18 異世界生活の始まり
柔らかな何かが頬に触れ、深く沈んでいた意識が浮上する。
反射的に伸ばした手がモッチリと、ほど良くひんやりとした何かに触れ、それがワラビだと気づいたイズミは目を閉じたまま微笑んだ。
「……おはよう、わらび」
『おはよー、シャチョー! 朝だよー!!』
朝から元気いっぱいのワラビが、枕元でぽよぽよと跳ねる。
そんなに揺らしたらラウラが起きてしまうのでは――と思い隣を見たが、既にラウラの姿はなく、手を伸ばして触れたシーツも冷たかった。
気を利かせて起こさなかったのだろう。
お陰で久し振りによく寝た気がして、気分がいい。
しかも、起きがけに癒しのモフモフならぬプルプルに出迎えられたのだからなおのこと。驚くほどスッキリとした目覚めにつられて上体を起こすと、イズミは胸元を押さえながら全身に神経を巡らせる。
(……うん、今日も大丈夫。眩暈もしない、気持ち悪くもない。本当に不思議だなぁ……)
異世界に来て四日目。
これで三度目となる朝を迎えたが、イズミの体調は相変わらず驚くほど良かった。今までイズミを蝕んでいた病が、まるで最初から存在しなかったかのように鳴りを潜めている。
いつもなら寝起きから体が怠かったり、眩暈があったりするのが普通だった。だというのにこちらに来てからというもの、走ろうが飛び跳ねようがどれだけスキルを使おうが、まるで何も変わらないのだ。
もちろん、それはイズミにとって喜ぶべきことではある。
しかし、体調が良くなった理由がまるで分からず、どちらかと言えば不安の方が大きい。油断した頃に戻ってくるのでは、死ぬほど辛い反動が来るのでは、それこそ本当に死んでしまうのでは……と、心の片隅で不安が燻っている。
そのせいで、ついこうして体調を確認しては一人で安堵しているのだ。
余裕ができた暁には、こちらの医療機関を受診してみようかと考えてはいる。が、正直、日本で判らなかった病気がこちらで判るとも思えない。スキルや回復薬でぱぱっとケガを治してしまうこちらの医療が、日本を上回っているとは思えないからだ。
そもそも、向こうとこちらでは病気の種類も違うだろう。
『シャチョー、早くご飯食べにいこー!』
「……ふふ、そうだね」
窓へ視線を向ければ、厚手のカーテン越しでも天気が分かる。
本日も見事な晴天だ。
せっかくの爽やかな朝なのに、つい沈んでしまう思考がイヤになる。どうにもならないことをあれこれ考えるのは、とうの昔に止めたのだ。明日をも知れぬイズミにとっては今が全てなのだから。
緩く頭を振って、ベッドから降りる。
防汚スキルをかけ、サイドテーブルに置いていた服に袖を通すと、だいぶ気持ちがシャッキリする。やっぱり新品の服はいい。まるで生まれ変わったかのような気分になって、気持ちが引き締まる。
パジャマを影収納へしまって姿見を覗けば、十分こちらの人間に見えた。ただ服を着替えただけだが、これでこちらの世界に仲間入りができたような気がする。
そうしてスマホの時計を確認すると、時刻は午前八時。
なぜかは分からないが、スマホの時計がこちらの時刻とほぼ合っていることは既に把握済みだ。人様の家でゆっくり寝すぎたと、慌ててワラビを頭に乗せダイニングへ向かえば、サブマスが新聞を片手にのんびりと朝食をとっていた。
「おはようございます、遅くなってすみません!」
「おう、おはよう!」
「おはよう、イズミちゃん、ワラビちゃん。よく眠れた? 疲れてない?」
キッチンからひょっこりと顔を出したアリアに、笑顔で答える。
「はい、お蔭さまでぐっすり眠れてスッキリ爽快です」
『よく寝たー! ベッドふかふか!』
「そう、良かった! 街に来たばかりなんだし、疲れてたら無理しないでゆっくりしてね?」
「ありがとうございます」
アリアの気遣いが身に染みて、イズミは笑顔で頭を下げる。
実家では母が早くに他界したため女性はイズミ一人で、細やかな気遣いなどとは無縁だったのだ。こうして度々気遣われると嬉しいような、くすぐったいような気分になって何だかそわそわしてしまう。
二人と話しているとエリーゼとラウラもやって来て、挨拶を交わした。
