第二十三話 セレスティアの正体
扉を開けた瞬間、肌を刺すような熱気と共に、異様な光景がアマラの目に飛び込んできた。
見たこともない白い業火の中で、愛しい我が子が狂乱して泣き叫んでいる。
そして、その前で口元を醜く歪め、笑みを浮かべて見下ろしている夫の横顔。
(……あ)
一瞬で、すべてを理解した。
事故ではない。この男は最初から、セレスティアを殺すつもりだったのだ。
私に向けられていた甘い言葉も、優しい微笑みも、すべてはこの瞬間のための偽り。
「アマラ……!? な、なぜ戻って……!」
男が驚愕して振り返るよりも早く。
アマラは、獣のような悲鳴を上げて床を蹴った。
「セレスティアーーーッ!!」
躊躇など一秒もなかった。彼女は燃え盛る白い暖炉の中へと、迷わず両腕を突っ込んだ。
ジューッという肉の焼ける悍ましい音と共に、皮膚が爆ぜ、骨の髄まで焼き尽くされるような耐え難い激痛がアマラを襲う。呪われた炎は彼女の肌を容赦なく炭化させていくが、母の狂気にも似た執念が、業火の痛みを一瞬だけ上回った。
「邪魔をするなアマラ!! そのガラクタは私にはもう――!」
愛娘をガラクタと呼んだ背後の悪魔に、アマラの中で何かが完全に弾け飛んだ。
「触るなァァァッ!!」
男が止めに入ろうと手を伸ばした瞬間、アマラは炎の中から掴み出した燃える薪を、男の顔面に向かって力任せに振り抜いた。
火の粉を浴びた男が「ぐあああっ!?」と悲鳴を上げてたたらを踏む。
その隙に、アマラは炎の中からセレスティアを乱暴なほど力強く抱き寄せた。
腕の中の小さな体は酷く焼け焦げ、呼吸は浅く、すでに息も絶え絶えだった。
一刻の猶予もない。扉から逃げれば確実に追いつかれる。
(逃げなければ……この悪魔から、娘を連れて!!)
アマラは男に見向きもせず、部屋の隅にあった重い木製の椅子を掴み上げ、二階の窓ガラスに向かって全力で投げつけた。
ガシャンッ!とけたたましい音を立ててガラスが砕け散り、冬の冷たい夜風が室内に吹き込んでくる。
彼女は近くにあったショールでセレスティアの痛々しい体をしっかりと包み込むと、暗闇の口を開けた窓枠へと躊躇いなく身を躍らせた。
「アマラ! 待て、逃がさんぞ!!」
背後で男の怒号が響く。
アマラは二階の窓から、傾斜のきつい瓦屋根の上へと着地した。焼けて爛れた腕と足に激痛が走るが、悲鳴を噛み殺し、娘の体を庇いながら瓦の上を滑り降りる。
そのまま屋根の端を蹴り、庭の深い植え込みの中へと飛び降りた。
木の枝が頬やドレスを容赦なく切り裂き、着地の衝撃で全身の骨が軋んだ。
それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。
(助けて……お願い、誰かこの子を……!)
