最強の猫先生は、作法を覚えない
帝国大舞踏会まで、あと八日。
朝食の席で、エレノアが言った。
「舞踏会には、クロ先生にもお越しいただきます」
家令の手が止まった。
リナの手も止まった。
俺は魚を食べていた。
止まらない。
「……お嬢様」
「何かしら」
「帝国大舞踏会に、猫を伴われた前例は……ございません」
「そう」
エレノアはナプキンで口元を拭った。
「では、作ればよいのです」
家令が天井を見上げた。
最近、よく見上げている。
俺は魚を食べ終えた。
勝手に決めるな。
……舞踏会に、魚は出るのか。
*
昼。
エレノアの部屋に、人間が集まっていた。
家令。
仕立屋。
手帳を構えたリナ。
そして、エレノア。
全員が、俺を見ている。
俺はクッションの上で、前脚を舐めていた。
「本日より」
エレノアが言った。
「クロ先生の、舞踏会作法のお稽古を始めます」
何だと。
稽古をつけるのは、俺のほうではなかったか。
「先生、お覚悟を」
覚悟などない。
リナが手帳をめくった。
新しい頁に、丁寧な字で書いてある。
『聖獣様 舞踏会作法 記録』
お前もか。
*
「まずは、お席でございます」
家令が、小さな台を運んできた。
金の縁取り。
赤い天鵞絨。
猫が一匹、ちょうど座れる大きさだ。
「会場では、こちらにお座りいただきます」
家令が、うやうやしく台を置いた。
俺は台を見た。
それから、台が入っていた箱を見た。
箱に入った。
「…………」
「…………」
ちょうどいい。
「……箱、ですわね」
エレノアが言った。
リナが書いた。
「お席、不成立。箱、成立」
成立とは何だ。
*
「次は、正装でございます」
仕立屋が、細長い箱を開けた。
中に、銀の細い首飾りが入っていた。
真ん中に、小さな鈴がついている。
嫌な予感がする。
「聖獣様の毛並みを引き立てるよう、細工師に急ぎ作らせました」
「素敵ですわ」
素敵ではない。
仕立屋が首飾りを持って、にじり寄ってきた。
俺は首を引いた。
首飾りは空を切った。
「……もう一度」
仕立屋が、また寄ってくる。
ちりん。
鈴が鳴った。
俺は前脚で首飾りを払った。
噛んだ。
落とした。
かしゃん。
部屋の隅で、控えていた使用人が小さく息を呑んだ。
「……落とされた」
「ご縁が……」
「しっ」
何のご縁だ。
首飾りのご縁か。
そんなものは最初からない。
「では、私が」
エレノアが、首飾りを拾った。
膝をつく。
下から。
指一本の角度で。
撫で方の稽古の成果が、こんなところで出ている。
やめろ。
「先生。少しだけ、失礼いたします」
首に、冷たいものが回った。
留め金の音がした。
ちりん。
俺が動くたびに鳴る。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
『ふざけるにゃ!』
…………。
……今のは違う。
部屋が、静かになった。
家令と仕立屋とリナには、俺が鳴いたようにしか聞こえていないらしい。
だが、エレノアだけが目を丸くしていた。
「……先生」
「…………」
「今、噛みました?」
『噛んでない』
「お嬢様?」
リナが首を傾げた。
「いいえ、何でも」
エレノアは、そっと首飾りを外した。
口元が、少しだけ震えていた。
笑うな。
*
「気を取り直しまして」
家令が咳払いをした。
「ご入場の作法でございます」
「ええ」
「会場へは、お嬢様のお腕にお乗りいただき、優雅に――」
腕。
その言葉を聞いた瞬間、俺は跳んだ。
「先生!?」
机の下。
カーテンの裏。
椅子の背。
本棚の上。
「聖獣様!」
「クロ先生、お待ちになって!」
「リナ、そちらへ!」
「はいっ!」
人間が三人、部屋の中を右往左往している。
仕立屋だけが、針山を抱えて動かない。
賢明だ。
俺は本棚の上で丸くなった。
ここなら届くまい。
「…………」
下で、人間たちが肩で息をしていた。
リナが、手帳に書いた。
「ご入場、逃走」
正しい記録だ。
仕立屋が、思い出したように口を開いた。
「そういえば、お嬢様。先日の飾り紐の件ですが」
「ええ」
「別のものを、ご用意いたします」
「そう。では、それで」
何の話だ。
*
「続いて、礼でございます」
俺が本棚から降りるのを待って、家令が言った。
