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最強の猫先生は、罪を暴かない

 翌朝。

 ガシャン、と皿が割れる音がした。

「も、申し訳ございません!」

 床に膝をついたのは、昨日のメイドだった。

 顔が青い。

 指先が震えている。

 割れた皿を拾おうとして、また取り落とした。

「何をしているの――」

 エレノアの声が、いつもの調子で跳ね上がりかけた。

 そして、ちらりと俺を見た。

「ニャ」

 俺は鳴いただけだ。

 何も言っていない。

 本当に、何も言っていない。

 だがエレノアは、口を閉じた。

 ひと呼吸。

「……怪我は、ない?」

 メイドの手が止まった。

「え……」

「指。切っていないかと聞いているのよ」

「だ、大丈夫です……申し訳ございません……」

 メイドは破片をかき集めると、逃げるように部屋を出ていった。

 エレノアは小さく息を吐き、俺を見た。

「……今の、合っていた?」

「ニャ」

 まあまあだ。

「そう」

 エレノアは少しだけ、得意げな顔をした。

 俺は窓辺に戻り、丸くなった。

 ――さて。

 俺は知っている。

 昨日の紅茶に毒を入れたのが、あのメイドだということを。

 匂いで分かった。

 手の震えでも分かった。

 その気になれば、矛の力で心の奥の嘘まで貫き通せるだろう。

 だが、やらない。

 犯人を暴くのは、俺の仕事ではない。

 俺は猫だ。

 猫は、見ているだけだ。

 ……それに。

 あのメイドの震え方は、罪を隠す者のそれではない。

 罪に押し潰されかけている者のそれだった。

*

 午後。

 エレノアの部屋に、紅茶が運ばれてきた。

 運んできたのは、やはりあのメイドだった。

 トレイの上で、カップがカタカタと鳴っている。

「お、お紅茶を……お持ちしました……」

「ありがとう」

 エレノアは言った。

 昨日よりも、少しだけ自然な声で。

 練習したのだろう。

 昨夜、鏡の前で「ありがとう」を十回ほど繰り返していたのを、俺は知っている。

 その瞬間だった。

 メイドの膝が、崩れた。

 トレイが床に落ち、紅茶が絨毯に広がる。

「ちょっと、何を――」

「申し訳ございません!」

 メイドは床に額をこすりつけた。

「お嬢様、申し訳ございません……! 昨日の、昨日のお紅茶に……私……!」

 声が詰まる。

 肩が震える。

「……毒を、入れました」

 部屋が静まり返った。

 エレノアの顔から、表情が消えた。

「……毒?」

「はい……」

「私の紅茶に?」

「はい……」

「――っ!」

 エレノアが椅子を蹴って立ち上がった。

「衛兵を呼ぶわ! 公爵家の娘に毒を盛るなんて、あなた、自分が何をしたか分かって――」

 俺は窓辺から飛び降りた。

 エレノアとメイドの間に、音もなく着地する。

「クロ、どきなさい!」

「ニャ」

『人を見下すな』

 それだけだ。

 俺が言ったのは、それだけだった。

「……見下してなんか、いないわ」

 エレノアが言い返す。

「この女は、私を殺そうとしたのよ!」

「ニャ」

 俺は動かなかった。

 ただ、エレノアを見上げていた。

「…………」

 エレノアの視線が、俺から、床のメイドへと落ちた。

 しばらく、彼女は黙っていた。

 床に伏せたメイドの手は、荒れていた。

 ひびだらけの指。

 短く切った爪。

 継ぎの当たったエプロン。

 エレノアは、それをじっと見ていた。

 そして。

「……あなた」

 かすれた声だった。

「名前は?」

 メイドが顔を上げた。

「……リナ、です」

「リナ」

 エレノアは、その名を繰り返した。

「あなた、いつからこの屋敷にいるの」

「一年と……少し、です」

「……一年」

 エレノアは唇を噛んだ。

「一年も毎朝紅茶を運ばせておいて、私は名前も知らなかったのね」

 俺は何も言わなかった。

 言う必要がなかった。

 エレノアは、ゆっくりと椅子に座り直した。

「……なぜ、そんなことをしたの」

 責める声ではなかった。

 問う声だった。

 リナは、途切れ途切れに話し始めた。

 弟がいること。

 職人の見習いをしていたが、騙されて借金を背負わされたこと。

 期日までに払えなければ、腕を潰すと脅されていること。

 そこへ、フードを被った男が現れたこと。

「お嬢様が、少しの間お体を悪くされるだけの薬だと……そう言われて……金貨を……」

「……信じたの?」

「……信じたかった、です」

