第八話 判
審理官は逃げなかった。
逃げる必要などないからだ。
「騒いどるねえ」
窓の外を見て笑った。
部下が青ざめている。
「門前まで人が来ております」
「来させとけ」
「しかし」
審理官は天井を眺めながら言った。
そう、下を見るのは好きじゃない。
「法を決めるのは誰だ」
部下は答えない。
「裁くのは誰だ」
「……我々です」
「だったら何を怖がる」
机には書類が積まれていた。
ムクルによる土地占有。
天津社の贈賄。
高祖の教団による資産隠し。
狐里派政治家の公金流用。
どれも一度は審理院へ持ち込まれている。
そして、ほとんどが不起訴か無罪になっていた。
審理官は一枚を手に取る。
「これなんか懐かしいな」
高祖の名が書かれていた。
十年以上前のものだった。
証人がいた。
帳簿もあった。
だが事件にはならなかった。
「どうして無罪に?」
若い役人が尋ねた。
審理官は笑う。
「おまえ新入りか」
「はい」
「世の中にはな、裁いて得する悪人と、
裁かんほうが得する悪人がおる」
「それは法ではありません」
部屋が静まった。
審理官が若者を見る。
「名前は」
若者は答えた。
審理官は紙へ書いた。
「覚えとくわ」
その日の午後。
審理院の裏口から一人の役人が出てきた。
胸元に分厚い紙束を抱えている。
朝の若者だった。
門の向こうには群衆がいた。
彼は立ち止まった。
震えていた。
戻れば安全だった。
そのまま歩けば、おそらく二度とここへは戻れない。
門番が見ている。
若者は一歩進んだ。
「これは」
声が震えた。
「過去十五年分の審理記録です」
人々がざわめいた。
「書き換えられる前に」
紙束が差し出された。
一人が受け取った。
その隣にいた者が言った。
「写せ」
紙が分けられた。
十人が走った。
寺へ。
商家へ。
学舎へ。
ソウノクニから来た記録官のところへ。
夕方までには百部になった。
夜には千部になった。
翌朝。
審理官は空になった書庫を見ていた。
「……誰がやった」
誰も答えない。
机の上には、一枚の紙が置いてあった。
判だけが押されていた。
有罪。
罪名は書かれていなかった。




