最強の猫先生は、撫で方にも厳しい
朝から、何かがおかしい。
「もう一度よ」
「は、はい」
エレノアの部屋で、リナが真剣な顔をして椅子に座っている。
その前に、エレノア。
さらにその前に、俺。
俺はクッションの上に座っている。
新しいクッションだ。
昨日まではなかった。
柔らかい。
悪くない。
「リナ。昨日のあなたは、少し力が強かったわ」
「申し訳ありません」
「謝ることではないわ。大切なのは改善することよ」
「はい!」
何の話だ。
エレノアが俺を見る。
目が真剣だ。
「クロ先生。失礼いたします」
「ニャ?」
人差し指が伸びてきた。
俺は避けた。
「…………」
エレノアの指が止まった。
「……なぜ?」
なぜと言われても。
正面から真顔で指を突き出してくる人間は怖い。
「やはり、角度でしょうか」
リナが言った。
「昨日の男爵令嬢様は、もう少し低い位置から手を出していたような……」
「そうね」
エレノアが床に膝をついた。
もう一度。
指が伸びてくる。
今度は下から。
俺は匂いを嗅いだ。
エレノアの匂いだ。
そのまま頬を擦りつける。
「……!」
エレノアの目が輝いた。
「リナ!」
「はい!」
「今よ!」
何がだ。
リナが手帳に何かを書き込んだ。
「接触成功。正面より下方。指一本。待機時間、約三秒」
「なるほど……」
なるほどではない。
「次。耳の後ろよ」
「はい!」
エレノアの指が、耳の後ろへ来た。
かり。
「…………」
違う。
かりかり。
惜しい。
「どうですか、先生?」
「ニャ」
「まだなのね……!」
何がまだなんだ。
「もう少し右では?」
「右……」
かりかり。
そこではない。
かり。
そこだ。
「ゴロ……」
「!」
エレノアとリナが同時に息を呑んだ。
しまった。
「リナ!」
「はい!」
「今の位置!」
「記録しました!」
何をしているんだ、お前たちは。
*
一時間後。
俺は疲れていた。
撫でられて疲れるというのも妙な話だが、疲れたものは仕方がない。
エレノアは机に向かい、リナの記録を読んでいる。
「力を入れすぎない」
「はい」
「いきなり触らない」
「はい」
「相手が近づいてくるまで待つ」
「はい」
「触れる前に、相手を見る」
「はい」
エレノアは腕を組んだ。
「……奥が深いわね」
猫を撫でるだけだ。
「昨日のあの女……」
ぎり、と歯を噛んだ。
「なぜ、こんな高度な技術を……」
高度ではない。
「負けませんわ」
何と戦っている。
その時。
扉が、控えめに叩かれた。
「お嬢様」
家令だった。
「リナの弟が参っております」
リナが立ち上がった。
「弟が?」
「はい。例の件で、お嬢様へ直接お礼を申し上げたいと」
「そう」
エレノアは手帳を閉じた。
「通してちょうだい」
*
入ってきたのは、十二、三くらいの少年だった。
痩せている。
着ている服も古い。
だが、きちんと洗ってある。
右手には包帯が巻かれていた。
借金取りにつかまれたとき、手首を傷めたらしい。
幸い、仕事に支障が残るほどではないという。
「弟のトーマです」
リナが言った。
少年は深々と頭を下げた。
「こ、公爵令嬢様。このたびは……」
声が震えている。
「借金のこと……ありがとうございました」
「別に」
エレノアは椅子に座ったまま答えた。
「証文を調べたら、利息の取り方そのものが違法だっただけよ」
少年が、さらに頭を下げる。
「それでも……」
「あなたの親方にも話は通してあるわ。腕が治ったら、仕事へ戻りなさい」
「……はい」
少年の肩が震えた。
泣いているのかと思った。
違った。
怖がっている。
俺にも分かる。
目が、エレノアを見ていない。
床ばかり見ている。
まあ、無理もない。
公爵令嬢。
姉が毒を盛った相手。
しかも少し前まで、使用人の名前すら覚えていなかった女だ。
少年にとっては、借金取りより別の意味で怖いのだろう。
