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最強の猫先生は、礼儀と毒を見逃さない

「……どうしてなのよ」

 朝食のあと、エレノアは鏡の前で腕を組んでいた。

「どうして、あの女ばかり褒められるの?」

 あの女。

 森で拾われた日にも聞いた。

「男爵家の娘よ? 平民上がりの。誰にでもにこにこして」

「身分も、教養も、家柄も、私のほうが上なのよ」

「なのに、皇太子殿下はあの女を褒めるし、周りもあの女を褒めるし」

「挙げ句の果てに、私を引き合いに出して、あの女を褒めるのよ!」

 聞いてもいないのに、全部説明してくれた。

「……許せないわ」

「ニャ」

 窓辺で寝そべっていた俺は、片目を開いた。

 また始まった。

 昨日は皇太子。

 今日は男爵令嬢。

 明日は誰だ。

 俺は猫だぞ。

 人間関係の愚痴を聞くために転生したわけではない。

「クロ。あなたもそう思うでしょう?」

「ニャ」

 思わん。

「そうよね。あの女が悪いのよ」

「ニャ」

 違う。

「身の程をわきまえず、皇太子殿下に近づいて……」

「ニャー」

 違うと言っている。

「私の婚約者なのに!」

 エレノアはクッションを叩いた。

 俺は大きく欠伸をした。

 ……やれやれ。

 この女、昨日のフォークの持ち方は多少マシになったが、頭の中はまるで成長していない。

 いや、待て。

 昨日の朝、何と言った?

『どうか私を、立派な淑女にしてください!』

 確かにそう言った。

 ならば、仕方がない。

 師匠として、少しくらいは面倒を見てやるか。

 俺は窓辺から飛び降りた。

「まあ、クロ。来てくれるの?」

 エレノアが笑顔になる。

「やっぱり、あなたも私の味方なのね!」

「ニャ」

 違う。

 俺はお前の味方ではない。

 お前の教育係だ。

 そして、昼飯の時間が近い。

*

 昼食の席には、エレノアと数人の使用人がいた。

「お嬢様、お紅茶をお持ちしました」

 若いメイドが、銀のトレイを差し出す。

「遅いわ」

「も、申し訳ございません」

「私がどれだけ待ったと思っているの?」

「申し訳ございません……」

 メイドはうつむいた。

 エレノアは紅茶を受け取ると、当然のように一口飲もうとした。

「ニャ」

 俺はテーブルに飛び乗った。

「何よ、クロ。今、お茶を飲むところなの」

「ニャ」

 飲むな。

「……?」

 エレノアが首を傾げる。

 だが、俺は紅茶ではなく、メイドを見ていた。

 彼女は緊張した様子で、トレイを胸元に抱えている。

 なるほど。

 そういうことか。

 紅茶から、微かに妙な匂いがする。

 人間には分からないだろう。

 だが、俺は神器だった。

 毒だろうが呪いだろうが、俺の前では意味をなさない。

 ……もっとも。

 俺が気にしているのは、そこではなかった。

「ニャー」

 エレノア。

「何よ?」

「ニャー」

 お前、今のメイドに礼を言ったか?

「は?」

「ニャー」

 紅茶を運んできた者がいる。

 お前のために働いた者がいる。

 それに対して、お前は何をした?

