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第二十三話 末路と再開

むせ返るような灰の匂いと、肌を焼く熱気がふっと消え去った。

 セレスティアの視界が元の冷たく暗い玉座の間へと戻る。だが、彼女の瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。

 

「私……っ、捨てられたんじゃ、なかったんだ……」

 

 震える両手で、自身の腕を強く抱きしめる。

 マーロウ村の孤児院で育ち、親の顔も知らずに生きてきた。目の前の狂った男――ヴィクラムが実の父親であり、自分を殺そうとした残酷な事実までは、先程の日記によりすでに知っていた。だが、あの日自分がどうやって生き延びて、なぜ村に一人で置かれていたのかは、ずっと分からなかった。

 

 自分は決して、疎まれて捨てられたわけではなかったのだ。

 この肉体は、命を懸けて自分を守ろうとした母・アマラの狂気的なまでの愛情と、魔王ラーヴァナの身を切るような犠牲によって繋ぎ止められた、奇跡の証だった。

 

「お母様……っ、ああ、お母様……!」

 

 セレスティアは顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。

 親の愛を知らずに孤独に育った彼女にとって、自分がどれほど深く愛され、重い犠牲の上に生かされてきたのかを知った衝撃は、魂を激しく揺さぶるものだった。

 ディーヴァは慈愛に満ちた瞳で娘を見つめ、その震える華奢な背中を羽毛のように優しく撫でる。

 一方で、同じ幻視を強制的に追体験させられたヴィクラムは、完全に魂を抜かれたように冷たい床へ這いつくばっていた。

 

「……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!」

 

 彼は血走った目で虚空を睨みつけ、自身の白髪を力任せに掻きむしりながら絶叫した。

 

「アマラが……私の永遠のアマラが、あんな下劣な魔王に魂を売り渡したなどと! それに、私が今まで命を削り、52年もの歳月を懸けて打ち倒した魔王が……ただの身代わりのダミーだっただと!?」

 

 ヴィクラムの全身が、激しい寒気に当てられたようにガチガチと震えていた。

 彼がすべてを犠牲にして縋り付いてきた「完全なる勝利」も「アマラとの永遠」も、ただの独りよがりな妄想に過ぎなかったのだ。彼が真実だと思い込んでいたものは、あの日、彼自身が我が子を暖炉に突き飛ばした瞬間に、完全に灰になっていたのである。

 

「認めん……絶対に認めんぞ! 私は、私は選ばれた人間だ! この『梵天の牙』がある限り、私こそが正しいのだッ!」

 

 完全に錯乱したヴィクラムは、床に転がっていた黄金の短剣を拾い上げ、狂ったように振り回した。もはやそこには冷酷で計算高い策士の面影など微塵もなく、ただ現実を受け入れられない哀れで醜悪な老人がいるだけだった。

 

「死ねェッ! お前さえ、お前さえいなければァァァッ!!」


 ヴィクラムは獣のような咆哮を上げ、すべての元凶と逆恨みしたセレスティアへと飛びかかった。

 だが、その黄金の刃が彼女に届くことはない。

 

「……本当に、救いようのない男ね」

 

 ディーヴァが、ふわりと指先を弾く。

 瞬間、ヴィクラムの全身を『見えざる万力』のような強烈な魔圧が押し潰した。

 

「が、あばッ!?」

 

 彼はカエルが潰れるような無様な音を立てて冷たい黒曜石の床に叩きつけられ、指一本動かせなくなる。手から離れた「梵天の牙」が、乾いた音を立てて遠くへ転がっていった。

 

 ディーヴァはゆっくりと歩み寄り、這いつくばるヴィクラムの顔面を、漆黒のヒールで冷酷に踏みつけた。

 

「貴方がこれまでに己の妄想と保身のために犠牲にしてきた、多くの妻と子供たち。彼女たちが死の淵でどれほどの絶望と激痛を味わったか……貴方、想像したことすらなくて?」

 

「あ、が……アマ、ラ……やめ……」

 

「いいえ、やめないわ。貴方の罪は、ただ灰になって消えるだけで清算できるほど軽くはないもの」

 

 ディーヴァの深淵のような瞳が細められる。同時に、彼女の足元から這い出した底なしの漆黒の影が、ヴィクラムの全身に絡みついた。

 

「無実の罪を着せられ、衆人環視の中で処刑された者たちの恐怖と絶望。……そして、裏で汚職神官からせしめた『様々な神器』によって、誰にも知られず暗殺された奴隷の妻や、幼い子供たちの無念……」