火傷で血肉が剥き出しになった腕で、どんどん冷たくなっていく我が子を抱きしめる。
アマラは一度も振り返ることなく、闇の深い夜の森の奥へと、ただひたすらに走り続けた。
枝を掻き分け、泥に塗れながら、アマラは無我夢中で夜の森を駆け抜けた。
肺が破けそうなほどに荒い息を吐き、火傷を負った両腕はとうの昔に感覚を失っている。それでも彼女は、腕の中の小さな命の重みだけを頼りに、暗闇の奥深くへと足を進め続けた。
やがて、屋敷の灯りもヴィクラムの追手の気配も完全に届かない、静まり返った深い森の最奥。
限界を迎えたアマラの足がもつれ、彼女は冷たい腐葉土の上へと力なく崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁ……っ、セレス、ティア……!」
枯れ葉の上に仰向けに倒れた愛娘を覗き込み、アマラは絶望に顔を歪めた。
セレスティアの小さな体は黒く焼け焦げ、その呼吸はもはや、か細い糸のように途切れかけている。人間の医者に診せたところで、普通の治癒魔法をかけたところで、神の力たる『神器の炎』による呪いのような火傷が治るはずもなかった。
娘が死んでしまう。自分の腕の中で、理不尽に命を奪われていく。
その絶対的な絶望の淵に立たされた瞬間――アマラの脳裏に、かつて一族の長老から密かに語り継がれた『言い伝え』がフラッシュバックした。
彼女の血筋は、かつて魔王ラーヴァナを熱烈に信仰する一族だった。
しかし、ラーヴァナが天上神達に撃たれ人間界から姿を消した後、残された彼らは「不吉な悪魔の眷属」「呪われた一族」として徹底的な迫害を受けた。一族の大半が身分を剥奪されて奴隷へと落とされ、アマラ自身もまた、買い手のつかない生き遅れの奴隷として、ヴィクラムに金で買われた身だった。
忌まわしき魔王の信奉者。その血の呪縛のせいで、アマラの人生は常に底辺を這いずるものだった。
だが今、彼女はその「呪われた血」に、己の魂のすべてを懸けようとしていた。
『――よいかアマラ。我らの血には、深淵の王との古き契約が眠っている』
幼い頃に聞かされた、長老の嗄れた声が蘇る。
『だが、決して人前でこの言葉を唱えてはならない。それは世界を敵に回す禁忌の歌……本当の絶望が訪れた時のみ開かれる門なのだ』
「……ああ……」
アマラは血と泥にまみれた唇を震わせ、夜空を見上げた。
自分は奴隷でいい。悪魔の眷属と蔑まれても構わない。ただ、この子の命だけは、絶対にあの男の思い通りにはさせない。
母の狂気にも似た決意が、彼女の瞳に暗い炎を灯した。
アマラは瀕死の娘に覆い被さるようにして、静寂の森に向かって、古い言葉で一族が隠し守り続けてきた禁忌の詠唱を紡ぎ始めた。
「――深淵の底より、我が血の叫びを聞き届けよ」
その声はひどく掠れていたが、森の空気を不気味に震わせた。
「天の理を砕き、虚飾の光を喰らう者。……我らが見捨てられし民の、真なる王よ」
アマラの足元から、どす黒い影が泥のように広がり始める。
それは周囲の木々の生命力を吸い取るかのように、木枯らしのような冷気を伴って渦を巻き始めた。
「我が肉、我が魂、我が絶望のすべてを捧ぐ。……どうか、どうか我が血の契約に応え、この小さな灯火を救い給え……!」
血を吐くような悲痛な叫びと共に、アマラは両手を強く組み合わせた。
「顕現せよ――我らが主、偉大なる王ラーヴァナよ!!」
その言葉が落ちた瞬間。
森の静寂が完全に死に絶え、世界の色が、おぞましい漆黒へと反転した。
その言葉が落ちた瞬間。
森の静寂が完全に死に絶え、世界の色が、おぞましい漆黒へと反転した。
吹き荒れていた木枯らしが、ピタリと止む。
宙を舞っていた枯れ葉が空中で静止し、アマラの荒い息遣いすらも音を失った。
時間が、凍りついたのだ。
無音と漆黒に閉ざされた空間の中心。アマラの目の前の虚空に、空間そのものを焼き切るような赤黒い亀裂が走る。
やがてその亀裂を内側から引き裂くようにして、底知れぬ圧倒的な『力』が這い出してきた。
