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最強の猫先生は、机の上の物を落とす

机の端に、物がある。

 落としたい。

 理由はない。

 猫とは、そういうものだ。

 俺はエレノアの机の上にいた。

 端に、革の手帳が置いてある。

 前脚を伸ばす。

 ちょん。

 手帳が少し動いた。

 ちょん。

 もう少し。

 ちょん。

 ばさっ。

 落ちた。

 満足だ。

「クロ先生?」

 エレノアが振り向いた。

 床の手帳を見る。

 俺を見る。

 手帳を見る。

 そして、顔色が変わった。

「……それは」

 手帳の表紙には、エレノアの字でこう書いてあった。

『あの女について 覚え書き』

 知らん。

 中身など読んでいない。

 俺は字が読めるが、興味がない。

「…………」

 エレノアは手帳を拾い上げた。

 ぱらぱらとめくる。

 横からのぞくと、びっしり書いてある。

 あの女の欠点。

 あの女の失言。

 あの女が殿下と話していた回数。

 ……暇なのか、こいつは。

「……不要なもの、ということですか」

 違う。

 端にあったから落としただけだ。

「こんなものに時間を使うくらいなら、自分を磨け、と……」

 違う。

 エレノアはしばらく手帳を握りしめていた。

 それから、暖炉の前へ歩いていった。

「お、お嬢様!?」

 リナが慌てる。

「いいのよ」

 エレノアは手帳を火にくべた。

 ぱちぱちと音がする。

「迷わず、切り捨てる」

 エレノアは炎を見つめていた。

「……それが、クロ先生の教えなのね」

 教えていない。

 だがまあ。

 あの手帳は、どう見ても要らなかった。

*

 問題は、その後だった。

「リナ。この髪飾り、要るかしら」

「え? あの、お気に入りでは……」

「クロ先生が、不要なものは迷わず切り捨てよと」

 言っていない。

「こちらの扇は?」

「先月お買いになったばかりで……」

「一度しか使っていないわ。要らないわね」

「お嬢様ぁ……!」

 部屋の隅に、物の山ができていく。

 ドレス。

 靴。

 宝石。

 使っていない化粧道具。

 読んでいない詩集。

 俺は山の上に登った。

 高いところは好きだ。

 てっぺんの帽子を、前脚で落とす。

「……帽子も要らない、と」

 違う。

 上にあったから落としただけだ。

 夕方には、衣装部屋が半分空になっていた。

 家令が青い顔で飛んできた。

「お嬢様! これはいったい……!」

「整理よ」

「整理……」

「不要なものは、仕立屋に頼んで仕立て直させるわ。使用人の娘たちの晴れ着にでもしてちょうだい」

「……は?」

「捨てるのはもったいないでしょう」

 家令が固まった。

 リナも固まった。

 俺も少し固まった。

 ……切り捨てるのではなかったのか。

 まあいい。

 俺は空いた衣装棚の中に入った。

 ちょうどいい広さだ。

 寝る。

*

 翌日。

 屋敷に客が来た。

「エレノア様ぁ! お久しぶりですわぁ!」

「ご機嫌いかが? 最近お茶会にもお顔を出されないから、心配していましたのよ」

 派手な令嬢が二人。

 伯爵家のマルグリットと、子爵家のベアトリス。

 エレノアの、いわゆる取り巻きらしい。

 甘い香水の匂いが、部屋中に広がった。

 ……臭い。

「ようこそ。どうぞ、お掛けになって」

 エレノアが席を勧める。

 テーブルには茶と菓子が並んでいた。

 そしてテーブルの端に、椅子がもう一つ。

 座面に、肉球の刺繍のクッション。

 俺の席だ。

 最近できた。

 使用人たちは「聖獣様のお席」と呼んでいる。

 俺はそこに座った。

 テーブルの上が、よく見える。

 物がたくさんある。