 

 影が、ヴィクラムの肉体ではなく『魂』そのものに直接食い込んでいく。

 

「狂乱の底で味わいなさい。貴方がすり潰してきた命が受けた、斬首、呪い、毒……そして、私の娘を焼いた『業火の痛み』。その【すべての死の苦痛】を同時にね」

 

「――――――――ッッッ!!!!!???」

 

 声にならない、この世のものとは思えない絶叫が玉座の間に響き渡った。

 

 物理的な傷はない。だがヴィクラムの脳と魂は、彼自身が妻や子に与えた「すべての種類の死」を、一切の緩和なく同時に味わわされていた。処刑台での凄絶な恐怖、得体の知れない神器に命を削り取られる激痛、そして骨の髄まで焼かれる炎の苦しみ――。

 

 眼球がひっくり返り、口の端から泡と血を吹き出しながら、ヴィクラムは床の上で激しく痙攣する。皮膚が内側からどす黒く変色し、肉が極限まで萎縮し、自らの悲鳴で喉が裂け、血肉を吐き出しながら絶望の底で悶え苦しむ。

 

「ご、あ……! 殺して……くれ……! 頼む、もう……ッ!」

 

 彼が縋り付いてきた『選ばれた人間』という自尊心も、神聖なる目的も、想像を絶する苦痛の前に完全に砕け散り、ただ無様に死を乞うだけの哀れな肉塊へと成り果てた。

 ディーヴァはその惨状を、虫けらを見るような絶対零度の目で見下ろしていた。

 

「本当に滑稽ね。貴方が52年間しがみついてきた執念は、はじめから何の意味もなかった。……ヴィクラム、貴方の人生は、文字通り『無』よ」

 

 無慈悲な宣告と共に、影が完全に彼の魂を喰らい尽くす。

 ヴィクラムの体は、振り上げようとした腕の先からボロボロと崩れ始めた。断末魔すら上げることを許されず、絶望と激痛に顔を歪めたまま、彼は黒い灰となって完全にこの世界から消滅した。

 

 後に残ったのは、「梵天の牙」が床に落ちて立てた乾いた金属音と、虚しい沈黙だけだった。

 その凄惨すぎる結末を前に、ミツキたちは誰一人として言葉を発することができなかった。

「…………ッ」

 ミツキは信じられないものを見るように目を見開き、その場に立ち尽くしていた。

 隣ではライラが青ざめた顔で両手で口元を覆い、ガタガタと肩を震わせている。ルークは額にべっとりと脂汗を浮かべ、武器を握る手から力が抜けたように呆然としており、エリシェヴァは痛ましいものを見る目で、泣き崩れるセレスティアの背中をただ静かに見つめていた。

 無理もなかった。

 セレスティアがただの人間ではなく、魔王の血肉から錬成された『禁忌の存在』であったという衝撃の真実。己の欲望と保身のためだけに、22人もの妻子を合法・非合法を問わず残虐な手段で処分し続けてきたヴィクラムの底知れぬ狂気。

 そして何より、その悪逆非道な男が最後に与えられた、魂を内側から焼き尽くされるような想像を絶する断末魔の光景。

 そのすべてが、一気にミツキたちの脳に叩き込まれたのだ。

 義憤や恐怖、そしてセレスティアへの同情。あまりにも多くの感情が渦巻き、処理が完全に追いついていなかった。

 

「あれが……ヴィクラムの、最期……」

 

 静寂の中、ミツキがようやく絞り出した声は、ひどく掠れて震えていた。

 だが、その広場の最後尾で成り行きを見守っていた翁だけは、異様だった。

 

「…………」

 

 凄絶な因果応報の結末を目の当たりにしてもなお、翁の顔には微塵の動揺も浮かんでいなかった。

 彼は腕を組んだまま、氷のように冷たく透き通る金色の瞳で、床に広がるヴィクラムだった黒い灰を無言で見下ろしている。

 かつて愛する者を理不尽に奪われ、激怒と悲しみの果てに同胞である神々を虐殺した『古の神』。

 彼自身の背負うあまりにも深く血塗られた過去に比べれば、ヴィクラムのちっぽけで醜悪な執念も、ディーヴァが下した無慈悲な罰も、ただの『取るに足らない因果の果て』に過ぎないのかもしれない。

 

