第二十二話 ディーヴァ・ヒムノールム
夜の闇よりも深い漆黒のドレスを纏った、一人の貴婦人。
多腕の影を背負いながらも、その立ち姿は優雅で、見る者の魂を凍りつかせるような神々しさを放っていた。
「……誰だ。貴様、誰だッ!! アマラはどこだ! 魔王はどうした!!」
ヴィクラムが這いつくばったまま、顔をひきつらせて叫ぶ。
貴婦人は扇で口元を隠すようにして、心底滑稽だと言わんばかりに目を細めた。
「……ダミー……だと……?」
ヴィクラムの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
彼が人生のすべてを賭け、数多の命を犠牲にして辿り着いた「勝利」は、本物の魔王が残したただの身代わりを傷つけていただけの、滑稽な一人相撲だった
。
「認めん……そんなはずはない! 私は52年待ったのだ!」
錯乱したヴィクラムは、床に転がっていた「梵天の牙」を拾い上げ、血走った目で目の前の貴婦人へと向き直った。
「伝承の通り、この神器でラーヴァナの核を砕けばすべて私の思い通りになるはずだ! 邪魔をするな、得体の知れぬ化け物めッ!!」
ヴィクラムは獣のような咆哮を上げ、漆黒のドレスを纏うディーヴァ=ヒムノールムへと飛びかかった。
だが、その黄金の刃が彼女に届くことはなかった。
「……愚かね」
ディーヴァが、まるで鬱陶しい羽虫を払うかのように、ふわりと指先を弾く。
――ドゴォォォンッ!!
「が、あはッ!?」
目に見えない不可視の魔力の暴風がヴィクラムの腹部を打ち据えた。彼の身体はボロ布のように宙を舞い、漆黒の柱に激突して床に転がる。
強烈な衝撃に肺の空気を吐き出し、ヴィクラムは血を吐きながら床を這いつくばった。
「あ、が……ゴホッ……な、なぜだ……伝承の、神器が……」
信じられないものを見る目で短剣を見つめるヴィクラムを、ディーヴァは冷ややかに見下ろし、哀れむような、それでいて酷薄な声で告げた。
「可哀想に、その偽りの神器にも、貴方にもラーヴァナは決して殺せない、そうよ殺せるはずがない……」
その意味深な言葉にミツキたちが息を呑む中、広場の最後尾で静かに成り行きを見守っていた翁が、ふと感心したように顎を撫でた。
「……ふむ。『融合魔法』か」
「融合……魔法?」
ミツキが問い返すと、翁は金色の瞳をディーヴァに向けたまま、淡々と話し始めた。
「境界の掟により、強大な魔王は直接人間界に顕現できない。かつてお主たちが戦ったイブリースの様に、魔女の肉体に直接憑依する荒技もあるが……それでは魔女側の負担が大きすぎ、すぐに精神が崩壊して廃人になってしまう」
翁の言葉に、ディーヴァが静かに目を伏せる。
「ゆえにラーヴァナは、契約した魔女――アマラと魂レベルで完全に溶け合い、単一の存在となることでこの世界に降臨した。魔法を解けば元通り分離されるとはいえ、自我を保ったまま魂を混ぜ合わせるなど……並の魔王では逆立ちしてもできん、神業に等しい魔術の行使だ」
「ご名答よ、元ご主人様。」
ディーヴァが、慈愛と威厳の入り混じった声で翁の言葉を肯定する。
その言葉に、翁はかつての優秀な部下を思い返すような、ひどく呆れたため息を小さく吐き出した。
「……これほど見事な魔術を扱う才がありながら、過去の因縁と復讐に狂い、人間界を荒らし回ったというのか。全く、救いようのない呆れた男だ」
「ふん。相変わらず高みから見下ろして説教するのがお好きなようで、虫唾が走るわ」
ディーヴァの美しい顔が微かに歪み、貴婦人の優雅さに不似合いな、ラーヴァナとしての刺々しい悪態が口をついて出た。
「私(俺)が何のために魔王にまで堕ちたのか、誰よりも知っているくせに。……それに、愛する者を奪われて復讐に狂ったのは、私(俺)だけかしら?」
ディーヴァの切れ長の瞳が、翁を射抜くように細められる。
「大地の女神を殺され、激怒のあまり同胞である天上神を殆ど虐殺した『穢れた神』様が、よく言うわ。……私(俺)を救いようがないと言うなら、あなたはどうなの? かつての主殿」
痛いところを突く、遠慮のない剥き出しの毒。
翁はそれに反論することなく、ただ静かに目を伏せた。
自分もまた、理不尽な喪失に耐えきれず世界を血で染めた過去がある。翁の沈黙は、ラーヴァナの怒りへの一定の理解と、消し去れない後悔の現れだった。
ディーヴァもまた、短く鼻を鳴らしてその険しい表情をふっと解き、再び深い慈しみを湛えた瞳へと戻る。
「……まあいいわ。今は昔話をしている暇はないもの。私たちは一つの存在として、あの子を守るためにここにいる」
彼女の視線が、床に座り込んで震えるセレスティアへと向けられた。
その瞳に宿ったのは、魔王の威圧感ではなく、娘を案じる母親の痛いほどの慈しみだった。
「――おいで、愛しい私(私たち)の娘」
ディーヴァがゆっくりと歩み寄る。
セレスティアは恐怖で身を竦ませたが、逃げ出すことはできなかった。目の前の恐ろしいはずの存在から、かつて幼い頃に包まれたような、酷く懐かしくて温かい匂いがしたからだ。
「あなたの本物の名前を、今ここで思い出させてあげましょう」
ディーヴァはしゃがみ込むと、氷のように冷たく、しかし羽毛のように優しく、セレスティアの震える頬を両手で包み込んだ。
「……っ」
その接触をきっかけに、セレスティアの視界がぐにゃりと歪んだ。
玉座の間の漆黒の風景が溶け落ち、代わりに鼻を突いたのは、むせ返るような灰の匂い。そして、肌を焼くような不快な熱気。
ミツキたち全員の脳裏にも、ディーヴァを介して「あの日」の情景が直接流れ込んでくる。
それは日記の文字情報ではない。三歳だったセレスティアの視覚、嗅覚、そして絶望感そのものを追体験する、生々しすぎる記憶の濁流だった。
暖炉の前で、「出来損ない」と自分を見下ろしたヴィクラムの冷たい目。
背中を押され、神器の炎に巻かれる瞬間の、魂を焼き切るような痛み――。
そして、そこから先の光景。
瀕死のセレスティアを抱え、半狂乱で家を飛び出す母アマラの姿だった。




