第二十話 魔王殺害
ヴィクラムが石碑の幾何学模様に指を食い込ませ、冷徹な声で「鍵」の返還を命じた。
「――私が与えた『鍵』を、私のもとへ」
瞬間、セレスティアのポーチが内側から弾けた。
「梵天の牙(短剣)」が黄金の軌跡を描き、重力を無視してヴィクラムの手元へと一直線に吸い寄せられる。
「あ……っ!」
セレスティアが反射的に手を伸ばした。奪い返さなければ。その一心で一歩踏み出した彼女を、ヴィクラムは嘲笑うような目で見据え、空いた左手で石碑の「破壊」の項目を叩いた。
「ガラクタの処分を。……穢れを焼き、無に帰せ」
その宣言と共に、セレスティアの足元から、おぞましい赤黒い炎が爆発的に噴き出した。
それは熱を持たない、だが魂を直接食い荒らし、自我を消滅させる「システムによる処刑の炎」だった。
「あが……あああああああああぁぁぁっ!!」
凄まじい絶叫が神殿に響き渡る。
セレスティアの瞳から光が失われ、その存在そのものが内側から赤黒い炎に焼き尽くされようとしていた。
「この先の精神世界の中枢に座するラーヴァナを討ち、アマラを取り戻し『アムリタの祝福』を我が物とする。……死にゆく娘の最期でも見取りながら、そこで指をくわえて待っているがいい。もっとも、救い出したところで、その頃には世界もろとも、新しい秩序に書き換わっているだろうがね」
ヴィクラムは冷笑を残し、神殿の奥、魔王が眠る玉座の間へと消えていった。
「セレスティアっ!?」
「っ!逃がすか……!」
「ならん、動くな!!」
ルークがセレスティアに駆け寄り、ミツキがヴィクラムに斬りかかろうとする。
しかし、最後尾にいた翁が、弾かれたような速さで二人の間を割り込み、セレスティアの側へと飛び込んだ。
「下がれ! これに触れればお主らの魂まで消えるぞ!」
翁はセレスティアの側に歩み寄ると、燃え盛る呪いの炎を「ただの邪魔な霧」でも払うかのように、無造作にその手で掴み取った。
「え……?」
ミツキが目を見開く。
魂を焼き尽くすはずの炎が、翁の掌の中でひしゃげ、苦悶の声を上げるように激しく火花を散らす。だが翁は眉一つ動かさず、そのまま拳を握り込んだ。
「理を語るなら、まずその上位に誰がいるかを知るがいい。……消失せよ」
翁が短く言霊を放つ。
刹那、黄金の魔力が爆発的に膨れ上がり、セレスティアを苛んでいた赤黒い炎を、文字通り「一瞬」で飲み込み、消滅させた。
「あ……が……っ」
炎から解放されたセレスティアが、ふらりと倒れ込む。
それを支えたのは、駆け寄ったミツキだった。
「セレスティアさん! 大丈夫!?」
「あ……ミツキ、ちゃん……? 私、は……」
「意識はあるな。ルーク、その娘を担げ。追うぞ」
翁は振り返りもせず、ヴィクラムが消えた奥の扉を鋭い眼光で射抜いた。
その金色の瞳には、冷徹なまでの怒りが宿っている。
「翁、今のは……!?」
「あのような三流の術、私の前で時間を稼ぐ材料にすらならん。……急げ、奴がこの精神世界のラーヴァナを殺害する前に止めねばならん」
翁の全身から立ち昇る神威に、ルークたちは圧倒されながらも、即座に武器を握り直した。
古の神が、初めて明確な「敵意」を露わにしたのだ。
「……逃げられると思うなよ、ヴィクラム」
翁が先頭に立ち、神殿の最奥へと続く大扉を、一蹴りで粉砕した。
一行は止まることなく、魔王ラーヴァナの眠る玉座の間へと、嵐のような勢いで突入していった。
大扉が火花を散らして崩れ去った先には、それまでの赤砂岩の荒々しさとは一変した、「冒涜的なほどに美しい無機質」が広がっていた。