 翁は何も語らず、ピクリとも表情を変えることなく、ただ静かにその結末を見届けていた。

 やがて、ひとしきり涙を流し尽くしたセレスティアが、ゆっくりと顔を上げる。

 彼女の瞳は、今は赤く腫らされていたものの、ヴィクラムの消滅に対する恐怖や憐れみは一切宿っていなかった。

 セレスティアは真っ直ぐに、自分を見下ろす漆黒の貴婦人――ディーヴァ=ヒムノールムの姿を見つめ返した。



その瞳には、かつての怯えきった少女の面影はない。ただ、己の命のルーツに対する純粋な問いだけがあった。


「……あなたは……」

震える唇を開き、セレスティアは祈るように問いかける。


「あなたは、私のお母様……なのですか?」


その問いに、ディーヴァはふっと目を細めた。

慈愛と威厳が入り混じったその顔に、この上なく優しく、そしてどこか誇らしげな微笑みが浮かぶ。

 

『ええ、そうよ。……よくぞここまで一人で生き抜いてくれたわね、私の愛しい娘』

 

二つの声が重なって響いた直後。

ディーヴァの身体を包んでいた夜の闇よりも深い漆黒のドレスが、ふわりと光の粒子となって解け始めた。

背後に背負っていた多腕の影が分離し、玉座の間の空間そのものが波打つように激しく揺れる。



「融合魔法の解除……」

 

ミツキが息を呑んで呟いた。

眩い光と深い闇が渦を巻き、単一の存在であった『ディーヴァ=ヒムノールム』の姿が、完全に二つの影へと分かたれていく。

 

片方の影から現れたのは、夜の闇を固めたような王冠を戴く大柄な男。先ほどの回想で見た通りの絶対的な威圧感を放つ魔王、ラーヴァナだ。

そして、もう片方の光の影から現れたのは――。

 

「セレスティア……!」

 

美しい褐色肌に、月の光を紡いだような艶やかな銀髪を揺らし、涙ながらに駆け寄ってくる一人の女性だった。

魔王の眷属たる魔女の証を身に纏いながらも、その瞳から溢れる情愛は、幻視の中で自分を抱きしめてくれた『母親』そのものだった。

 

「お母……様……!」

 

セレスティアが立ち上がろうとした瞬間、銀髪の女性――アマラが床に膝をつき、娘の華奢な身体を力強く抱きしめた。

 

「ああ……セレスティア、私のセレスティア……! こんなに大きくなって……こんなに綺麗に育って……っ!」

 

アマラは褐色肌の頬を涙で濡らし、セレスティアの緑がかった金髪を何度も何度も愛おしげに撫でた。

その胸に飛び込んだセレスティアの鼻腔を、優しくて温かい、記憶の中と全く同じ匂いがくすぐる。

魔王の血肉から創り出された身体であっても、母の温もりを感じる心は、間違いなくあの日のままだった。

 

「お母様、お母様……っ! 私、ずっと、ずっと会いたかった……!」

 

セレスティアもまた、アマラの背中に腕を回し、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

途方もない歳月と、ヴィクラムの狂気によって引き裂かれた親子の時間が、今ようやく、本当の意味で交わったのだ。

 

ミツキたちも完全に武器を下ろし、その奇跡のような再会を静かに見守っていた。

 

「よかった……っ。セレスティア、本当によかったね……」

 

ライラはポロポロと涙をこぼし、自分の目元を何度も拭っている。

 

「……ああ。本当によかったな、セレスティア……っ」

 

ルークは親友であるセレスティアの涙につられて、もう我慢しきれないとばかりに大粒の涙をこぼしていた。

 

(お前が孤児院で……どれだけ寂しい思いをしてきたか、一番近くで見てきたから……っ。ううっ……やっと、本当の家族に会えたんだな……っ)

 

ルークの心からの涙声に、エリシェヴァも優しく目を細める。

 

「ええ……本当に。途方もない時間と痛みを乗り越えて、ようやく結び直された親子の絆よ。今はただ、彼女たちの時間を見守りましょう」

 

過酷な運命に翻弄された少女が、ようやく手に入れた絶対的な愛の温もり。

その光景にミツキも静かに頷き、ただ見守り続けた。

 

「……チッ。ったく、いつまで泣いてやがる」

 

感動的な親子の抱擁の傍らで、分離した魔王ラーヴァナが、ひどく退屈そうに――それでいて、どこか二人の時間を邪魔しないように視線を逸らしながら、忌々しげに頭を掻いていた。 

 


 

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