「――チッ。忌々しい神どもの目を盗んでみれば……随分と泥臭い場所へ呼び出しやがるな」
野蛮で、ひどく傲慢な低い声が、時を止めた森に響き渡った。
亀裂の中から姿を現したのは、褐色の肌を持つ大柄な男だった。頭上には夜の闇を固めたような豪華な王冠を戴き、血のように赤い豪奢な衣装を身に纏っている。
そして、アマラを見下ろす底冷えのするような銅色の瞳には、人間など路傍の石としか思っていない、絶対的な『王』としての威圧感が宿っていた。
魔王、ラーヴァナ。
かつて天上神に抗い、世界を恐怖に陥れた文明の魔王が、悠久の時を超えて顕現したのだ。
心臓を鷲掴みにされるような凄まじい魔力に、アマラは本能的な恐怖で身体を震わせた。だが、腕の中で命の灯火を散らそうとしている娘の存在が、彼女から一切の躊躇いを消し去った。
「あ、貴方様が……魔王、ラーヴァナ様……」
アマラは冷たい腐葉土の上に額を擦りつけるようにして、血を吐くような声で名乗った。
「私の名はアマラ。かつて貴方様を信仰し、迫害され、地に落とされた一族の末裔です……!」
「あァ?」
ラーヴァナは不機嫌そうに片眉を吊り上げ、銅色の瞳で地べたに這いつくばるアマラを見下ろした。
「信者の末裔だァ?てめェらが勝手に俺を崇めて、勝手に落ちぶれただけだろうが。そんなカビの生えた縁で、わざわざこの俺を呼び起こしたってのか?」
人間を一顧だにしない、吐き捨てるような冷酷な言葉。
だが、アマラは怯まなかった。
「お願いです、ラーヴァナ様!……どうか、どうかこの子を助けてください!!」
アマラは狂乱したように叫びながら、焼け焦げたショールを開き、瀕死のセレスティアを魔王の足元へと差し出した。
「どうか……っ! この子の命だけは、お救いください……!!」
ラーヴァナは鼻で笑い、王冠の影から冷徹な視線をアマラへと投げかけた。
「フン、おい女勘違いするなよ。俺はてめェら人間共が縋っている、無償の愛だの救済だのを垂れ流すおめでたい神様じゃねェんだ」
彼は豪奢な衣装の裾を翻し、冷淡に言葉を継ぐ。
「俺は魔王だ。等価交換こそがこの世界の絶対の理。てめェの願いを叶えたいなら、それに見合うだけの『対価』を持ってくるのが筋だろうが」
「たい……か……?」
アマラは呆然と聞き返した。混乱する頭で、その言葉の意味を必死に手繰り寄せる。
「そうだ。俺の力を使う以上、それなりの代償を差し出せと言っている。神器、金、宝石、あるいは他人の命……何でもいい。てめェはこの娘の命を買い戻すために、何を持ってきた?」
対価。そのあまりにも現実的な要求に、アマラは血の気が引くのを感じた。
ヴィクラムの狂気から逃れるため、ただ我武者羅に、着の身着のままで夜の森を駆け抜けてきたのだ。火傷でボロボロになったドレスと、娘を包むショール以外、彼女の手には何も残っていなかった。
「……な、何も……ありません。私はただ、この子を助けたい一心で……」
「ハッ! 魔王を呼び出しておきながら、生贄のひとつも用意してねェだと? ふざけるのも大概にしろ」
ラーヴァナは心底呆れたように吐き捨て、背中を向けた。
「せっかく久しぶりに人間界に来れたかと思えば、これだ。準備もできないような無能に貸す耳はねェ。勝手にそのガラクタの死に顔でも拝んでな。俺は帰らせてもらうぜ」
「お待ちください! ラーヴァナ様!!」
アマラは必死に手を伸ばし、魔王の衣装の端を掴もうと、這いつくばったまま叫んだ。
「お願いします! 行かないで……! この子にはもう、貴方様しかいないのです……!」
ラーヴァナは煩わしそうに足を止めた。掴みかかろうとするアマラの火傷で爛れた手を見下ろし、舌打ちを一つ。
そのまま彼女の頭の先から、泥と血にまみれた足の先まで、品定めをするように冷ややかな視線でゆっくりと見渡した。
「…………」
一瞬の、刺すような沈黙。
やがて、魔王の銅色の瞳に、酷薄で、どこか悪戯めいた光が灯った。
「……ほう。なるほど。金も宝石も持ってねェようだが……『いいもの』をひとつ持ってるじゃねェか」
ラーヴァナは低く、愉悦に満ちた声を漏らした。