「まあ、これが噂の猫ちゃん?」

 マルグリットが俺を見た。

「本当にテーブルに着いていますのね……」

「ふふ。可愛らしいこと」

 ベアトリスが扇で口元を隠した。

 目が笑っている。

 だが、何か別の笑い方だった。

「それで、エレノア様」

 マルグリットが身を乗り出した。

「お聞きになりまして? あの平民上がりの男爵令嬢のこと」

 エレノアのカップが、わずかに止まった。

「仕立屋で、エレノア様の猫ちゃんに取り入ったそうですわね」

「まあ、図々しい」

「殿下だけでは飽き足らず、猫にまで」

「泥棒猫とは、あの方のためにある言葉ですわね」

 二人がくすくす笑った。

 エレノアは笑わなかった。

「…………」

 カップを置く。

 少し前のエレノアなら、一緒になって笑っていただろう。

 いや、先頭に立って笑っていたはずだ。

 だが今は、黙っている。

 眉のあたりが、少しだけ固い。

「……そういえば」

 エレノアが二人を見た。

「あなたたち、いつもそうでしたわね」

「え?」

「私が誰かを嫌えば、一緒になって嫌う。私が怒れば、一緒になって怒る」

「それが、お友達というものでしょう?」

 ベアトリスが、扇の陰で笑った。

 マルグリットも笑った。

 エレノアは、笑わなかった。

 俺はテーブルの上を見ていた。

 目の前に、ベアトリスの扇がある。

 端に。

 ぎりぎりの位置に。

 ……落としたい。

 前脚を伸ばす。

 ちょん。

「あら?」

 ちょん。

「ちょっと、猫ちゃん……」

 ばさっ。

 落ちた。

 満足だ。

「まあ!」

 ベアトリスが扇を拾った。

「いけない子ね」

 笑顔が、少し引きつっている。

 エレノアが、じっと俺を見ていた。

 嫌な予感がする。

 次に目に入ったのは、マルグリットの前の菓子皿だった。

 これも端にある。

 なぜ人間は、物を端に置くのか。

 落とせと言っているようなものだ。

 ちょん。

 ちょん。

 がしゃん。

「きゃあっ!」

 マルグリットのドレスに、クリームが飛んだ。

「な、なんて猫なの……!」

 マルグリットの声が裏返った。

「エレノア様! この猫、しつけがなっていませんわ!」

「…………」

 エレノアは答えなかった。

 ただ、俺と、床の扇と、割れた皿を見ていた。

 そして、ゆっくりと呟いた。

「……不要なものは、迷わず切り捨てよ」

 違う。

 端にあったからだ。

「クロ先生は、昨日からずっと、私にそうお教えくださっていた」

 教えていない。

「そして今、先生が落とされたのは……お二人のもの」

 マルグリットとベアトリスが、顔を見合わせた。

「エレノア様?」

「何をおっしゃって……」

 エレノアは立ち上がった。

 背筋が伸びている。

 顎が引けている。

 最初の朝から叩き込まれた、あの姿勢だ。

「マルグリット様。ベアトリス様」

「は、はい」

「これまで、ありがとう」

 二人がぽかんとした。

 エレノアは、にこりと微笑んだ。

 完璧な淑女の笑みだった。

「でも、もうお茶会にお招きすることはないわ」

「…………え?」

「お帰りはあちらよ」

 部屋が凍った。

 控えていたリナが、盆を落としそうになった。

 家令は天井を見上げていた。

 俺は思った。

 ――やりすぎだ。

 皿一枚と扇一本で、縁を二本切る奴があるか。

 しかも「ありがとう」を付けたせいで、余計に冷たい。

 礼を言えと教えたのは俺だが、こういう使い方をしろとは言っていない。

「な、なんですの、それ……!」

「猫に皿を落とされたくらいで……!」

「そうね」

 エレノアは扇を開いた。

「猫に皿を落とされたくらいで、ね」

 なぜか、その一言で二人は黙った。

