最強の猫先生は、耳の後ろに弱い
魚の格が上がった。
数ではない。
格だ。
今朝の魚は、白身の、脂の乗った、明らかに高いやつだった。
しかも皿が新しい。
縁に、肉球の模様が彫ってある。
使用人の誰かが、わざわざ職人に頼んだらしい。
悪くない。
俺は皿ごと舐めた。
「クロ先生!」
来た。
「本日はドレスの仮縫いです。先生にも、最終確認をお願いしたいのです!」
知らん。
「ニャ」
「ありがとうございます!」
まだ何も言っていない。
このやり取りも、そろそろ様式美だ。
*
仕立屋の工房は、布と糸の匂いがした。
俺は籠に入れられて運ばれた。
籠の中は暖かい。
文句はない。
「お待ちしておりました、エレノアお嬢様」
仕立屋が深々と頭を下げた。
目の下に隈がある。
あの地味な毛織物と、何日も格闘したらしい。
「どうぞ、こちらへ」
奥の部屋で、エレノアがドレスに袖を通した。
飾りはほとんどない。
宝石もない。
金糸もない。
ただ、布が身体に沿って、真っ直ぐに落ちている。
「……いかがでしょう」
仕立屋が息を詰めて見ている。
エレノアは鏡の前に立った。
背筋が伸びている。
顎が引けている。
立っているだけだ。
だが、立ち方が違う。
最初の朝に俺が「ニャーッ!」とやった、あの姿勢だ。
「…………悪くないわね」
エレノアが言った。
仕立屋が、その場に崩れ落ちそうになった。
「ありがとうございます……!」
「礼を言うのは私のほうよ。ありがとう」
仕立屋は、今度こそ崩れ落ちた。
俺は籠の中で欠伸をした。
人間は大げさだ。
*
その時、工房の扉が開いた。
「ごめんください!」
明るい声だった。
エレノアの肩が、ぴくりと跳ねた。
振り向く前から分かったらしい。
顔が、みるみる固くなっていく。
「まあ! エレノア様!」
入ってきたのは、栗色の髪の娘だった。
年はエレノアと同じくらい。
ドレスは質素だ。
よく見ると、袖口に丁寧な繕いの跡がある。
「……あら」
エレノアの声が、一段低くなった。
「どなたかと思えば」
冷たい。
部屋の温度が下がった気がする。
俺は籠の中で丸くなり直した。
だが娘は、気にした様子もなく駆け寄ってきた。
「こんなところでお会いできるなんて! 改めまして、私――」
「ふぁ……」
俺は欠伸をした。
大きな欠伸だった。
顎が外れるかと思った。
……何か言っていたか?
まあいい。
「――と申します。先日の夜会では、きちんとご挨拶もできなくて」
「存じておりますわ」
エレノアが扇を開いた。
顔の下半分が隠れる。
目だけが笑っていない。
「それで? 男爵家のご令嬢が、なぜこの工房に?」
「母のドレスを、仕立て直していただいているんです」
娘は、少し照れたように笑った。
「新しいものを誂える余裕は、うちにはなくて。でも、ここの仕立屋さんは、古い布でもとても綺麗にしてくださると聞いて」
「……そう」
エレノアの扇が、少しだけ下がった。
ほんの少しだけだ。
「それにしても――」
娘がエレノアのすぐ隣に来た。
近い。
かなり近い。
「素敵な生地ですね!」
そして、ドレスの袖に触った。
「っ……!」
エレノアが半歩引いた。
娘は気づいていない。
「柔らかい……それに、温かそう。飾りがないのに、エレノア様が着ると、すごく品があって」
娘は、まっすぐにエレノアを見た。
「エレノア様は、やっぱりお綺麗ですね」
「…………」
エレノアの目が細くなった。
「……嫌味?」
「え?」
娘がきょとんとした。
本気で分かっていない顔だった。
「え、あの、本当に、そう思って……」
「…………」
「…………」
