最強の猫先生は、何もしていない
朝。
廊下を歩いていると、見覚えのある銀の盆があった。
数日前、俺が寝た盆だ。
今日は入れない。
一通、手紙が載っている。
「殿下からですわ」
後ろからエレノアの声がした。
俺は盆を諦めた。
エレノアが封を切る。
短い手紙だったらしい。
目を通し、リナへ渡した。
「舞踏会のエスコートをしてくださるそうよ」
「皇太子殿下が」
「ええ」
それだけ言って、エレノアは歩きだした。
リナが慌てて後を追う。
俺も追う。
朝食がまだだ。
*
夜。
帝国大舞踏会。
らしい。
俺にはよく分からん。
でかい建物だ。
人間が多い。
灯りが多い。
匂いも多い。
そして。
魚の匂いがする。
悪くない。
「エレノア」
男が立っていた。
年はエレノアより少し上だろう。
金の刺繍が入った正装。
胸元には、いくつも飾りがある。
こいつが皇太子らしい。
「殿下」
エレノアが礼をした。
静かだった。
頭を下げすぎない。
上げすぎない。
ドレスの裾をつまむ指も、肩も、背中も、妙な力が入っていない。
地味なドレスだ。
飾りも少ない。
毛織物。
あの仕立屋が作ったものだ。
皇太子が、一瞬エレノアを見た。
「……その衣装は」
「お気に召しませんか?」
「いや」
皇太子は少し間を置いた。
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
エレノアは、それだけ答えた。
俺は抱かれていた。
なぜだ。
「それで」
皇太子が俺を見た。
「その猫も連れていくのか?」
「クロ先生ですわ」
「……そうだったな」
何だ、その間は。
エレノアが皇太子の腕を取った。
俺は反対側の腕にいる。
これで入るらしい。
俺は魚の匂いがする方向を見た。
扉が開いた。
*
妙に静かになった。
広間には、大勢の人間がいる。
全員、こっちを見ていた。
皇太子を見る。
エレノアを見る。
俺を見る。
またエレノアを見る。
そして。
俺を見る。
何だ。
魚か?
「……あれが」
「聖獣様……?」
「本当に猫なのね」
「声が大きいわ」
「でも、もっとこう……」
「光っているのかと思っていた」
光らん。
「ずいぶん小さくていらっしゃるのね」
仔猫だからな。
「殿下より先に聖獣様を見てしまったわ」
「おやめなさい」
皇太子の眉が、少し動いた。
エレノアは前を見ている。
歩幅は一定。
誰かとすれ違えば、わずかに身体をずらす。
呼びかけられれば足を止める。
「エレノア様」
「ごきげんよう」
「まあ、そのドレス……」
「仕立屋に無理を言いましたの」
「ずいぶん控えめですのね」
「そうかしら」
「でも……」
女が首を傾げた。
「妙に、目が行きますわ」
「ありがとう」
エレノアは笑った。
相手も笑った。
それで終わった。
俺は欠伸をした。
*
音楽が始まった。
人間たちが踊り始める。
俺は壁際の椅子に置かれた。
専用の台ではない。
普通の椅子だ。
よし。
これなら座ってやる。
エレノアと皇太子が、広間へ出た。
向かい合う。
礼。
手を取る。
音楽。
皇太子が動く。
エレノアが動く。
今度は、止まらない。
皇太子の手が動けば、そのあとにエレノアが動く。
皇太子が歩幅を変えれば、エレノアも変える。
くるりと回る。
裾が広がる。
戻る。
また進む。
俺は前脚を舐めた。
踊れるではないか。
あれだけ俺を抱えて部屋を回る必要が、どこにあった。
「……変わられたわね」
近くで誰かが言った。
「ええ」
「前は、もっと……」
「しっ」
「でも、あのドレス」
「不思議ね。飾りは少ないのに」
「姿勢かしら」
「分からないわ」
知らん。
俺にも分からん。
魚はどこだ。
*
踊りが終わった。
拍手。
エレノアが戻ってきた。
「先生」
「ニャ」
「いかがでした?」
知らん。
俺は椅子から降りた。
「あっ」
テーブルの下を抜ける。
魚だ。
向こうにある。
「先生!」
あとで行く。
「クロ先生!」
うるさい。
今、重要なところだ。
*
魚にはたどり着けなかった。
途中でエレノアに捕まった。
「もう。勝手に歩いてはいけませんわ」
俺は猫だ。
「踏まれたらどうするのです」
弾く。
たぶん。
エレノアは俺を抱き直した。
その時だった。
「あ」
声がした。
聞き覚えがある。
「エレノア様!」
エレノアの腕が、ほんの少し固くなった。
栗色の髪。
あの女だ。
今日は継ぎの当たった袖ではない。
ちゃんとしたドレスを着ている。
だが、周囲の女たちに比べれば、ずいぶん簡素だ。
「ごきげんよう」
エレノアが言った。
「ごきげんよう!」
元気だな。
「今日は――」
女が何か言いかけた。
