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最強の猫先生は、踊らない

帝国大舞踏会まで、あと十日ほど。

 エレノアの舞踏の稽古も、仕上げに入っていた。

「もう一度、お願いいたします」

 エレノアが言った。

「かしこまりました」

 舞踏教師が一礼する。

 リナが壁際で、静かに手を叩いた。

 パン、パン、パン。

 三拍子。

 一歩。

 二歩。

 エレノアの足が滑るように動く。

 背筋は伸びている。

 顎も上がっていない。

 足運びにも迷いがない。

 俺は窓辺で欠伸をした。

 舞踏教師が右へ導く。

 エレノアが動く。

 左。

 回転。

 止まる。

 リナの手も止まった。

「…………」

 俺は尻尾を一度振った。

 終わったらしい。

「いかがでしょう」

 エレノアが尋ねた。

 舞踏教師は、すぐには答えなかった。

「……お上手になられました」

「当然ですわ」

 エレノアが胸を張る。

「クロ先生にご指導いただいておりますもの」

 していない。

「ですが」

 舞踏教師が続けた。

「一つだけ、気になることがございます」

 エレノアの顔が止まった。

「何かしら」

「お嬢様は、お一人でも完璧に踊れてしまわれます」

「……?」

「私がお導きする隙がございません」

 エレノアが眉を寄せた。

「きちんと合わせているでしょう?」

「はい」

「足も間違えていないわ」

「はい」

「では、何がいけないの?」

 舞踏教師が困った顔をした。

「いけない、ということではございません。ただ――」

 少し考え。

「お嬢様は、私と踊っているというより、ご自分の正しい踊りをなさっているように見えるのです」

「…………」

 エレノアが黙った。

 俺には違いが分からん。

 人間は面倒だ。

 足を踏まなければ、それでいいだろう。

「もう一度」

 パン、パン、パン。

 リナが再び拍を取る。

 一歩。

 二歩。

 回転。

 さっきと同じだ。

 間違ってはいない。

 だが、舞踏教師の顔もさっきと同じだった。

「…………」

 エレノアが足を止めた。

「少し休憩にするわ」

「かしこまりました」

 舞踏教師が壁際へ下がる。

 リナも手を止めた。

 静かになった。

 俺は目を閉じた。

 昼寝の時間だ。

「クロ先生」

 寝る。

「クロ先生」

 聞こえない。

「先生」

「ニャ」

 仕方なく目を開ける。

 エレノアが目の前にいた。

 嫌な予感がする。

「どうすればよろしいのでしょう」

 知らん。

「先生は、どう思われます?」

 何も思わん。

 俺は猫だ。

 舞踏教師ではない。

 確かに昔、王侯貴族の舞踏会に置かれたことはある。

 戦勝の象徴としてだ。

 踊ったことはない。

「…………」

 エレノアが俺をじっと見ている。

 やめろ。

 その顔をするな。

 やがて。

 何かを思いついたらしい。

 エレノアが立ち上がった。

 ドレスの裾をつまむ。

 片足を引く。

 そして。

 俺に向かって、完璧な淑女の礼をした。

「クロ先生」

「…………」

「一曲、お相手いただけますか」

 何を言っている。

「ニャ」

 断る。

「ありがとうございます」

 待て。

 今のは承諾ではない。

 ……いや。

 鳴いたが。

 そういう意味ではない。

「では、先生。失礼いたします」

 ひょい。

「ニャ?」

 身体が浮いた。

 待て。

 エレノアが俺を胸元に抱える。

「リナ」

「はい」

 リナが真剣な顔で両手を構えた。

 なぜお前まで本気なんだ。

 パン、パン、パン。

「ニャアッ!」

 やめろ!

 エレノアが一歩踏み出す。

 俺は全身に力を入れた。

「先生?」

 離せ。

 もう一歩。

 俺は前脚を突っ張った。

「少し、踊りにくいですわ」

 当たり前だ。

 俺は踊っていない。

 拉致されている。

「先生、もう少しこちらへ」

「ニャ!」

 嫌だ。

 パン、パン、パン。

 リナ。

 やめろ。

 エレノアが回る。

 俺も回る。

 正確には、回される。

 壁際で、舞踏教師が見てはいけないものを見る顔をしていた。

「…………」

 俺はエレノアの腕の中で身体を突っ張った。

 右へ。

 左へ。

 また回る。

 長い。

 いつまで続く。

 これは魚何匹分の苦行だ。

「先生?」

 知らん。

 もういい。

 好きにしろ。

 俺は抵抗をやめた。

 前脚から力を抜く。

 後脚も。

 尻尾も。

 ぐにゃり。

「…………」

 エレノアの足が止まった。

 リナの手も止まった。

 何だ。

 俺はもう何もしないぞ。

「……先生?」

「ニャ」

 エレノアが俺を抱え直した。

 さっきより腕が柔らかい。

 また一歩。

 今度は妙に静かだった。

 俺の身体が、エレノアの動きに合わせて揺れる。

 一歩。

 回る。

 止まる。

「…………」

 エレノアが俺を見た。

 それから。

 壁際の舞踏教師を見る。

 もう一度、俺を見る。

「……任せても、いいのね」

 何の話だ。

*

「もう一度、お願いいたします」

 休憩が終わった。

 エレノアと舞踏教師が向かい合う。

 俺はようやく解放され、窓辺に戻った。

 リナが両手を構える。

 パン、パン、パン。

 一歩。

 エレノアが動く。

 次の一歩。

 さっきより、ほんの少し遅い。

 教師の腕が動く。

 それを受けて、エレノアがついていく。

 回転。

 今度は先に動かなかった。

 教師に導かれてから、身体が回る。

「…………」

 舞踏教師の顔が変わった。

 だが、何も言わない。

 エレノアも何も言わない。

 ただ踊る。

 俺は前脚に顎を乗せた。

 そういえば。

 最初の頃、こいつは自分が進みたいほうばかり見ていた。

 今は、教師の手が動いてから動いている。

「…………」

 まあいい。

 俺を降ろした。

 それだけで十分だ。

 リナの手が止まった。

 舞踏教師が、ゆっくりと手を離す。

「……お嬢様」

「何かしら」

「今のです」

 エレノアの顔が明るくなった。

 そして。

 俺を見る。

 やめろ。

「さすがクロ先生ですわ!」

 何もしていない。

「先生が自らお相手くださったおかげで、ようやく分かりました!」

 相手をした覚えもない。

「ありがとうございます!」

「ニャ」

 疲れただけだ。

 俺は目を閉じた。

 今日の夕食は魚にしろ。

*

 夕方。

 仕立屋から荷物が届いた。

「舞踏会用のドレスに合わせる飾り紐でございます」

 箱が開かれる。

 細い銀糸を編み込んだ飾り紐が、何本か並んでいた。

 エレノアが一本を手に取る。

「派手すぎないかしら」

「毛織物に合わせて、できるだけ控えめに仕上げたとのことです」

「そう」

 俺にはどうでもいい。

 俺は窓辺から降りた。

 夕食にはまだ少し早い。

 箱の横を通る。

 ふと。

 鼻に何かが引っかかった。

「…………」

 嗅ぐ。

 もう一度。

 甘い。

 重い。

 ……臭い。

 俺は顔を背けた。

 そのまま歩く。

「…………先生?」

 エレノアの声がした。

 知らん。

 俺はクッションへ向かった。

 後ろで、飾り紐が箱へ戻される音がする。

「……先生、また?」

 俺は丸くなった。

 眠い。



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