沈黙。
俺は思った。
こいつら、会話が下手だな。
*
仕立屋が気を利かせて茶を出した。
二人は向かい合って座った。
いや、娘がエレノアの隣に座ろうとして、エレノアが無言で向かいの席を示した。
娘は素直にそちらへ移った。
距離を取るエレノア。
距離を詰める娘。
見ていて疲れる。
「そういえば」
娘が、ぱっと顔を上げた。
「皇太子殿下が、エレノア様のことを話していらっしゃいました」
エレノアのカップが止まった。
「……殿下が?」
「はい。最近のエレノア様は、なんだか変わられた、と」
「…………」
「殿下はとても親切な方ですよね。私、いつも相談に乗っていただいているんです」
カップが、受け皿に置かれた。
カチ、と小さな音がした。
「……相談?」
「はい! 貴族のしきたりとか、夜会での振る舞いとか、分からないことばかりで」
「…………二人きりで?」
「はい!」
元気のいい返事だった。
一片の悪意もない。
だからこそ、たちが悪い。
俺は籠から顔を出した。
エレノアの手が、扇の骨をきしませている。
……それは怒るだろ。
俺は猫だが、それくらいは分かる。
婚約者のいる男と、二人きりで。
それを、婚約者本人の前で、嬉しそうに。
今回ばかりは、エレノアに一票だ。
エレノアの唇が開いた。
来る。
あの、昔の、刺すような声が。
――と思った。
だがエレノアは、そこで一度だけ、俺のほうを見た。
「ニャ」
俺は鳴いただけだ。
何も言っていない。
腹が減っただけだ。
エレノアは、ゆっくりと息を吐いた。
扇を閉じる。
「……あなた」
「はい?」
「婚約者のいる殿方と二人きりになるのは、貴族の間では、誤解を招くのよ」
冷たい声だった。
棘もあった。
だが、罵倒ではなかった。
娘が目を丸くした。
「……そう、なんですか?」
「そうよ」
「知りませんでした……」
娘の顔が、みるみる青くなった。
「じゃあ、私、エレノア様に、ずっと失礼なことを……」
「…………」
「教えてくださって、ありがとうございます!」
娘が深々と頭を下げた。
エレノアは、口を開けたまま固まっていた。
怒るつもりで放った言葉が、礼になって返ってきたのだ。
受け止め方が分からない、という顔だった。
「…………別に」
それだけ言って、エレノアは茶を飲んだ。
もう冷めているはずだ。
*
「あら?」
娘が、俺に気づいた。
「猫ちゃん……!」
しまった。
俺は籠の中に引っ込もうとした。
勝手に触ろうとする人間は嫌いだ。
抱き上げる。
撫で回す。
頬ずりする。
人間というのは、どうしてああも距離感がないのか。
だが。
娘は、駆け寄ってこなかった。
籠から少し離れたところで、しゃがんだ。
目線が、俺と同じ高さになる。
そして、人差し指を一本、そっと差し出した。
それだけだった。
待っている。
「…………」
俺は籠の縁から、その指を見た。
……ほう。
こいつ、分かっている。
猫に触りたいなら、猫に来させろ。
人間にしては、礼儀を知っている。
俺は籠から出た。
指の匂いを嗅ぐ。
茶と、糸と、繕い物の匂い。
悪くない。
指先に、頬を擦りつけた。
「まあ……」
娘の指が、ゆっくりと耳の後ろへ回った。
かりかり。
「…………」
かりかり。
……そこだ。
かりかりかり。
「ゴロゴロゴロ……」
喉が勝手に鳴った。
止まらない。
「クロ先生!?」
エレノアが椅子から立ち上がった。
「な、何をしているのです! 気安くクロ先生に触れないでくださる!?」
「え? でも……」
娘が、困ったように俺を見た。
「嫌がっていないようですけれど」
かりかり。
もう少し右。