彼はその逞しい指先を突き出し、地を這うアマラの喉元をなぞるように指し示した。
「――てめェ自身だ」
「……え?」
「何もねェなら、てめェのその魂も、身体も、人生のすべてを丸ごと俺に寄越せ。俺の『眷属』――すなわち魔女として、永遠に俺に仕えろと言ってるんだよ」
ラーヴァナは冷酷な笑みを浮かべ、残酷な契約の条件を突きつけた。
「いいか、これは単なる奉公じゃねェ。この契約を結べば、てめェはもう二度と人間界の土を踏むことはできねェ。この娘と暮らすことも、触れることも、言葉を交わすことも一生叶わねェ。死んだところで冥府には行けず、魂まで俺の所有物だ。俺の許可がなけりゃ、魔界から一歩も外には出られねェ……永遠にな」
それは、セレスティアを救う代わりに、母親としての未来も、人間としての救いもすべて投げ捨てろという地獄の宣告だった。
「……娘と、二度と会えない……」
アマラは愕然として立ち尽くした。
我が子を救うために命を懸けて逃げてきたのに、救った瞬間にその子との未来を失う。あまりにも残酷な等価交換に、彼女の心は一瞬だけ激しくたじろいだ。
「ハッ、何迷ってやがる。……てめェに残された時間は、もうこれっぽっちもねェんだぜ?」
ラーヴァナは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、足元で横たわるセレスティアを顎でしゃくった。
「その黒焦げの娘を放置してみろ。あと数刻もありゃあ、そいつは唯の冷たい肉塊に変わる。俺と契約して独りで生き永らえるか、契約を蹴って親子仲良く野垂れ死ぬか……。さあ、どっちにするんだよ、女」
セレスティアの呼吸は、今や耳を澄ませなければ聞こえないほどにか細くなっていた。焼けた皮膚が微かに震え、小さな喉が必死に空気を求めて動いている。
もう、迷っている時間などなかった。
(……ごめんね、セレスティア。あなたを抱きしめてあげることは、もうできない……)
アマラは震える唇を噛み切り、決然と顔を上げた。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの深い愛と覚悟が宿っていた。
「……わかりました。誓います。私の魂も身体も、すべて貴方様に捧げます。……ですから、どうか……!」
「交渉成立だ。……安心しろ、約束は守ってやる」
ラーヴァナは満足げに目を細めると、契約を刻印するかのように、アマラの額にその大きな手を無造作に置いた。
その瞬間、彼女の視界は真っ白な光に塗り潰された。
「あ……、あ、あああああッ!!」
契約が結ばれた刹那、アマラの血管を流れるのは血液ではなく、沸騰した魔力の奔流へと書き換えられた。全身を内側から焼き焦がすような凄まじい熱量に、アマラは喉が裂けるほどの悲鳴を上げる。
彼女の褐色の肌の表面に、おぞましくも美しい、見たこともない幾何学模様の魔法陣が次々と浮かび上がった。それらは脈動しながらアマラの身体に深く刻まれ、やがて肉の中へと溶け込むように消えていく。
その異変に、止まっていたはずの世界が激しく震えた。
空中で静止していた枯れ葉が一斉に躍り、周囲の木々が、まるでこの世ならざる者の誕生を恐れ、拒絶するかのように激しくざわつき始める。
やがて、光が収まり、森に再び静寂が戻った。
そこに横たわっていたのは、もはや「人間」のアマラではなかった。
その瞳の奥には深淵の影が宿り、纏う空気は人の理から完全に切り離されている。魂を売り渡した、魔王の眷属――「ネファスの魔女」としての生が、ここから始まったのだ。
アマラは荒い息を吐きながら、自身の変容に震える手を見つめた。先程まで腕に負っていた酷い火傷はまるで何事もなかったかのように全て綺麗に無くなっていた。
身体の芯に残る残熱が、自分がもう人ではないことを残酷に突きつけてくる。
ラーヴァナは、もはや別の生き物へと成り果てたアマラを一瞥すると、満足げに鼻を鳴らした。
「――よし。てめェの魂は、確かに俺の眷属なったみたいだな」
