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エピローグ

2013年初春。そして、2018年5月へ。

御庄レナとして新たな人生を歩み始めた彼女が抱える、父・宗一の記憶と、最初の「任務」。物語の幕が、静かに下りていきます。

【2013年初春】


 静岡県御殿場市・小山町。東富士演習場の一角に設けられた養成施設に、御庄レナはいた。警察庁警備局と防衛省が共同管理するその場所へ移されてから、すでに半年が経過しており、丹波篠山のセーフハウスを出たあの日から、レナは完璧(かんぺき)に遮断された世界で暮らしていた。『逢坂瑠那』という名前が公的な履歴から消滅し、新しく誕生した『御庄レナ』として歩み始めてはいるものの、彼女はまだ、その名に馴染めずにいる。日課は、国家公務員資格取得に向けた座学と、自衛隊員に準ずる体力訓練、そして通信制高校の課題だ。外界の喧騒は、ここには一切届かない。世間ではアベノミクスという言葉がメディアを賑わせていることすら、彼女は知らなかった。与えられた部屋は簡素だった。窓の前に机がひとつ、それに合わせた椅子がひとつ。隣にベッド。備え付けのクローゼット。それだけだ。バストイレはなく、共用の設備を使う。窓からは、綺麗に整備された施設の中庭が見えるだけだった。


 ある日の午後、レナは机に向かい、通信制の課題に取り組んでいた。

 ノックの音が、ドア越しに届いた。


「どうぞ」


 そのままの体勢で短く答えた。ドアが開き、担当所員が部屋に入ってきた。恐らく女性は三十代前半、感情の起伏を表に出さない静かな佇まいで、訓練棟の教官たちとはまた異なる、どこか事務的な冷たさをまとっている。


「御庄レナ」


 その名を呼ばれた瞬間、レナは椅子から立ち上がり、所員の前に正対した。ノートも筆記用具も、机の上に置いたままだ。


「逢坂宗一氏について、報告があります」


 所員の声は、報告書を読み上げているかのように淡々としていた。レナはじっと聞いていた。


「逢坂宗一は、2013年1月、死亡が確認されました」


 声に抑揚はなかった。


「死因は、自死と判断されています」


 それ以上の説明はなかった。いつ、どこで、どのように——そうした具体的な情報は一切告げられない。所員はただ、内閣情報調査室が「事実」と認定した事象だけを淡々と伝えた。レナは微動だにしなかった。その報告は、彼女の胸の内に何の波風も立てなかった。

 18年間、父は自分を愛していたのか。あるいは、国から与えられた「任務」を全うしていただけだったのか。冷徹な観察者としてか、それとも娘を秘匿し、守ろうとした父親としてか。どちらだったにせよ、その問いに対する答えは、彼の死と共に永遠に閉ざされてしまった。


 一拍の沈黙の後、所員は手にしていた封筒をレナに差し出した。厚手の和紙製で、ダイヤモンド貼りに封緘が施されていた。


「逢坂宗一氏から、あなたへ預かっていたものです」


 レナは両手でそれを受け取った。所員は一礼し、音もなく部屋を出ていった。ドアが静かに閉まる。


 レナは机の椅子に腰を下ろした。

 机の上に封筒を置き、表の文字をじっと見つめた。墨で書かれた、力強く、しかし少し掠れた文字。


「瑠那へ」


 18年間、見慣れてきた父の筆跡だった。


 あの日の朝が、脳裏に蘇る。2012年9月8日、土曜日。元町のマンション。玄関のドアが開き、踏み込んできた3人の私服警察官——先頭に立った黒いスーツの女性刑事と、その後ろに続く2人の男性刑事。父は仕切りドアの脇に立ち、淀みない所作で彼らをリビングへと案内した。動揺も、娘を案じる表情も、一切なかった。レナをこの道へと「誘導した」のだと、後になって気づいた。

 丹波篠山のセーフハウス。内藤参事官が「ユークリッド計画」の全貌を語るその傍らで、宗一は無言のまま、16年分の報告書をテーブルに置いた。彼が口を開くことはなかった。ドアが閉まる直前、一拍だけ足を止めた——振り返ることなく、廊下へと歩み出た背中。それが最後の記憶だ。


