最強の猫先生は、魚で選ぶ
魚が増えた。
最近、俺の食事は明らかに豪華になっている。
朝に一匹。
昼にも一匹。
夜には二匹。
さらに、使用人が時々こっそり持ってくる。
悪くない。
聖獣という仕事は、なかなか待遇がいい。
「クロ先生!」
来た。
「今日は、とても大切なご相談があります」
エレノアが俺の前にしゃがんだ。
「次の帝国大舞踏会に着ていくドレスを、先生に選んでいただきたいのです!」
知らん。
「ニャ」
「ありがとうございます!」
まだ何も言っていない。
*
午後。
屋敷の一室が布で埋まった。
赤。
青。
白。
金。
光沢のあるもの。
透けるもの。
刺繍だらけのもの。
人間は、服を選ぶだけでどうしてこれほど大騒ぎするのだろう。
「こちらは東方より取り寄せました最高級の絹でございます」
仕立屋が赤い布を広げた。
「クロ先生?」
知らん。
俺は前脚を舐めた。
「では、こちらは?」
金糸の入った青い布。
知らん。
「こちらなど、いかがでしょう!」
レース。
俺は前脚を伸ばした。
爪が引っかかった。
びり。
「あっ」
「ああああっ!」
仕立屋が叫んだ。
エレノアが真剣な顔になる。
「……華美な装飾に頼るな、ということですね」
違う。
爪が引っかかっただけだ。
「さすがクロ先生……」
「お、お嬢様! それは帝都でも三反しかないレースで……!」
「代金は払います」
「そういう問題では……!」
俺は欠伸をした。
部屋の隅に、地味な布が積まれていた。
暖かそうだ。
俺はその上に乗った。
前脚で二度踏む。
柔らかい。
くるくる回る。
ぽすん。
寝た。
「…………」
静かになった。
「クロ先生?」
眠い。
「……これなの?」
「お嬢様、それは上質ではございますが、外套などに使う毛織物で……」
エレノアが布を見る。
派手さはない。
宝石も金糸も似合わないだろう。
「…………」
少し迷ったようだった。
それから、俺を見る。
「これにするわ」
「お嬢様!?」
「クロ先生がお選びになったもの」
選んでいない。
「この布を使って、舞踏会用のドレスを仕立ててちょうだい」
「ですが――」
「できないの?」
仕立屋の目が変わった。
「……やってみせます」
職人というものは、妙なところで負けず嫌いらしい。
俺にはどうでもいい。
暖かい。
寝る。
*
そのころから、妙なことが起き始めた。
屋敷を訪れる商人たちが、俺に魚を持ってくるようになったのだ。
「聖獣様に、北海産の干し鱈を」
ほう。
分かっている。
「こちらは帝都で評判の燻製魚でございます」
こいつも見込みがある。
「聖獣様への献上品として、宝石と――」
宝石はいらん。
魚だけ置いていけ。
エレノアは、その様子を満足そうに眺めていた。
「やはり、クロ先生へのご挨拶には魚が正式なのね」
違う。
だが訂正する必要もない。
この風習は残すべきだ。
*
数日後。
また商人が来た。
小太りの男だった。
「これはこれは、エレノアお嬢様。本日は我が商会自慢の宝石をお持ちいたしました」
机の上に箱が並ぶ。
俺は興味がない。
窓辺で寝ようとした。
「あ、そうでした」
商人が笑う。
「こちらも聖獣様へ」
包みが出てきた。
魚。
俺は起きた。
近づく。
嗅ぐ。
魚そのものは悪くない。
もう一度嗅ぐ。
……。
臭い。
魚ではない。
こいつの手だ。
鼻の奥に残る、妙に甘く、重い匂い。
気に入らん。
俺は顔を背けた。
「…………」
部屋が静かになった。
何だ。
商人の顔から笑みが消えている。
「……クロ先生?」
エレノアまで妙な顔をしている。
「ニャ」
臭い。
それだけだ。
「……魚を」
エレノアが呟いた。
「クロ先生が、魚を拒んだ……?」
そんなに珍しいことか。
珍しいらしい。
使用人たちまで青ざめている。
「せ、聖獣様……?」
商人が震え始めた。
知らん。
風呂に入れ。
「お嬢様」
後ろにいた使用人が囁いた。
「この者を衛兵に――」
「待って」
エレノアが止めた。
以前なら、そのまま捕まえさせていただろう。
だが今は、商人をじっと見ている。
「……まず、話を聞きましょう」
「は、話……?」