待っていたわけではない。
腹が減っただけだ。
「私がお手本を」
エレノアが立ち上がった。
ドレスの裾をつまむ。
片足を引く。
背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと膝を折る。
完璧な淑女の礼だった。
家令が、小さくうなずいた。
仕立屋が、感嘆の息を漏らした。
「先生も、このように」
知らん。
俺は欠伸をした。
それから、前脚を前に伸ばした。
尻を上げる。
背中を反らす。
ぐうっと。
気持ちがいい。
「…………」
エレノアが息を呑んだ。
「……今のは、礼では?」
「いえ、お嬢様」
家令が静かに言った。
「おそらく、伸びかと」
リナが書いた。
「礼、判定保留」
保留にするな。
「……少し、休憩にしましょう」
エレノアが言った。
人間たちの顔が、疲れていた。
俺も疲れた。
部屋を出る。
*
廊下の小卓に、銀の盆があった。
平たい。
縁がある。
何も載っていない。
ちょうどいい。
俺は盆に乗って、丸くなった。
銀は冷たい。
だが、少し寝れば温まる。
足音がした。
「先生、こちらに――」
エレノアの声が、途中で止まった。
「……先生、そこはお手紙の盆ですわ」
知らん。
ちょうどいい広さだ。
「…………」
エレノアは、しばらく盆を見ていた。
盆と、その中の俺を。
「……まあ、いいわ」
小さく言った。
「今は、何も来ないもの」
足音が、遠ざかっていった。
俺は目を閉じた。
盆は、もう温まっていた。
*
夕方。
「これが、最後のお稽古です」
エレノアが言った。
全員が、真剣な顔をしていた。
家令が、皿を持ってきた。
魚だ。
焼いた魚。
いい匂いがする。
「聖獣様」
家令が、皿を俺の前に置いた。
「舞踏会の晩餐では、魚が出ましても、お嬢様の合図があるまでお待ちいただきます」
エレノアが、片手を軽く上げた。
「先生。……まだ、ですわよ」
全員が、固唾を呑んだ。
リナの鉛筆が、手帳の上で止まっている。
俺は魚を見た。
エレノアを見た。
魚を見た。
食べた。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
リナの鉛筆の音だけがした。
「魚、即時」
うまい。
*
エレノアは、リナの手帳を受け取った。
黙って、頁をめくる。
お席、不成立。
正装、不成立。
ご入場、逃走。
礼、判定保留。
魚、即時。
「…………」
エレノアは手帳を閉じた。
長い沈黙のあと、言った。
「……先生には、先生のお作法があるのですわ」
そうだ。
最初からそう言っている。
……言ってはいないが。
家令が、深く息をついた。
「聖獣様に、人の礼法を押しつけることこそ……無礼であったか……」
仕立屋が、目を伏せてうなずいた。
リナも、なぜか神妙な顔をしていた。
何なんだ、こいつらは。
「では、お嬢様」
家令が顔を上げた。
「ご入場は、いかがなさいます」
「決まっているでしょう」
エレノアが立ち上がった。
「私がお連れしますわ」
ひょい。
またか。
抵抗するのも面倒だ。
今日は、もう十分に逃げた。
俺はそのまま目を閉じた。
「…………」
家令が、しみじみと言った。
「……お嬢様のお腕ならば、お許しになるのですね」
違う。
諦めただけだ。
*
その週のうちに、帝都のある茶会で、こんな話が出た。
「お聞きになりまして? 公爵家では、猫をどうやって舞踏会へ連れていくか、ご相談なさっているとか」
「猫を? 舞踏会に?」
「例の……ほら、聖獣様と呼ばれている」
「まあ。では、聖獣様が舞踏会に?」
「お出ましになる、ということかしら」
「帝国大舞踏会に、聖獣様が……」
誰かが、扇の陰で囁いた。
「御臨席、なさるのね」
話はそこで、別の話題へ移っていった。
ただ、その言葉だけが、いくつかの屋敷へ持ち帰られた。
*
夜。
机の上に、細長い箱が置きっぱなしになっていた。
昼間の、首飾りの箱だ。
首飾りは、もう入っていない。
人間たちは「聖獣様の正装用首飾りの箱」と呼んでいた。
知らん。
俺は箱に入った。
狭い。
ちょうどいい。
今は、俺の箱だ。
八日後、舞踏会らしい。
知らん。
魚は出るのか。