「……何を言っているの?」

「ニャーッ!」

 礼を言え。

 その一言が、エレノアの頭に突き刺さった。

「…………」

 彼女はメイドを見た。

 メイドは怯えたように肩をすくめる。

 エレノアの口が開きかけた。

 しかし。

「……仕事なのだから、当然でしょう?」

 俺は額を押さえた。

 肉球で。

 いや、額はないが。

 とにかく、そんな気分だった。

 仕事なら、礼はいらない。

 ……そういう理屈か。

 では、俺がこうして面倒を見てやっているのも、仕事か。

 ……まあ、魚はもらうが。

「ニャ」

 礼を言え。

 二度は言わん。

 ……もう二度言ったが。

「…………っ」

 エレノアの表情が強張った。

 目が、テーブルの上のフォークに落ちた。

 昨日の朝、勝手に持ち直してしまった、あのフォークだ。

「……私は」

 エレノアは唇を噛んだ。

「私は、公爵家の娘よ」

「ニャ」

 知っている。

「誰にでも頭を下げる必要なんてないわ」

「ニャー」

 頭を下げろと言っているのではない。

 礼を言えと言っている。

「…………」

 エレノアは、しばらく黙っていた。

 やがて。

「……紅茶をありがとう」

 小さな声だった。

 メイドが目を見開く。

「えっ……?」

「聞こえなかったの? ありがとうと言ったのよ」

「あ、ありがとうございます、お嬢様!」

 メイドは深々と頭を下げた。

 エレノアは少しだけ顔を赤くした。

「……別に、これくらい」

「ニャ」

 よろしい。

 俺は前脚で顔を洗った。

 さて。

 紅茶のほうはどうするか。

 俺はカップに近づいた。

 エレノアが怪訝そうに俺を見る。

「クロ?」

 俺はカップの縁に前脚をかけた。

 そして。

「ふぁ〜あ」

 欠伸をした。

 その瞬間。

 カップの中の紅茶が、かすかに光った。

 次いで、黒い煙のようなものが立ち上り――。

 パチンッ!

 何かが弾ける音がした。

「…………?」

 俺は毛づくろいを続けた。

 毒は消えた。

 正確には、毒を構成する成分も魔力も、俺の盾の権能によって弾き出されたのだ。

 毒だけを、綺麗に。

 もちろん、誰にも分からない。

 俺にも、わざわざ説明する気はない。

 腹が減っているのだ。

「……クロ?」

 エレノアがカップをのぞき込む。

「今、何か光らなかった?」

「ニャ」

 気のせいだ。

「そう……?」

 エレノアは首を傾げた。

 そして、紅茶を口元に運ぼうとした。

「ニャッ!」

 飲むな!

 ……いや、もう毒はないのだが。

 念のためだ。

 俺はカップを前脚で押しやった。

「ちょっと、クロ! 何をするの!」

「ニャー!」

 いいから飲むな!

 エレノアは怒った顔で俺を見つめていたが、やがて、ふと考え込んだ。

「……先生」

「ニャ?」

「もしかして……私が、何か間違えたの?」

「…………」

 俺は目を細めた。

 ようやく、少しは考えるようになったか。

 だが。

 まだまだだ。

 礼を一つ言ったくらいで、淑女になれるわけではない。

 直すところは、山ほどある。

 まずは、人を見下す癖だ。

 ……面倒だな。

 俺はエレノアを見上げた。

「ニャ」

 明日も指導だ。

「……はい、先生」

 エレノアは、真剣な顔でうなずいた。

 ……よし。

 これで一歩前進だ。

 その時だった。

「…………」

 メイドが、ぽかんとした顔で俺たちを見ていた。

 いや。

 メイドだけではない。

 給仕の者も、食器を片づけていた侍女も、全員がこちらを見ている。

 無理もない。

 公爵令嬢が、猫に向かって真剣に返事をしているのだから。

 しかも。

「先生、明日もよろしくお願いいたします」

「ニャ」

 俺は椅子の上で丸くなった。

 ……魚。

 魚が食いたい。

*

 その日の夕方。

 使用人たちの間で、ある噂が広がった。

「ねえ、聞いた?」

「何を?」

「お嬢様よ。あの、お嬢様が……」

「また何かあったの?」

「猫に頭を下げていたのよ」

「……は?」

「しかも、『はい、先生』って」

「…………」

「私、見たの。間違いないわ」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、一人が小声で言った。

「……追放の話が出てから、少しおかしくなられたのかしら」

「しっ。聞こえるわよ」

「でも、猫に向かってよ?」

「……まさか、呪いとか?」

「やめてよ。あの猫、普通じゃないわ」

 使用人たちは顔を見合わせた。

 その時。

 廊下の向こうから、エレノアの声が響いた。

「クロ先生! 明日の予定について、ご相談があります!」

 使用人たちは、一斉に口を閉じた。

 そして、誰からともなく胸の前で小さく印を切った。

 ……そのころ。

 当の猫は、暖炉の前で眠っていた。

 人間たちの噂など、知ったことではない。

 俺は最強の盾であり、最強の矛。

 帝国の歴史に名を残すことになる存在だ。

 ただし。

 今のところ、最大の懸念事項は一つ。

 ――この屋敷、魚が少ない。

 俺は尻尾を一度だけ振り、再び眠りに落ちた。



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