「顔を上げなさい」
エレノアが言った。
「……っ」
少年の肩が跳ねた。
顔を上げる。
青い。
エレノアが眉を寄せた。
「私が怖いの?」
「そ、そんなことは……!」
「嘘ね」
「……」
リナが困ったように弟を見る。
エレノアが立ち上がった。
少年が、一歩下がった。
エレノアが止まった。
「…………」
少年を見る。
自分の足を見る。
そして。
俺を見た。
俺はクッションの上にいる。
何もしていない。
エレノアが、もう一度少年を見た。
それから。
しゃがんだ。
「……お嬢様?」
リナが目を丸くした。
エレノアは少年から二歩ほど離れた場所で、しゃがんでいる。
何も言わない。
少年も困っている。
「…………」
「…………」
長い。
何をしているんだ。
やがてエレノアが、片手を出した。
少年の顔が引きつった。
エレノアは慌てて手を引っ込めた。
「……違うわね」
小さく呟いた。
何がだ。
エレノアは両手を膝の上に置いた。
ただ、待った。
「あなた」
「……はい」
「別に、こちらへ来なくてもいいわ」
「え?」
「そこにいなさい」
少年が、初めてエレノアの顔を見た。
「あなたのお姉さんのことも、怒っていないわけではない」
リナが俯いた。
「したことは消えないもの」
「……はい」
「でも、それとあなたは別でしょう」
少年は黙っている。
「あなたまで、私に謝る必要はないわ」
「…………」
「だから」
エレノアは少し考えた。
「……怖くなくなるまで、そこにいればいいんじゃない?」
俺は耳を動かした。
どこかで聞いたような話だ。
少年が、しばらくエレノアを見ていた。
それから。
一歩。
前へ出た。
エレノアは動かない。
もう一歩。
少年が近づく。
まだ動かない。
少年は、エレノアの前まで来た。
「……あの」
「何?」
「本当に……ありがとうございました」
今度の声は、さっきほど震えていなかった。
エレノアが少しだけ笑った。
「どういたしまして」
リナが口元を押さえた。
泣いている。
人間はよく泣く。
*
少年が帰ったあと。
エレノアは満足そうに俺の前へ座った。
「クロ先生」
「ニャ」
「分かりましたわ」
何がだ。
「相手に近づいてほしいなら、自分から無理に近づいてはいけないのですね」
俺はエレノアを見た。
それを教えたのは俺ではない。
「相手を見て」
エレノアが指を一本出した。
「待つ」
俺はその指の匂いを嗅いだ。
「そうすれば、いつか向こうから来てくれる」
頬を擦りつける。
エレノアが笑った。
「さすがクロ先生ですわ!」
だから。
それを教えたのは、あの女だ。
……まあいい。
俺の弟子が勝手に賢くなる分には、困らない。
「では、続きを!」
エレノアの目が輝いた。
まだやるのか。
「今日は、あの女を超えるまで終わりませんわ!」
やめろ。
指が耳の後ろへ来る。
かりかり。
違う。
かりかり。
そこでもない。
「ここですか?」
違う。
「こちら?」
惜しい。
「ここ!」
そこだ。
「ゴロゴロ……」
「リナ!」
「はい! 記録します!」
俺は目を閉じた。
まあ。
悪くはない。
*
その日の夜。
使用人たちの間で、新しい話が広まった。
「聖獣様は、人の心を開く方法を、お嬢様にお教えになったらしい」
「人の心を?」
「ええ。無理に踏み込まず、相手が自分から心を開くまで待つのだと」
「まあ……」
「深いお教えね……」
リナだけが、少し困った顔をしていた。
その教えの始まりが、
猫の耳の後ろを、上手に掻く方法だったことを知っていたからだ。
*
翌朝。
朝食の魚は、昨日より少し大きかった。
そして俺の皿の横に、一枚の紙が置いてあった。
『聖獣様へ。
弟を助けていただき、ありがとうございました。
リナ』
俺は紙を見た。
魚を見た。
また紙を見た。
……。
まあいい。
弟を助けた覚えはない。
だが。
魚に罪はない。
俺は食べた。