魔王は流れるような所作で踵を返し、足元に転がっているセレスティアへと視線を向けた。先ほどまでの嘲るような笑みは消え、その銅色の瞳には冷徹なまでの「作業者」としての色が宿る。
「さて。約束だ。その死に損ないのガラクタを、俺のやり方で繋ぎ止めてやる」
ラーヴァナは無造作に屈み込むと、セレスティアの小さな身体の上へと大きな手をかざした。
彼は深淵の底から引き摺り出したような、濃密な赤黒い魔力を指先に集めた。それは死者をも呼び戻すと言われる最上級の治癒魔法だ。魔王の奔流がセレスティアの小さな身体を包み込み、黒焦げた皮膚を強引に再生させようと蠢き始める。
だが。
「……あ?」
ラーヴァナの口から、困惑の漏息がこぼれた。
本来ならば瞬時に傷を塞ぐはずの魔力が、セレスティアの火傷に触れた途端、何かに弾かれるように霧散していくのだ。肉は再生せず、それどころか魔力を注げば注ぐほど、火傷の奥で燻る「白い光」が激しく火花を散らし、魔王の力を拒絶している。
「チッ、どうなってやがる……」
ラーヴァナは忌々しげに顔を近づけ、娘の火傷の痕を凝視した。
ただの火事なら、あるいは並の魔術による火傷なら、今ので完治しているはずだ。だが、この傷口には、人間界の道理を無視した、悍ましいほどに清廉な「理」が刻まれている。
「……なるほど。こいつはただの炎じゃねェな」
ラーヴァナの銅色の瞳が、怒りと嘲りで細められた。
傷口の奥で拍動しているのは、天上神たちが魔女や悪魔、異端者を焼き払う時に愛用する浄化の光――神器より放たれた、聖なる業火だ。
「神どもの小賢しい『呪い』か。穢れを焼き、存在そのものを消滅させる処刑の炎……。道理で治癒魔法が受け付けねェわけだぜ」
聖なる力によって焼かれた肉体は、魔の力による再生を拒絶する。それは絶対的な相克だ。このまま魔力を注ぎ続ければ、セレスティアの魂は治療の衝撃に耐えきれず、肉体よりも先に砕け散ってしまうだろう。
魔王といえども、この炎を強引に消し去ることは容易ではない。
「嘘、そんな………セレスティア…」
絶望するアマラ、だが、ラーヴァナは鼻で笑いだした。
「面白い。この俺に、たかがガラクタ一匹救えねェとでも思ってんのか、あの鳥頭どもは」
彼の中の傲慢なプライドが、火傷を負った傷口以上に激しく燃え上がった。
契約はすでに成立した。アマラの魂は受け取った。ここで「治せませんでした」と引き下がるなど、魔界を統べる王の名にかけて断じて許されない。
「普通の魔法が効かねェなら、俺の『やり方』で通すまでだ」
ラーヴァナの瞳から慈悲が完全に消え、代わりに狂気にも似た覇気が溢れ出した。
彼は腰にかけた鞘から自身の刀、三日月の刃(チャンドラ=ハーズ)を引き抜くとそれを左手に持ち替えた
「ひっ…なっ、何を……」
アマラが傍らで怯える中、なんとラーヴァナは迷うことなく、自らの屈強な「右腕」へとその刃を振り落としたのだった。
スパン! グシャッ!
鋭い銀光が止まった時間の中を横払い、直後に生々しい衝撃音が響いた。
魔王ラーヴァナが自ら振り下ろした『三日月の刃(チャンドラ=ハーズ)』は、一切の抵抗なく彼の強靭な右腕を肘から先で叩き斬った。
「…………ッ!!」
切断された肘から、どす黒い、夜の色をした魔王の血が鮮烈に噴き出す。
地面に落ちた「自身の右腕」を見下ろし、ラーヴァナは苦痛に顔を歪めるどころか、不敵な笑みさえ浮かべていた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
静寂を切り裂いたのは、魔女へと変貌したばかりのアマラの鋭い悲鳴だった。
あまりにも凄絶で、あまりにも狂気的な光景。助けを求めた相手が目の前で自らを損壊した事実に、彼女は正気を失い、転がるようにしてラーヴァナに駆け寄った。
「な、何を……何をなされたのですか、ラーヴァナ様! 貴方様のお腕が、お腕が……っ! ああ、どうしましょう、私のせいで、私の、私のせいで……!」
狂乱状態でラーヴァナの肩に縋りつき、止まらない血を素手で抑えようとするアマラ。