 顔を真っ赤にして、足音荒く出ていった。

 香水の匂いだけが残った。

 臭い。

 俺はクッションの上で、前脚を舐めた。

「……クロ先生」

 エレノアが、椅子に座り直した。

「私、正しかったのでしょうか」

「ニャ」

 知らん。

「……そうですわよね。先生がおっしゃるなら」

 何も言っていない。

 だがエレノアの手が、膝の上で少し震えているのが見えた。

 長年の取り巻きだ。

 勢いで切ったとはいえ、平気ではないらしい。

 ……まったく。

 俺は椅子から降りて、エレノアの膝に乗った。

「……先生?」

 別に慰めているわけではない。

 香水の匂いが残る椅子より、膝のほうがましなだけだ。

*

 三日後。

 仕立屋が、ドレスの最終調整にやってきた。

「お嬢様。お預かりした古いドレスの件、使用人の娘さん方の分から仕立てております」

「ありがとう。無理のない範囲でいいわ」

「恐れ入ります」

 仕立屋は針を動かしながら、何度か口を開きかけては閉じた。

「……何?」

「いえ、その……」

 仕立屋は声をひそめた。

「伯爵家のマルグリット様と、子爵家のベアトリス様のことなのですが」

 エレノアの眉が、ぴくりと動いた。

「お二人とも、うちの工房のお得意様でして。以前から仮縫いのたびに……その……」

「言いなさい」

「お嬢様のことを、あれこれと」

 仕立屋は、言いにくそうに続けた。

「猫に頭を下げている、気が触れた。婚約破棄も時間の問題だ、と。夜会でも、殿下のお付きの方々に、そのように吹聴しておられたそうで……」

「…………」

「追放の噂が広まったのも、どうやら、お二人のお茶会が出どころだったとか」

 部屋が静かになった。

 リナが口を押さえている。

 エレノアは、しばらく何も言わなかった。

 それから、ゆっくりと俺を見た。

 俺は窓辺で日向ぼっこをしていた。

「……クロ先生」

 声が震えている。

「やはり、すべてお見通しだったのですね……!」

 知らん。

 端にあったから落としただけだ。

 あと、香水が臭かった。

「あの日、先生はお二人のものだけを……」

 テーブルの上の物を、手当たり次第に落としていただけだ。

 たまたま、あの二人の前に物が多かっただけだ。

「さすがです、クロ先生……!」

 エレノアが目を潤ませた。

 仕立屋が、針を持ったまま拝み始めた。

 ……もういい。

 寝る。

*

 その週のうちに、屋敷の使用人たちの間で、奇妙な習わしが生まれた。

「ねえ、これ、聖獣様の前に置いてみて」

「何それ?」

「実家の母が持ってきた縁談の釣書よ」

「……置いたら、どうなるの?」

「落とされたら、切り捨てるべきご縁。落とされなかったら、大事にすべきご縁」

「まあ……!」

 聖獣様のお席の前には、その日から毎日、何かしらが置かれるようになった。

 手紙。

 釣書。

 借用書。

 恋文。

 聖獣様は、そのほとんどを落とした。

 端に置かれていたからである。

 ごくまれに落とされなかったものは、聖獣様がその上で寝てしまったものだった。

「……お眠りになった」

「このご縁は、安らぎをもたらす、ということかしら」

「深いわ……」

*

 夜。

 俺は衣装棚の中で丸くなっていた。

 半分空いた棚は、ちょうどいい寝床になった。

 今日も、たくさん落とした。

 人間たちは、そのたびに何か騒いでいた。

 理由は知らない。

 興味もない。

 机の端に物がある限り、俺はそれを落とす。

 それが猫だ。

 ……ただ。

 あの日、エレノアの膝は、少しだけ震えていた。

 それだけは、覚えている。

 まあいい。

 明日の魚は何だろうか。


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