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最強の猫先生は、何も教えていない

翌朝。

「クロ先生!」

 うるさい。

 俺は窓辺で寝ていた。

「今日から、本格的な修行をお願いいたします!」

 修行?

 なんの話だ。

「決めましたわ」

 エレノアは胸の前で拳を握った。

「次の帝国大舞踏会――そこで、あの女を完膚なきまでに見返します!」

 まだ言っているのか。

「礼儀、教養、所作、会話、ダンス――すべてにおいて、私のほうが上だと思い知らせてやりますわ!」

「ニャ」

 勝手にしろ。

「はい、先生!」

 何が「はい」なんだ。

 俺は目を閉じた。

 朝の日差しが暖かい。

 もう少し寝る。

「…………」

 妙に静かだ。

 薄目を開ける。

 エレノアが、俺を見ていた。

 真剣な顔で。

「……なるほど」

 何がだ。

「まずは、自ら光の当たる場所へ立て、と」

 違う。

「いつまでも他人の陰に隠れていては、一流の淑女にはなれない……!」

 違う。

 寒いから日向に来ただけだ。

「さすがです、クロ先生!」

 俺は寝た。

*

 昼。

 俺は廊下を歩いていた。

 後ろから足音がする。

 振り返る。

 エレノアがいた。

 頭に本を載せて。

「…………」

 何をしている。

「先生の歩法を学んでおります」

 知らん。

「足音を立てず、身体の軸を乱さず、常に優雅に」

 俺は普通に歩いているだけだ。

 一歩。

 エレノアも一歩。

 二歩。

 エレノアも二歩。

 止まる。

 エレノアも止まる。

 俺は右へ。

 エレノアも右へ。

 左へ。

 左へ。

 面白くなってきた。

 俺は急に方向を変えた。

「きゃっ」

 本が落ちた。

「…………」

 エレノアが本を拾う。

 また頭に載せた。

「もう一度お願いします、先生!」

 ……こいつ、意外と根性があるな。

 俺は階段へ向かった。

*

 午後。

 毛が少し乱れていた。

 俺は前脚を舐め、顔をこする。

「なるほど……」

 また始まった。

「身だしなみは、人に見られるためではない」

 ペロペロ。

「誰も見ていないときこそ、自らを律する」

 ペロペロ。

「真の気品とは、そういうものなのですね……!」

 違う。

 毛が気持ち悪いだけだ。

 だが、その日の午後からエレノアは鏡の前に立つ時間が減った。

 代わりに、廊下ですれ違う使用人の前でも、背筋を伸ばして歩くようになった。

 よく分からん。

 まあ、好きにすればいい。

*

 夕方。

 俺は小さな箱を見つけた。

 入った。

「…………!」

 エレノアが息を呑んだ。

 嫌な予感がする。

「己の身の丈を知れ……!」

 違う。

「どれほど大きな力を持とうとも、自分にふさわしい器を忘れてはならない……!」

 違う。

 箱があったから入っただけだ。

「深いですわ、先生……!」

 深くない。

 むしろ箱は浅い。

 俺は箱から出た。

*

 夕食。

 今日の料理には、妙な匂いの野菜が入っていた。

 一口嗅ぐ。

 いらん。

 前脚で、しゃっ、しゃっ、と床を掻く真似をする。

「……!」

 エレノアがフォークを置いた。

 やめろ。

 今度こそ嫌な予感しかしない。

「嫌いなものを、声高に罵ってはいけない……」

 ……。

「気に入らないものにも、静かに蓋をする。それが淑女の配慮……!」

 それは本当に違う。

 エレノアは、膝のナプキンを手に取った。

 そして、皿の上へ、そっと被せた。

 料理が隠れた。

「…………お嬢様?」

 様子を見に来ていた料理長が、固まっていた。

「お口に、合いませんでしたでしょうか……」

 顔が青い。

 エレノアは、ナプキンの被さった皿を見た。

 青ざめた料理長を見た。

「…………これ、余計に感じ悪いわね」

 今ごろ気づいたか。

 エレノアはナプキンを取った。

「料理長」

「は、はい!」

「この料理、私はあまり好きではないわ」

「申し訳ございません!」

「でも、あなたが悪いわけではないのでしょう。次から別のものにしてちょうだい」

 料理長が目を丸くした。

「……かしこまりました」

「ありがとう」

 料理長は、もっと目を丸くした。

 俺も少し驚いた。

 ……まあ。

 結果が良ければ、いいか。

*

 数日後。

 俺は廊下を歩いていた。

 前から若いメイドが、大きな籠を抱えてやってくる。

 洗濯物で前が見えていない。

 俺は右へ避けようとした。

 メイドの身体が右へ傾く。

 なら左。

 今度は左へ傾いた。

 俺は止まった。

 メイドが通り過ぎる。

 そのあとを歩く。

「…………」

 またエレノアが見ている。

 だが、今度は何も言わなかった。

 その日の午後。

 エレノアは舞踏教師と練習していた。

「お嬢様、もっと思い切って」

「待って」

 エレノアが足を止めた。

「相手がどこへ動こうとしているのかを見てからでは駄目なの?」

「……え?」

「自分が進みたい場所ばかり見ていたら、ぶつかるでしょう?」

 教師が少し考えた。

「……その通りでございます」

「そう」

 エレノアは俺を見た。

「クロ先生が教えてくださいました」

 教えていない。

 俺はメイドに踏まれたくなかっただけだ。

 だが。

 さっきより、エレノアの動きは良くなっていた。

 相手を見る。

 相手が動く。

 その動きに合わせて、自分も動く。

 なるほど。

 人間も、少しは猫を見習ったほうがいいのかもしれない。

「クロ先生!」

 練習を終えたエレノアが、俺のところへ駆けてきた。

「明日もよろしくお願いいたします!」

「ニャ」

 魚を増やせ。

*

 その夜。

 使用人たちは厨房の隅で、小声で話していた。

「今日もお嬢様、猫様の後ろをずっと歩いていたわ」

「頭に本を載せて?」

「ええ」

「……大丈夫なのかしら」

「でも、最近のお嬢様、怒鳴らなくなったでしょう?」

「この前なんて、料理長に『ありがとう』って」

「リナの名前も覚えたし……」

 全員が黙った。

 一人のメイドが、声を潜めた。

「もしかして……あの猫様、本当にお嬢様を導いているんじゃない?」

「まさか」

「だって、鳴いてすらいないのよ」

「……え?」

「あの猫様、今日は何もしてないの。それなのに、お嬢様は勝手に何かを学んでいたわ」

 再び沈黙。

 年配の使用人が、ぽつりと言った。

「言葉など必要ない、ということかもしれんな」

「……御姿そのものが、教え……?」

 誰かが息を呑んだ。

*

 翌朝。

 俺の寝床には、干物が五匹置かれていた。

 増えた。

 教育というのも、悪くない仕事かもしれない。

*

「――毒が、効かなかった?」

 薄暗い部屋だった。

「はい」

「量を間違えたのでは?」

「いえ。娘は確かに茶へ入れたと」

「では、なぜ生きている」

「それが……」

 報告する男が、わずかに言葉をためらった。

「令嬢が最近、妙な猫を飼い始めたそうです」

「……猫?」

「白と黒の、ただの仔猫だそうですが」

 しばらく沈黙が続いた。

「猫など、どうでもいい」

 男は窓の外へ視線を向けた。

「次は、失敗するな」

「はい」

 そのころ。

 ただの仔猫は。

 干物の六匹目を要求していた。



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