だが、ラーヴァナはそんな彼女を煩わしそうに一瞥すると、空いた左手で彼女の頭を軽く小突いて引き離した。
「おい、騒ぐんじゃねェ。てめェのその声、耳に障るんだよ」
「で、ですが……っ! このような、このようなお、お、大怪我を……!」
「大怪我だァ?てめェら脆弱な人間と一緒にすんじゃねェよ」
ラーヴァナが鼻で笑い、切り口を無造作に突き出す。
すると、切り口から黒い霧が爆発的に噴き出したかと思うと、一瞬のうちに骨が組み上がり、肉が盛り、皮が張った。アマラが目を剥く暇もなく、彼の右腕は傷ひとつない、以前と全く変わらぬ姿で再生していた。
「え……っ?」
「これが魔王の『格』ってもんだ。……さて、喚くのが終わったならそこを退け。余興はここからだ」
ラーヴァナは呆然とするアマラを無視し、地面に転がる「切り落とされた腕」へと向き直った。
それはまだ生暖かく、床の上で異形の魔力を放ち続けている。
「神どもの炎が拒絶するなら、器ごと変えてやるまでのこと。……俺の肉なら、奴らも手出しは出来ねぇだろうよ。」
ラーヴァナは再生したばかりの両手をかざし、切り落とされた腕に向かって、世界を震わせるほどの莫大な魔力を注ぎ込み始めた。
「――変形、錬成。命の座を再構築せよ」
赤黒い魔力の奔流に包まれ、ラーヴァナの腕だった「肉の塊」が、おぞましくも神秘的な音を立てて形を変え始めた。
みるみる内に筋肉がしなやかな子供の線へと組み変わり、骨が細く、小さく削ぎ落とされていく。魔王の血肉という最高の素材に、王自身の魔力が注ぎ込まれることで、それは一人の少女の「器」へと成型されていった。
一方で、ラーヴァナはもう片方の手で、暖炉の火に焼かれたセレスティアの本体を指し示した。
「おい、ガラクタ。てめェの魂も、いつまでもそんなボロ屋にしがみついてんじゃねェ」
彼が指先をクイと動かす。
すると、神器の炎に焼かれ、今にも霧散しそうだったセレスティアの「魂」が、光の糸となって本体から引き剥がされた。
ラーヴァナはその光を優しく、かつ強引に掴み取ると、自身の肉で錬成した「新しい身体」の胸へと叩き込んだ。
「――入れッ!!」
刹那、森全体を揺るがすようなまばゆい光が爆発した。
光が収まった後。
冷たい腐葉土の上には、黒焦げの死体ではなく、まるで深い眠りについているかのような、毛先が緑がかった金髪に白く透き通るような肌を持った一人の少女が横たわっていた。
静寂が支配する漆黒の森。その中心で、アマラは息を呑んで「新しい娘」を見つめていた。
魔王の肉から錬成されたその身体は、あまりにも白く、あまりにも美しく、これまでの病弱だったセレスティアとは明らかに異なる、力強い生命の脈動を放っている。
「セレスティア……? ああ、セレスティア、私の子……」
アマラは震える指先を伸ばし、恐る恐る、眠る少女の頬に触れた。もしこれが夢で、触れた瞬間に崩れ去ってしまったら――そんな恐怖が彼女を支配していたが、指先に伝わってきたのは、紛れもない、温かな人間の体温だった。
その呼びかけに応えるように、少女の長い睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと、その瞼が開かれる。
「あ……」
アマラは思わず息を止めた。
開かれたその瞳は、以前のセレスティアのような色ではなかった。
今しがた自分を救った魔王と同じ、深く、妖しく輝く銅色の瞳。それは彼女の中に、魔王の血肉が確かに息づいている何よりの証だった。
「お母、様……。私……生きて、るの……?」
掠れた、けれどもしっかりとした声。
その瞬間、アマラの中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ去った。
「セレスティア……! ああ、ラーヴァナ様……! よかった、本当によかった……っ!!」
アマラは激しく溢れ出す涙を拭うこともせず、新しいセレスティアを壊れ物を扱うように、それでいて二度と離さないという執念を込めて、力一杯抱きしめた。
