方が後から像を結んでいく。


「今回の作戦で、組織の中枢は壊滅しました。三名の幹部が死亡、うち二名は自害、一名は海上への逃走を図り、応戦の末に射殺。——なお、世間に対しては、子供たちの保護をもって事件は解決したと発表されています。しかし、首謀者である久世泰三という人物は、現時点で逃亡中であり、我々にとって、事件はまだ終わっていません」


 久世泰三。その名にも、確かなノイズの残滓(ざんし)がこびりついている。世間では解決した事件。しかし内藤たちにとっては、まだ終わっていない。——では、私にとっては?


 内藤は一呼吸置くと、これまでで最も重い言葉を口にした。


「我々は、あなたの能力を『余剰次元への干渉』と定義しています。そして、その特異な資質を持つあなたを、2歳の頃から継続的に観測し、管理下に置いてきました。これは我々が推し進める極秘プロジェクトの一環であり、こう呼称しています——『ユークリッド計画』と」


 ユークリッド計画。2歳から。


 その言葉は、長年欠けていたパズルの最後のピースのように、私の中にすとんと収まった。だから父は、いつも私を「検査」するような目で見ていたのか。人目を気にするようになった頃から感じていた、あの視線の感覚。愛情でも無関心でもない、何かを測るような冷たさ。その意味が、今初めて言葉になった。私の人生は、生まれた時からすでに、国家によって計画されたレールの上を走っていたのだ。


 父は、その計画の「観測員」だった。


 小学六年生になって間もない、桜の葉が目立ち始めた頃のことだったと思う。父と2人して、縁側で庭を眺めていた。

 父は前置きなしに、静かに言った。「瑠那。大きくなったから、ひとつ話しておく」

 ひと呼吸、間をおいて父は続けた。「父さんと瑠那は、血が繋がっていない。お母さんが亡くなった時に、父さんが引き取った」

 声は穏やかだった。怒っているわけでも、謝っているわけでもない。ただ淡々と、それでいて、言葉を選んでいるような間があった。私はしばらく黙っていた。何を言えばいいか分からなかった。父も何も言わなかった。それでも、そっと私の頭に手を乗せてくれた。数秒のことだったと思う。それから、何事もなかったように手を引いた。その手の重さだけが、あの日の全部だった。


 父は、内藤の言葉に一切補足しなかった。代わりに、抱えていた分厚いファイル——私が2歳になった1996年10月7日から始まる記録、凡そ16年間分の「監視報告書」の束を、テーブルの上に静かに置き、再び内藤の右後ろに下がった。報告書には、きっと私の歪覚が引き起こした全ての現象が、まるで冷徹な研究者の観察記録のように、詳細に記されているのだろう。その分厚い束が、父の、そして国の、私の人生への介入を雄弁に物語っていた。それは、父から私への告白だった。言葉を必要としない、圧倒的な沈黙の告白。

 驚きはなかった。絶望も、怒りもなかった。ただ、長いため息に似た納得が、静かに胸の底へ沈んでいく。知っていた気がする。ずっと、そうだった気がする。18年間、私は見えない鳥籠の中にいた。黄金でできた、美しい籠の中に。——扉のない、籠の中に。


 内藤は、手にしていた書類の束から、別の数枚の用紙を取り出した。白い紙には、無機質なフォントで「御庄(みしょう)レナ」という名前が記されている。


「これより、あなたの今後の身の振り方について、ご説明させて頂きます」


 内藤の口調は、感情を一切排した事務的なものだった。丁寧であるがゆえに、こちらに口を挟ませない冷徹さがある。


「逢坂瑠那という戸籍は既に消滅し、法的にはあなたは存在しないことになります。あなたの特異な能力については、観測開始当初より戦略的資源としての評価を維持してまいりました。今回の事案をもって、計画を次フェーズへ移行させる条件が整ったと判断しております」


 内藤は表情を引き締め、言葉を続けた。彼の視線は私の顔ではなく、私の背後の壁を見ているようだった。


「国家としては、あなたに二つの選択肢を提示させて頂きます。ひとつは、このまま『逢坂瑠那の死』として完全に処理し、表社会から隔離された場所で、永続的に管理させて頂くという選択肢です。その場合、外部との接触は一切禁じられ、事実上、あなたの自由は全て失われます」


 私の体内で、ごく微かに空気が震えるような感覚があった。それは恐怖ではない。18年間、私を縛り続けてきた見えない鎖が、ついにその姿を現したような、既視感に近い感覚だった。


「もうひとつは、こちらに記された『御庄レナ』として、我が国に協力して頂くという選択肢です。生年月日は変わりません。国籍は日本、本籍地は追って設定させて頂くことになります。この選択肢においては、我々があなたの生活を全面的に支援し、必要な教育や訓練を提供させて頂きます。どちらの選択肢も、一般的な意味での自由は制限されますが、後者には『生きている実感』が伴う、とお考え頂いて結構です」


 内藤の言葉は、抑揚や迷いといったものがなく、まるでSiriが読み上げる文章のように平坦だった。その事務的な口調の裏にある国家の冷徹さは、この部屋の温度よりもいっそう低く感じられた。提示された選択肢は、強制ではないという体裁を整えているだけで、実質的には一つしかない。それは選択などではなく、巧妙な通告だった。目の前の書類は、国家がその気になれば、個人の存在など容易に抹消できることを、静かに物語っていた。