 封筒をゆっくりと開いた。

 折り畳まれた便箋を取り出し、広げる。父の字が、そこに並んでいた。


 どれほどの時間が流れただろうか。


 ふと、レナの頬を一筋の涙が伝った。熱くもなく、冷たくもない。ただ、透明な雫が静かに肌を滑り落ちていく。彼女はそれを拭わなかった。拭う必要も、意味も感じなかった。


 レナは便箋を丁寧に折り、封筒へ戻した。そして視線を窓の外へ向ける。

 早春の冷気が満ちた東の空には、右半分を優しく満たした上弦の半月が佇んでいた。青に紛れるその白さはどこまでも鮮明で、息をのむほどに美しかった。


【2018年5月】


 神戸港を見下ろす高台に、一台の黒いセダンが静かに停まっていた。少しだけ開けられた窓の隙間から、初夏の風が車内へ滑り込む。助手席には御庄レナ。23歳になった彼女は、内閣事務官(特四)として働き始めて1ヶ月余りが経っていた。かつての猫背は消え失せ、背筋は真っ直ぐに伸びている。長く続いた施設での訓練が、そのしなやかで隙のない体躯を作り上げていた。身長175cm、体重65kg。無駄のない筋肉質な身体は、かつての逢坂瑠那の面影をどこにも残していない。表向きは明るく振る舞い、軽口を叩く術も身につけている。


 コールサイン「RUBIS」


 それが、今の彼女の呼称だ。

 レナは手元の薄型端末に視線を落とす。画面には「EU-2018-05XX-C1LN」と、真新しい識別番号が光っていた。日付の下二桁は伏せられたままだ。

 「RN(瑠那)」から「LNレナ」へ。

 監視される側から、監視する側への転換を意味する符号。それは単なる記号以上の重みを、レナ自身の存在に与えていた。


 イヤホンから、聴き慣れた内藤参事官の声が届く。


「RUBIS。対象、移動開始。予測ルート、逸脱なし」


 短く、感情を排した指示。レナは「了解」とだけ応じ、視線を再び窓の外へ戻した。

 黒い高級車の車列が、視界の奥でゆっくりと動き出す。

 静かに、意識を開く。


 世界の輪郭が滲み、風景が幾重にも重なり合う。黒い車列のどこに対象がいるか、心拍の揺らぎまで読み取れる距離感で、歪覚が告げる。情報は受け取りすぎず、不足もない。必要なものだけが、鮮明に浮き上がってくる。歪覚の範囲と強度を自らの意志で調整し、道具として使いこなしていた。


 対象が動いた。


 レナは目を細めた。助手席から立ち上がる動作は、外からは見えなかっただろう。百メートル先のビルの角に、彼女はすでにいた。移動した、という感覚すら薄い。空間の折り目をひとつ、静かにめくっただけだ。

 また折り目をめくり、既に助手席に戻っている。

 歪覚を閉じる。世界が、元の輪郭へと戻る。


 小さく息を吐き、レナは手元の端末を閉じた。今日の任務は完了した。


 窓ガラスの向こうには、神戸港の夜景が広がっている。煌めく街の灯が海面に不規則な波紋を描き、沖合では巨大なガントリークレーンが赤い灯を点滅させ、貨物船がゆっくりと出港していく。


 あの夜、あそこに、103人の子供たちが閉じ込められていた。

 レナはそれを知っている。

 すべてを知り、背負ったまま、ただ前を向いて歩く。


 御庄レナは、今日も静かに、仕事を遂行している。


——全12話、完結です。


最後まで読んでくださった皆様に、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


「五次元の不在証明」は、一人の少女が「逢坂瑠那」から「御庄レナ」へと変わっていく物語です。父・宗一からの「最後の伝言」の中身は、意図的に読者の皆様には明かしませんでした。それは、あの便箋に書かれた言葉が何であれ、瑠那(レナ)だけが受け取るべきものだと思ったからです。皆様の心の中で、好きなように想像していただけたら嬉しいです。


実は、SFサスペンスというジャンルは今回が初めての執筆でした。理論物理学、警察捜査、国家機関の仕組み……書くたびに「本当にこれで合っているのか?」と不安になりながらも、この作品の世界観に誠実であろうとすることだけを心がけてきました。至らない点も多々あったかと思います。それでも、この物語が一人でも多くの読者の中に何かを残せていたなら、書き手としてこれに勝る喜びはありません。


2018年5月、神戸港を見下ろす車の中で、御庄レナは静かに仕事をしている——そこで物語は幕を下ろしましたが、彼女の「任務」はまだ続いています。もし機会があれば、またいつか、彼女に会いに来ていただけると嬉しいです。


また次の物語で、お会いしましょう。

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