女性陣は既に食事を終えたらしく、申し訳なく思いつつサブマス、ワラビと朝食を取る。朝は軽めのようで、パンとスクランブルエッグ、ベーコン、それとたくさんの野菜が入ったスープだった。
「イズミ、この後ギルドに行くだろ?」
「はい、そのつもりです」
「なら一緒に行こう。その方が直ぐに資料を渡せるしな」
「それはありがたいですけど……サブマスさん、もう出勤するんですか?」
ようやく娘が帰って来たのだ。
昨日の今日で仕事ではあまりに性急なのではと、イズミは目を丸めた。
「まあな。ただでさえ仕事が溜まってたところへ更に増やしちまったし、昨日休みを貰えただけ奇跡だ」
「なるほど……。ギルドって忙しいんですね」
「ここはダンジョン都市だしな、特別だ」
サブマスはそう告げて苦笑いを零した。
この街では、ただでさえダンジョンに関する仕事が多い。それに加え、数日間“副責任者”の仕事を放り出して娘の捜索を行っていた上に、その下手人を一網打尽にしたのだから、なるほど、やることは山積みなわけで。
確かに昨日休みを貰えただけでもかなりの温情だろう。
しかも、昨日半日ですらラウラに鬱陶しがられたのだから、出勤しない理由はなかった。
やっぱり世のお父さんは大変だなとイズミは密かに苦笑した。
朝食を終え、まったりすること暫し。
昼食は外で食べるとアリアに伝え、ラウラに引き留められそうになりつつもサブマスと家を後にすると、馬車で真っすぐ冒険者ギルドへ向かう。
二十分ほど揺られ到着した冒険者ギルドは、改めて見るとちょっとした市役所くらいの広さがあった。
広々としたエントランスの正面には十を超える受け付けがあり、その手前、両壁には依頼書と思しき無数の紙が貼られている。入口から直ぐ右手へ進むと食堂兼酒場、左手へ進むとギルド運営の店へと通じていて、実に機能的な構造だった。
冒険者達で賑わうエントランスを横目に食堂兼酒場へやって来ると、サブマスに少し待っているよう言われ大人しく席に腰かける。流石に朝から飲んでいる者はいないようで、食堂は比較的静かだった。
しかし、これからダンジョンへ挑むらしい冒険者達の表情や声は活き活きとしていて、何だかイズミまでワクワクしてくる。兄弟みんなでゲームの作戦会議をしている時もこんな感じだったなと冒険者達を密かに眺めていると、十分もせずにサブマスが書類封筒を手に戻って来た。
「悪い、待たせたな。これが昨日言ってた資料だ」
「ありがとうございます」
受け取ったそれは中々に分厚い。
サブマスが昨日の今日で出勤しなければならないほどだ。ただでさえギルド全体が忙しいだろうに、時間がない中キッチリ用意してくれたのかと、イズミは申し訳なく思うと同時に感謝した。
「この後はどうすんだ? ウチに戻るか?」
「いえ、せっかく出て来ましたし……どこかカフェにでも入ってのんびりこれを読もうと思います」
「そうか、気を付けてな。暗くなる前に帰るんだぞ?」
「ふふ……、はい。気をつけます」
仕事へ向かうサブマスと別れギルドを出ると、馬車で二区へ向かう。
昨日、買い物の途中でオシャレなカフェを見つけていたため、馬車を下りると歩いてそこへ向かう。入口に従魔の記載がないことを確認して中へ入れば、まだ客が疎らなこともあって、レトロな雰囲気の店内には穏やかな空気が流れており、とても居心地が良さそうだった。
案内されて、窓際の席に腰を下ろす。
メニューに目を通しイズミは紅茶、ワラビはケーキセット(従魔用)を注文して、さっそく封筒を開ける。中には紙の束がいくつか収められており、束ごとに内容が異なるようだった。
とりあえず上の束から順に目を通すことにしてページを捲れば、先ずは世界地理のようで、世界地図の後に様々な国についての解説が記されていた。
長年の引きこもり生活で本を読むことも多かったイズミは、スラスラと文字を追っていく。数分経ったところで注文したものが届き、ワラビはケーキを食べ始め、イズミは紅茶に口をつけようとして、しかし口にすることのないまま集中すること数十分。
『シャチョー、ケーキもういっこ食べていいー?』
「あ、はい」
再び小腹の空いたらしいワラビのためにケーキを注文。