かりかり。
そう、そこ。
「ゴロゴロゴロゴロ……」
「クロ先生っ!!」
工房の奥から、見習いの娘たちが顔をのぞかせていた。
「……聖獣様が」
「喉を鳴らしていらっしゃる……」
「男爵令嬢を、お認めになった……?」
「認めていませんわ!」
エレノアが叫んだ。
認める。
この指は、認める。
「どいてちょうだい!」
エレノアが、娘を押しのけるようにして俺の前にしゃがんだ。
そして、両手でがばっと俺を抱え上げようとした。
俺はするりと逃げた。
「なっ……!」
お前は、人間相手だとやたら距離を取るくせに。
俺に触るときだけ、近すぎる。
「エレノア様、あの、猫ちゃんは、ゆっくりのほうが……」
「分かっていますわ!」
分かっていない。
エレノアは歯を食いしばり、娘の真似をしてしゃがみ直した。
指を一本、突き出す。
ぶるぶる震えている。
目が血走っている。
……怖い。
だが、まあ、努力は認めてやる。
俺はエレノアの膝に乗った。
「…………!」
エレノアの顔が、ぱっと明るくなった。
その横から、娘の指がまた耳の後ろへ伸びてくる。
かりかり。
エレノアの手は、背中を撫でている。
ぎこちない。
力が強い。
だが、温かい。
二人の手が、同時に俺に触れていた。
……。
妙な感じがした。
胸の奥の、どこか遠いところが、ざわりとした。
何だ、今のは。
「ゴロゴロ……」
……気のせいだ。
耳の後ろが気持ちいいせいだ。
*
「それでは、エレノア様。また、お会いしましょう!」
帰り際、娘は扉の前で振り返った。
「今度は、きちんと覚えていただけるように――私の名前は――」
その時、工房の窓辺に蛾が止まった。
白い蛾だった。
ひらひらしている。
俺はそれを見た。
尻尾が勝手に揺れる。
跳んだ。
外した。
「――です! では、失礼いたします!」
扉が閉まった。
……何か言っていたか?
まあいい。
蛾のほうが大事だ。
*
その日の夕方、仕立屋の工房では、見習いの娘たちが針を動かしながら囁き合っていた。
「見た? 聖獣様」
「見た見た。男爵令嬢の指で、ゴロゴロって」
「でも、最後はエレノアお嬢様のお膝に乗られたわよね」
「……どっちを選ばれたのかしら」
「どっちも、じゃない?」
「どっちも?」
「だって、お二人に同時に撫でられて、すごく満ち足りたお顔をなさっていたもの」
見習いたちは顔を見合わせた。
「……聖獣様は、お二人ともお認めになったのでは?」
「お二人とも?」
「ええ。きっと、それぞれに違うお役目があるのよ」
「まあ……!」
「聖獣様には、もう何かがお見えになっているのかも……」
誰かが、ほうっと息をついた。
その噂が、翌日には帝都の仕立屋という仕立屋に広まることを、当の猫は知らない。
当の猫が考えていたのは、ただ一つ。
耳の後ろと、膝。
どちらも捨てがたい。
*
帰りの馬車。
俺はエレノアの膝の上にいた。
窓の外を、夕暮れの街が流れていく。
「……クロ先生」
「ニャ」
「あの女……」
エレノアは、前を向いたまま言った。
「本当に、何も知らなかったのかしら」
「ニャ」
知らなかったんだろう。
「……そう」
しばらく、車輪の音だけが続いた。
やがてエレノアが、俺を見下ろした。
「クロ先生」
「ニャ?」
「あの女のこと……気に入ったのですか?」
俺は考えた。
耳の後ろ。
指一本。
あの角度。
あの力加減。
……絶妙だった。
「ニャ」
「…………!」
エレノアの顔が引きつった。
かなりな。
「……分かりました」
エレノアが、ぎゅっと拳を握った。
「明日から、修行を二倍にします!」
なぜだ。