一行が踏み込んだ回廊は、壁も床もすべてが磨き抜かれた漆黒の黒曜石で構成されている。足を踏み出すたびに、鏡のような床にミツキたちの険しい表情が映り込み、その足音は高い天井に吸い込まれては、重苦しい残響となって背後から追いかけてくる。
左右の壁には、現実世界の建築様式を無視した幾何学的な意匠が刻まれていた。
そこには、天上神たちが定めたという「世界の理」が、発光する微細な文字の奔流となって脈打っている。まるで宮殿そのものが巨大な生き物であり、その血管の中を「情報」という名の血が流れているかのようだった。
(……空気が、冷たい……急がないと………)
ミツキが漏らした呟きは、白く凍って消えた。
宮殿の奥へ進むほどに、外の翡翠色の草原にあったはずの温かみは消え失せ、代わりに肌を刺すような鋭い魔力の圧力が強まっていく。
見上げれば、吹き抜けになった天井の遙か高みに、「逆さまの空」が広がっていた。
そこには、雲海に浮かぶ不気味な地球の影と、それを繋ぎ止めるように幾千もの光の鎖が交差している。それらすべてが、宮殿の最奥――「中心」へと収束していた。
やがて、回廊が終わりを告げる。
一行の視界が急激に開け、彼らはついにその場所に辿り着いた。
回廊を抜けた先、視界が開けた瞬間にミツキたちを襲ったのは、刺すような魔圧と、鼻を突くほどの濃厚な「死の予感」だった。
「世界の心臓」と呼ばれるその円形広場は、あまりにも静かで、あまりにも冒涜的だった。
広場の中央、虚空に浮かぶ巨大な結晶体の中で、魔王ラーヴァナは眠っていた。幾千もの光の鎖に繋がれ、この精神世界を維持する糧として、ただ静かに呼吸を繰り返していた。
だが、その神聖な沈黙は、今、おぞましい音によって蹂躙されていた。
「――、――ッ! ――、――ッ!!」
肉を裂き、骨を砕く、湿った不快な音が広間に反響している。
一行が目にしたのは、結晶の直下、魔王の肉体が剥き出しになっている部位に跨がり、狂ったように腕を振り下ろすヴィクラムの姿だった。
「お……父……様……?」
ルークに担がれたセレスティアの喉から、震える声が漏れた。
ヴィクラムが手にしているのは、奪い取った「梵天の牙」。
かつて「母を救うための鍵」だと語っていたその聖なる短剣は、今や魔王の胸、腹、喉を無数に、執拗に、滅多刺しにするための凶器へと成り果てていた。
「ハッ、ハハッ! 死ねっこの泥棒めっ!死ね死ね死ね……!!」
ヴィクラムの口から漏れるのは、かつての温厚な父親の面影など微塵もない、獣のような荒い吐息と濁った笑い声だった。
刺すたびに、魔王の身体からは赤黒い霧――システムそのものの「血」とも言える魔力が噴き出し、磨き抜かれた漆黒の床を汚していく。
「嘘だろ……間に合わなかったのか……」
ルークが絶句し、足元から力が抜けるのを感じていた。
それは戦闘ですらなかった。意識のない相手を、憎悪の赴くままに損壊し続ける、一方的で醜悪な儀式。
「やめ……やめて、お父様……っ!!」
セレスティアの悲鳴が、冷たい広間に空白を残して響き渡る。
だが、ヴィクラムの手は止まらない。
彼は返り血で顔を赤く染めながら、まるで壊れた機械のように、何度も、何度も、何度も、黄金の牙を魔王の心臓へと突き立てる。
「……何という、醜態を」
最後尾から歩み出た翁が、その光景を冷ややかに、だが深い嫌悪を込めて見つめていた。
金色の瞳には、救いようのない人間の「業」に対する、神としての冷酷な宣告が宿っていた。
ミツキは、握りしめた剣の柄が震えていることに気づいた。
目の前で行われているのは、ただの殺害ではない。
一人の人間の妄執が、世界を、家族を、そしてかつての自分さえもすべて踏みにじって進んでいく、最悪の終焉だった。
魔王ラーヴァナの残骸から噴き出す赤黒い霧が、雨のようにヴィクラムに降り注ぐ。