「クロ先生は、あなたの魚を召し上がらなかった」
「は、はい……」
「これは大変なことよ」
大変ではない。
「最近、何か変わったことは?」
「変わったこと、と申されましても……」
「仕入れ先。取引相手。扱っている商品。何でもいいわ」
「お、お待ちください。私は何も――」
「あなたが悪人だとは言っていないわ」
商人が止まった。
エレノアも、一瞬だけ俺を見た。
「だから、話を聞いているの」
ほう。
少しは学んだらしい。
何を学んだのかは知らんが。
「……最近でしたら」
商人が額の汗を拭いた。
「染料の仕入れ先を変えました」
「染料?」
「はい。先月から新しい商会と取引を始めまして。品質が良く、値も安いもので」
「商会の名前は?」
商人が答えた。
知らない名前だった。
だが。
エレノアの顔が変わった。
「……その商会」
「はい?」
「紋章はある?」
「ええ。ございますとも」
商人が袖口を示した。
取引先から贈られたものなのだろう。
小さな刺繍がある。
エレノアが息を止めた。
俺には、ただの模様にしか見えない。
だが彼女は違った。
「……リナ」
後ろに控えていたメイドが、青ざめる。
「はい」
「あとで、私の部屋へ」
「……はい」
商人が震えながら尋ねた。
「あ、あの……私は……」
エレノアは少し考えた。
「今日は帰っていいわ」
「よろしいのですか?」
「ええ。ただし、その商会との取引記録は捨てないこと」
「も、もちろんでございます!」
商人は何度も頭を下げた。
そして俺を見る。
「聖獣様……私は、お許しいただけたのでしょうか……」
知らん。
魚を置いていけ。
商人は魚を持って帰った。
……なぜだ。
*
「昨夜、向こうから連絡がありました」
その夜。
リナがエレノアの部屋で言った。
俺は椅子の上で魚を食っていた。
「なんて?」
「『薬は使ったのか』と」
「それで?」
「お嬢様に言われたとおり答えました。確かにお茶へ入れた、と」
リナの声が震える。
「それ以上は?」
「何も」
「そう」
エレノアが笑った。
嫌な笑い方だ。
こいつは、こういう顔が妙に似合う。
「でも、お嬢様……」
リナが不安そうに顔を上げる。
「もし、嘘だと知られたら……」
「嘘?」
エレノアが首を傾げた。
「あなたは毒を入れた」
「……はい」
「私は死ななかった」
「はい」
「なら、どこに嘘があるの?」
「…………」
「聞かれていないことまで、親切に教えてあげる必要がありまして?」
リナがぽかんとする。
俺も魚を噛みながらエレノアを見る。
性格が悪い。
だが。
以前よりは、ずっといい。
「それより」
エレノアが机の上へ金貨を置いた。
リナが男から受け取ったものだ。
その紋章。
今日、商人の袖口にあったものと似ている。
「この紋章……」
エレノアが呟いた。
「ある名家のものに、よく似ているの」
「名家、ですか」
「ええ。でも、どこかが違う」
エレノアは金貨を燭台の火にかざした。
「偶然かしら」
「……分かりません」
「私もよ」
エレノアは金貨を指先で弾いた。
「だから、調べるの」
そして俺を見る。
「クロ先生」
「ニャ?」
「今日も、ありがとうございました」
何がだ。
俺は臭い魚を食わなかっただけだ。
「明日は、靴を選んでくださいませ」
嫌だ。
俺は魚を食べ終えた。
*
翌日。
「聞いた?」
「何を?」
「宝石商の人よ。聖獣様に魚を拒絶されたんですって」
「まあ……!」
「でも、お嬢様が助けたらしいわ」
「助けた?」
「衛兵に捕らえられそうになったのを、『まず話を聞きましょう』って」
「……お嬢様が?」
「そう」
使用人たちは顔を見合わせた。
やがて一人が、小さな声で言った。
「聖獣様は、人の善悪までお分かりになるのかしら」
「きっとそうよ」
「でも……だったら、どうして商人を罰しなかったの?」
しばらく沈黙。
リナだけが、少し笑った。
「たぶん」
「?」
「罰するかどうかは、お嬢様に任せたんじゃないかしら」
使用人たちは、感嘆の息を漏らした。
「……聖獣様は、そこまで……」
その日の午後。
俺への魚は、七匹に増えた。
よく分からんが。
順調である。