そんなに食べても太らないなんて羨ましい……と、嬉しそうにケーキを食べる姿に嫉妬と癒しという真逆の感情を覚えつつ、温くなった紅茶を飲みながら資料を読み続けること、さらに一時間弱。
ざっと読み終えて、
「ふう……、」
『シャチョー、終わったー?』
「ふふ、まだまだだよ。だけど、ざっくりは分かったかな」
イズミは再び紅茶へ口をつけた。
情報を整理するため、ワラビに掻い摘んで説明してみる。
まず、この世界には大小いくつかの大陸がある。
今イズミがいるのはその中でもっとも大きな大陸で、中央大陸と呼ばれているらしい。ここにはいくつもの国があり、人間の国だけでも王国、帝国、連合、宗教国家などを筆頭に様々な国があるが、他にも獣人の国や海人――いわゆる人魚などの水棲種族の国などもあるのだそう。
イズミとしてはもの凄く心惹かれるものがあるが、それらの国は基本的に小さく、現在地からも遠いため気軽に行ける距離ではないらしい。そこを考慮してか、資料にはこの大陸の主要国家についての記載が多かった。
現在地であるこの国の名は【アストレア王国】。
現在では中央大陸で一、二を争う強国でありながら、王国近隣の大国と比べても長らく情勢の安定した平和な国で、人間以外の種族も多く暮らし、中立の立場であるギルドから見ても良い国なんだそう。
逆に、大陸中央に位置する二つの大国――帝国と宗教国家は、ギルドから見ても警戒すべき国で、移住や旅行は非推奨とのこと。何でも、帝国は人間至上主義で有能なスキル持ちはもれなく徴兵、周辺諸国を虎視眈々と狙っており、宗教国家の方は樹立当初こそまともであったが、今では怪しげなスキルで洗脳紛いのことをしている危険な国らしい。
イズミとしてもそんな国々はご免であるため、危険な国としてしっかり頭に叩き込んだ。
その他周辺諸国も何やかんやと良し悪しがあり、結局のところ現時点では王国がもっとも拠点に相応しいだろうとの結論に至った。ただ、十分な自衛ができるようになれば、いつかは他国へ旅行に行ってみたいなとイズミは思う。
それから、肝心の王国に関してだ。
王国内には無数の領地があり、それぞれを貴族が治めている。
その一都市であるここ、ダンジョン都市は王弟である公爵の領内にあり、ペガサス派(いわゆる穏健派らしい)に属する公爵の人柄もあって、比較的住みやすい街だという。
もっとも、世界で有数のダンジョンを内包する都市だけあって喧嘩や騒ぎは日常茶飯事だが、国が優秀な騎士団を配してくれていることと、高ランク冒険者が集っているだけあって治安はいい方らしい。
というのも、高ランク冒険者になるには実力はもちろん、昇格試験の面接によって人格も精査される。そのため人格に問題のある者は高ランクになれず、結果、高ランクは常識的な者が多い(一部除く)からなのだそう。
とはいえ、今回の件からも分かる通り、治安が良いとされている街でも絶対に安全というわけではない。平和度指数では上位常連である日本でも、ほぼ毎日何かしらの事件が起きていたのだ。剣と魔法、加えて魔物の存在する異世界では治安の良し悪しなどあまり当てにならないと考えた方がいい。
それでも、抑止力が騎士のみの街からすれば安心なのだろう。
いざという時に頼れる先がいくつかあることは、イズミにとってもありがたかった。
ちなみに、ダンジョンには地下、塔、遺跡、森林といった数種のタイプがあるらしい。
この街は地下型で、しかも世界で類を見ない百層まである超大型のダンジョンらしく、豊富なダンジョン資源により潤っているとのことだった。
と、ワラビに説明してはみたものの、暖簾に腕押し。
自分が分かっていればいいや……と悟ったイズミだった。
そうこうしていると、十二時を報せる鐘の音が店内まで届き、イズミは窓の外を見た。
昼時を迎え、大通りの通行量が増えている。心なしか笑顔の人も多く、どこの世界でもお昼が楽しみであることは同じなのだなと、実家のラーメン屋を思い出してイズミは微笑んだ。
残りの資料は追々読むことにして、昼食は涼風亭へ顔を出そうとカフェを出る。同じ二区内で場所も近いためのんびり歩いて向かうと、流石に昼時とあって食堂は繁盛しており、店内は冒険者や商人らしき人々で賑わっていた。