「高校は、卒業させてください」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。受験を控えた高3の夏を越えたばかりの九月。クラスの友人たちは、いつも通りの日常の中にいるだろう。そんな日常の中に、もう私はいない。それでも、私が最初に口にしたのは、その言葉だった。


 内藤は、わずかに意表を突かれた顔をした。彼の表情筋が、一瞬だけ人間らしい反応を示したように見えた。しかし、それはすぐに消え去り、再び能面のような顔に戻った。


「可能です。卒業に必要な単位は、個別に取得して頂くことになります」


 その言葉は、私の唯一の要求をあっさりと承認した。しかし、その背後にあるのは、私が「御庄レナ」として、彼らの計画に組み込まれることを前提とした計算式だった。

 宗一はこの交渉の間、ただの一言も発さなかった。内藤の右後ろに立ち、じっと私を見つめている。部屋に入ってきた時の彼の瞳には何の光も宿っていなかったが、今は違う。長い催眠から覚めたかのように、その虚ろな輪郭の奥に微かな光が灯っている。観察対象ではなく、一人の娘を見る目。けれど、私はそれに気づかない振りを突き通した。


 テーブルの上には、新しい名前が印字された書類と、一本のボールペンが静かに置かれた。内藤が、書類の束を人差し指で軽く叩き、事務的な声で促した。


「それでは、新しい氏名で、こちらに署名してください」


 冤罪を晴らそうとした戦いの結末が、名前を捨て、国の道具となる道に繋がった。それでも、やれることはやった。103人の子供が助かった。あの夜に記した便箋が、最悪の事態を防いだのだ。それだけで十分だった。


 瑠那は、テーブルの上のボールペンに視線を落とした。黒い樹脂のボディ、銀色のクリップ。どこにでもある、安価な事務用品。差し出されたボールペンに、手を伸ばす。その指が、ボールペンを掴む直前で止まった。ふと、衝動に駆られたように、意識を集中させた。


 パチン、と微かな音がした。


 瑠那の指の間に、まるで何もない空間から現れたかのように、ボールペンの芯が躍り出た。ボールペン本体の状態に変わりはない。ただ、芯のないボールペンが傷一つなく、テーブルの上に置かれていた。三次元的な経路を経ずして、内部の芯だけが抽出されたのだ。


 内藤の目が細くなった。感情をほとんど見せない男の、それでも隠しきれない反応だった。宗一は、内藤の右後ろに立ったまま、微動だにしなかった。16年間、ありとあらゆる特異な現象を記録し続けてきた男だ。この程度の事象で動じるはずもない。

 瑠那は、抜き取ったボールペンの芯を指先に挟んだまま、新しい戸籍の原案に目を向けた。『御庄レナ』という文字。見慣れない響き。芯の先端をそっと紙に押し付け、署名欄に書き記す。


 御庄レナ


 18年の人生を、共に歩んできた「逢坂瑠那」という名前が、今ここで終わりを告げた。そして新しい名前が始まる瞬間。それはどこか、他人の人生を借りるような奇妙な感覚だった。


 署名を終えた瑠那は、ふと窓の外を見た。

 山の稜線が、穏やかな夕暮れの光に包まれながら、静かに闇へと沈んでいく。この四日間、夜空に(ルナ)はいなかった。星々だけが瞬き、天頂を貫く白き天の川の下で、ただ真美のことだけを想っていた。——世界はもう元には戻らない。


 全ての手続きが終わった。


 宗一は無言のままドアへ向かい、ドアレバーを引く。内藤のためにドアを開け、その傍らに立った。内藤は椅子から立ち上がって一礼すると、宗一が開けたドアをくぐり抜ける。廊下に出ても宗一を待つことはなく、そのまま足早に先へと進んでいった。続いて宗一が退出する。だが、彼の背中がドア枠に差し掛かった瞬間、ほんの一拍だけ、その動きが止まった。

 それを見送る瑠那の唇から、「パパ」という呼び掛けが漏れそうになる。しかし、その声は音になる前に喉の奥で呑み込まれた。その人はもう、そんな親しげな呼び名が似合わない場所にいる。いや、18年前からずっと、そうだったのかもしれない。今日という日が、それを決定的な事実として突きつけただけに過ぎない。

 短い逡巡(しゅんじゅん)の後、宗一は振り返ることなく廊下へと歩み出た。

 重いドアが、静かに閉まった。


 翌日以降、御庄レナという新たな名前を得た瑠那は、静岡県御殿場市・小山町にある国家養成施設へと移送される。居住棟、教育棟、訓練施設が一体となった完全クローズドな環境。そこから約5年8ヶ月、この黄金の鳥籠が、彼女の世界の全てとなる。


「黄金の鳥籠」というタイトルは、豪華な場所を指しているのではありません。守られているという名の拘束、生かされているという冷たい価値——その矛盾を表したつもりです。瑠那が選んだ瞬間に、彼女の中で何かが変わった。その「変化」を、ぜひ次の最終話と並べて読んでみてください。

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