ただ、腕の中に確かな命の重みがあるという事実が、彼女の魂を震わせた。
「お母様……。あったか、い……」
母の腕の中で、セレスティアは安堵したように小さく微笑んだ。
死の淵を彷徨い、魂を移し替えられるという壮絶な体験をした幼い彼女は、もはや限界だったのだろう。彼女は母親の匂いと温もりに包まれながら、重い瞼を再びゆっくりと閉じていった。
「おやすみなさい、セレスティア。愛してるわ。……何があっても、貴方は私の、自慢の娘よ」
アマラの腕の中で、規則正しい寝息が聞こえ始める。
その光景を背後で見ていたラーヴァナは、失った右腕を無造作に回しながら、不敵で、どこか満足げな鼻笑いを漏らした。
「……それで、感動の再会は済んだかよ魔女さんよォ」
魔王の冷徹な声が、幸福な一瞬を現実に引き戻した。
アマラは腕の中の娘の寝顔を愛おしげに見つめた後、決然と立ち上がり、背後に立つ魔王へと深く頭を下げた。
「ラーヴァナ様、本当に……本当にありがとうございました。この御恩、生涯忘れません」
「……はぁ?」
ラーヴァナは、まるで未知の化け物でも見るかのように眉をひそめた。
等価交換として魂と身体を奪い、最愛の娘と引き離したのだ。絶望し、恨み言のひとつも吐かれると思っていた彼にとって、これほどまでに純粋で真摯な感謝の言葉は、完全に予想外のものだった。
「頭が湧いてんのか。俺はてめェの人生を丸ごと掠め取ったんだぜ? 感謝される筋合いなんか一ミリもねェだろうが」
「いいえ。貴方様がいなければ、この子は今頃冷たくなっていました。私の人生など、この子の命に比べれば安いものです」
「チッ、ったく、なんなんだよ………」
ラーヴァナは忌々しげに顔を背けたが、その耳の端は微かに赤らんでいるようにも見えた。かつて人間界に高度な文明を築いた偉大な王としての矜持か、あるいは彼自身の本質か。彼は調子を狂わされたように乱暴に頭を掻いた。
「ラーヴァナ様……図々しいのを承知でもうひとつだけ、お願いがあります」
アマラは静かに、けれど必死な眼差しで訴えた。
「この森には、あの男……ヴィクラムが追ってきます。それに、野生の獣も。この子を、どうか誰も知らない、遠い人里の近くまで運んでいただけないでしょうか」
「あァ!? てめェ、俺を便利屋か何かと勘違いしてねェか?」
「お願いします……! この子が誰にも邪魔されず、幸せに生きられる場所へ……!」
ラーヴァナは不機嫌そうに鼻を鳴らし、しばらく沈黙した。だが、真っ直ぐに自分を見つめるアマラの瞳に根負けしたのか、彼は溜め息を吐きながら右手を無造作に振った。
「……たく、今回だけだ。二度とはねェぞ」
刹那、視界が歪んだ。
闇に包まれていたはずの景色が、一瞬にして見知らぬ異国の光景へと書き換えられる。
そこは、国境を越え幾つもの国を跨いだ先にある『マーロウ村』という小さな村の入り口近くにある、質素な空き小屋の中だった。近くには村の孤児院があり、人の気配も感じられる場所だ。
ラーヴァナは、眠るセレスティアを小屋の床に敷かれた乾いた藁の上に横たえた。
アマラはこれが最後だと悟り、娘の額に最後の一度だけ口づけを落とす。
「さよなら、セレスティア。……次は、いい夢を」
「おい、行くぞ。これ以上ここに留まれば、境界の監視役どもが騒ぎ出す」
ラーヴァナに促され、アマラは断腸の思いで背を向けた。魔王の背後に開かれた漆黒の門――魔界への入り口が、彼女を飲み込もうと口を開けている。
アマラがラーヴァナと共に門の向こう側へと消え、その姿が完全に消滅した瞬間。
――カチリ、と。
止まっていた世界の時間が、再び脈打ち始めた。
「――おーい、こっちの小屋は調べたか?」
「いや、まだだ。最近、浮浪児や野犬が入り込んでるって噂だからな」
暫くして小屋の外から、巡回中の村人たちの太い声と、雪や落ち葉を踏みしめる複数の足音が近づいてくる。
朝日が昇り始める直前の、冷たくも希望に満ちた黎明の光。
その光に照らされた小屋の中で、銅色の瞳を持つ『新しい少女』は、静かに運命の目覚めを待っていた。