必然、絵面は非常にむさ苦しい。
そんな中へ飛び込む勇気もなく、入口でどうしたものかと迷っていると給仕中だったガルシアに見つかって、
「イズミ、いらっしゃい! そんなとこで何してんだい? ささ、入んな入んな!」
有無を言わさず店内へ引っ張り込まれ、カウンター席へ通された。
その間にもあちこちからオーダーの声が上がり、イズミに少し待つよう伝えるとガルシアは直ぐに他の客席へ。今のうちに決めておこうとワラビとメニューを眺めていると、少しして戻ったガルシアが注文を取ってくれて、あっという間に厨房へ消えて行った。
これまでは比較的空いている時間帯に来ていたため分からなかったが、やはり昼時は話す暇もないほど忙しいらしい。他のウェイトレス達も、慌ただしく客席を縫って厨房との行き来を繰り返している。
大通りに面しているだけに客の入りも良いのだろう。
もちろん、料理が美味しいからこそ一等地に店を構えることができたのだろうが。
そうして料理が届くまでの間、ワラビとこっそりお喋りをしていたところ、昼間から飲んで――もいないのに何故かヒートアップしている客の話し声が届き、イズミは何の気なしに耳を傾けた。
「あー、くそッ! やっぱ俺が騎士団に乗り込んであいつ等をぶっ殺してやる!!」
「まあまあ。お前がやらなくても、どうせアイツらは犯罪奴隷堕ちで鉱山行き。死んだも同然だろ?」
「んなモン分かってんだよ! それが生温いからムシャクシャしてんじゃねーか!」
「確かになあ。売られた子供の末路なんてそんなもんじゃねえだろうし……」
「最近だと、頭のおかしい貴族が買った子供を魔物のエサにしてたっつー話があったよな」
「おまっ……やめろよ! 飯食えなくなるだろうが!!」
「全くだ! この街じゃ冒険者が子供達の憧れだってーのに、その皮を被った奴らが子供達を売りさばいてたとか、マジで笑えねえんだよ……」
「冒険者の名を汚しやがって……くそッ!!」
「ほんとクソ迷惑だよな。ここは冒険者の評価がいい貴重な街なのにさ!」
男性達はどうやら、例の件に関して話していたらしい。
昨日の時点でガルシアが知っていたことからしても、既に情報は街中に広まっているのだろう。
やはり冒険者の街だけあって、その名を汚す行為は禁忌らしい。
チラと視線を向けると周りの客も彼らの話にうんうんと頷いていて、いつの間にやら店内には【翠の天明】への憤怒と怨言の声が広まっていた。
奴隷堕ちで鉱山行きという情報が確かなのかは分からないが、仮にそれが本当だとしても自業自得であるため、微塵も同情の余地はない。それだけのことを彼らはしたのだから。
イズミとしては、精々、残りの人生を人々の役に立てて欲しいと思うくらいだった。
「はいよ、お待ちどおさん!」
「わあ、ありがとうございます!」
意識を切り替えたところで料理が届き、ワラビと二人で楽しく食事をする。
イズミが頼んだのはカムイ風の焼き魚定食で、ワラビはガッツリステーキセットだ。
アリア達の家庭料理も文句なしに美味しいが、やはり日に一度は日本食を食べたくなる。だから街中にカムイ、もとい日本料理を食べられる店があるのは本当にありがたかった。
午後は用事もないため、のんびりとデザートまで楽しんで食事を終える。
まだまだ店内は賑わっているため早々にお暇することにして、会計を頼むとガルシアから本当に料金をタダにされてしまいイズミは焦る。それも二人分だというのだから、慌てるのも当然だろう。
だって、タダになるのはてっきり一人分だと思っていたのだから。
流石に二人分は申し訳ないと、一人分の料金を受け取ってくれるまで帰らない! と交渉――もといレジにしがみ付き脅した結果、若干引き気味のガルシアに何とか受け取ってもらえてイズミはホッとしながら店を後にした。
『シャチョー、おうち帰るのー?』
「うん、帰って残りの資料を読もうと思って。でも、帰る前にもう一か所だけ寄るところがあるから」
『わかったー!』
食後の腹ごなしに、三区寄りの立地にある店へ歩いて向かう。
やはり涼風亭の料理は量が多い。
涼風亭で食べたあとは毎回お散歩必須だなと思いながら、馬車の中から見た景色を頼りに三区寄りの店へ向かった。