かつての温厚な貴族の面影はどこにもない。返り血で濡れた顔を歪ませ、彼は喉の奥から、肺を震わせるような狂った笑い声を漏らした。
「ハ……ハハハ! 見たか、見たかッ!!」
ヴィクラムは、手にした「梵天の牙」を高く掲げた。
黄金の刃に付着した魔王の「血」を、彼は陶酔した表情で、まるで極上の美酒を味わうかのように舌でゆっくりとなめ取った。その瞳は、暗い歓喜で爛々と輝いている。
「ついに……ついに私は到達したのだ! 天上神にすら成し得なかった、世界の理の頂点に! この忌まわしい精神世界の魔王の核を砕けば、現実世界の奴も死に絶えるだろう。これで『アムリタの祝福』は私のものだ。私は、アマラと共に永遠の調和を得るのだ!!」
「お父様……お願いします。どうか、やめて……」
ルークに抱えられたセレスティアが、枯れた声で絞り出すように訴える。
だが、ヴィクラムはその声を、羽虫の羽音を払うかのように鼻で笑い飛ばした。
「やめろだと? 滑稽なことを言う。セレスティア、お前はもっと誇るがいい。お前のような『ガラクタ』が、私の偉業のための薪として、人生で唯一、最高の役に立ったのだからな!」
彼は絶望に沈むミツキたちを見下ろし、一歩、また一歩と優雅な足取りで近づいてくる。その姿は、まるで観客のいない舞台で独り芝居を演じる狂言回しのようだった。
「ミツキ君、君たちには感謝しているよ。君たちがこの『鍵』をここまで運んでくれたおかげで、私は手を汚さず、永遠の都サントーンカー・シャヘルへと踏み込むことができた。……ああ、そんなに恐ろしい顔で見ないでくれ。君たちのことは、新しい世界の『部品』として、慈悲深く再利用してあげようじゃないか」
ヴィクラムは、静かに腕を組んで立つ翁へと視線を移し、勝ち誇ったように顎をしゃくった。
「どうだ、古の神よ。お前の同胞を虐殺し、泥にまみれて生きながらえたお前には、この光景がどう映る? 結局、最後を支配するのは貴様でも神の理ではない。自らの血を完璧に保とうとした、私という一人の『人間』の意志なのだよ!」
彼は、自らの52年間の罪悪感――処刑を重ね、奴隷を買い漁り、神器の力で邪魔者を消し去ってきた醜い過去――そのすべてが、この「勝利」によって聖なる儀式へと昇華されたと信じ切っていた。
「さあ、茶番は終わりだ。セレスティア……お前の身体に流れるその忌まわしい『魔王の因子』。それも、もとはといえば、あの日、お前が大人しく暖炉の火の中で灰になっていれば済んだ話だったのだ。……だが、案ずるな。今度こそ、私がこの手で完璧に処分し、私の『永遠』の一部にしてやろう」
ヴィクラムは再び「梵天の牙」を逆手に構え、娘を、そして世界そのものを嘲笑うように、最悪の勝利宣言を突きつけた。――――その時
突如として、どこからともなく「歌」が聞こえてきた。
それは、震えるほどに清らかで、重厚な旋律。何重もの声が重なり合ったような、天上の聖歌にも、地底の唸りにも聞こえる不思議な響きが、冷たい玉座の間を満たしていく。
「……ッ!? なんだ、この音は……」
ヴィクラムが顔を上げ、辺りをぎょろりと見回す。
その瞬間、彼が跨っていた魔王ラーヴァナの肉体に異変が起きた。
メッタ刺しにされ、血肉を撒き散らしていたはずの魔王の身体が、突然、音もなく煤へと変わったのだ。
「な……が、あ……っ!?」
ヴィクラムの身体が支えを失い、漆黒の床に無様に転がる。
彼が手にしていた「梵天の牙」は、もはや何の意味も持たない空気を切り裂いただけだった。魔王と呼ばれた巨大な肉体は、命の欠片も感じさせない虚無の霧となり、渦を巻いて広場の中央へと集まっていく。
その霧の中から、「彼女」は現れた。