 リナは泣いていた。

「でも、入れてしまったあとで、怖くなって……お嬢様がカップに口をつけようとしたとき、心臓が止まるかと……」

「クロが止めたわ」

「……はい」

「そのあと、私はあなたに『ありがとう』と言った」

「…………っ」

 リナは両手で顔を覆った。

 エレノアは、長いこと黙っていた。

 やがて、独り言のように呟いた。

「……人には、それぞれ事情がある……」

 俺は耳を動かした。

 ……いや。

 俺はそこまで言っていないが。

「先生は、そうおっしゃりたかったのね」

「ニャ」

 違う。

 言いたかったのは「見下すな」だけだ。

 だがエレノアは、俺の返事を肯定と受け取ったらしい。

 深くうなずいている。

 ……まあいい。

 自分で辿り着いたのなら、それはこいつの答えだ。

 俺の矛は、答えを叩き込むものではない。

 扉を貫くだけだ。

 その先を歩くのは、本人の足だ。

「リナ」

 エレノアは背筋を伸ばした。

 最初の朝に俺が叩き込んだ、あの姿勢で。

「勘違いしないで。許したわけではないわ」

「……はい」

「あなたがしたことは、罪よ」

「……はい」

「だから、償いなさい」

 リナが顔を上げる。

「あなたに金貨を渡した男のことを、覚えている限り全部話しなさい。それから――」

 エレノアは、ふん、と鼻を鳴らした。

「弟の借金の証文も、持ってきなさい」

「え……?」

「公爵家の使用人の身内に手を出すような借金取りが、この先もまともに商売を続けられると思わないことね」

 ……ほう。

 高慢さは、まるで抜けていない。

 だが、向く方向が変わった。

 悪くない。

「お嬢様……」

「それと、このことはしばらく誰にも言わないこと。私を狙った者が、まだどこかにいるのだから」

「は、はい……!」

 リナは何度も頭を下げた。

 そして、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、ぽつりと言った。

「……どうして」

「何?」

「どうして、私なんかに……『ありがとう』なんて……」

 エレノアは少し考えた。

 それから、困ったように言った。

「だって……クロ先生が、そうしろとおっしゃったから」

 リナが、ゆっくりと俺を見た。

 俺は暖炉の前に移動していた。

 日が傾いて、ちょうどいい温かさだったのだ。

「ニャ」

 俺は一つ鳴いて、前脚に顎を乗せた。

 リナの唇が震えた。

「……聖獣様」

 違う。

 魚をくれる奴を、少し教育しているだけだ。

*

 その夜。

 リナは、エプロンのポケットから一枚の金貨を取り出した。

「お嬢様。男から受け取ったものです。使えなくて……ずっと持っていました」

 エレノアは金貨を受け取り、燭台の火にかざした。

 そして、息を呑んだ。

「……この紋章」

「ニャ?」

 俺は片目を開けた。

 エレノアは、それ以上何も言わなかった。

 ただ、金貨を握る手が、白くなるほど強張っていた。

*

 翌朝。

 使用人たちの休憩室で、ひそひそ声が交わされていた。

「ねえ、リナ。昨日お嬢様の部屋で泣いてたって本当?」

「……うん」

「やっぱり叱られたの?」

「ううん」

 リナは首を振った。

「名前を、呼んでくださったの」

「……は?」

「お嬢様が、私の名前を」

 休憩室が静まり返った。

「……あのお嬢様が?」

「使用人の名前なんて、一人も覚えていらっしゃらないと思ってた……」

「それだけじゃないわ」

 リナは声をひそめた。

「全部、あの猫様のお導きなの」

「猫様……?」

「お嬢様がおっしゃったの。クロ先生が、そうしろと言ったからって」

 誰かが、ごくりと唾を飲んだ。

「……やっぱり、あの猫、普通じゃないわよね」

「昨日は呪いかと思ったけど……」

「呪いで、お嬢様が使用人の名前を覚える?」

「…………」

「……あの猫には、何かある」

*

 同じ朝。

 俺が寝床にしている籠の前に、見慣れないものが置かれていた。

 小皿。

 その上に、干した小魚が三匹。

 誰が置いたのかは知らない。

 添えられた紙切れには、下手な字でこう書いてあった。

『聖獣さまへ ありがとうございました』

「…………」

 俺は小魚を一つくわえた。

 噛む。

 ……うまい。

 聖獣。

 悪くない響きだ。

 俺は二匹目に取りかかりながら、そう思った。


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