「君も来ていたんだね」
皇太子だった。
「あ、殿下」
女が振り返る。
皇太子の顔が、少し明るくなった。
「先ほど探したんだ」
「すみません。人が多くて、どちらに行けばいいのか分からなくなってしまって」
「君らしいな」
皇太子が笑った。
女も笑った。
「こちらへ。紹介したい者がいる」
「はい」
皇太子が歩きだす。
女も、その隣へ行く。
途中で振り返った。
「エレノア様、またあとで!」
手を振る。
エレノアは振らなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
二人が離れていく。
エレノアは、それを見ていた。
「…………」
腕に、少し力が入る。
だが。
背筋は伸びている。
顎も上がっていない。
俯いてもいない。
そういえば。
エレノアは、辛いときほど背筋を伸ばす。
それを、俺は知っている。
なぜ知っているのかは知らん。
俺は尻尾を一度振った。
「……先生?」
何でもない。
今のは、尻尾だ。
*
その後も、エレノアには人が寄ってきた。
「先ほどのダンス、素敵でしたわ」
「ありがとう」
「その生地、どちらのものですの?」
「いつもの仕立屋よ」
「聖獣様に触れても?」
「駄目です」
そこは即答するのか。
「では、お魚を差し上げても?」
「先生。どうなさいます?」
「ニャ」
「よろしいそうです」
分かってきたではないか。
皿が一つ増えた。
悪くない。
俺が魚を食べている間にも、人間は寄ってくる。
以前のエレノアを知っているらしい者。
知らない者。
俺を見に来ただけの者。
色々だ。
エレノアは、誰に対しても同じように話していた。
俺は魚を食べた。
うまい。
「聖獣様が、お認めになった……」
何をだ。
「公爵令嬢も、ずいぶん落ち着かれて」
「やはり、お導きが……」
魚を食べているだけだ。
「見守っていらっしゃるのね」
魚を見ている。
お前たちは何を見ている。
*
「エレノア様!」
また来た。
あの女だ。
今度は一人だった。
「先ほどは、すみませんでした」
「別に」
「それより」
女がエレノアを上から下まで見た。
エレノアの眉が、ほんの少し動く。
「……何かしら」
「そのドレス、とてもお似合いです!」
「…………」
「すごく素敵です。飾りが少ないのに、エレノア様が着ると、何というか……」
女が困った顔をした。
「ちゃんとして見えます!」
褒めるのが下手だな。
「……それは、褒めているの?」
「はい!」
即答した。
エレノアは女を見た。
しばらく見た。
「そう」
それだけだった。
怒らない。
嫌味とも言わない。
「ありがとう」
女の顔が明るくなった。
「はい!」
なぜお前が礼を受けて嬉しそうなんだ。
「あっ」
女が俺を見た。
「クロちゃんも今日はおめかし――」
俺を見る。
首を見る。
何もない。
「……してませんね」
そうだ。
あんな鈴は二度と御免だ。
「先生には、先生のお作法がありますの」
エレノアが言った。
「なるほど!」
納得するな。
「でも、可愛いです」
女がしゃがんだ。
手を出さない。
待つ。
相変わらず、そこだけは分かっている。
俺は一歩近づいた。
「先生」
エレノアの声。
何だ。
「今は駄目ですわ」
なぜだ。
「……駄目です」
何がだ。
女が笑った。
「また今度ですね」
何だと。
俺の耳の後ろはどうなる。
「では、エレノア様。また」
「ええ」
女が離れていく。
エレノアは追い払わなかった。
呼び止めもしなかった。
ただ、その背中を少しだけ見ていた。
俺も見た。
耳の後ろを掻け。
*
夜会は続いた。
人間は踊る。
話す。
笑う。
俺は途中で飽きた。
エレノアの腕の中で寝た。
たまに目を開けると、誰かがこっちを見ている。
「まあ……」
「聖獣様が、お嬢様のお腕で……」
「なんと穏やかな……」
眠いだけだ。
「やはり、お二人には特別な絆が……」
そういうのではない。
暖かいだけだ。
「聖獣様のお導きがあればこそ……」
俺は目を閉じた。
今日は何もしていないぞ、俺。
*
帰りの馬車。
俺はエレノアの膝の上にいた。
静かだ。
車輪の音だけがする。
エレノアは窓の外を見ていた。
しばらくして、口を開いた。
「先生」
「ニャ」
「私……」
止まる。
また外を見る。
「……何だか、思っていたのと違いますわ」
何がだ。
「あの方に会って」
あの女か。
「もっと、こう……」
エレノアは眉間に皺を寄せた。
「悔しそうな顔をすると思っていましたの」
性格が悪いな。
「なのに、ドレスを褒められて」
そうだな。
「殿下は、あちらへ行ってしまわれましたし」
そうだな。
「でも、皆様とは普通にお話しできましたし」
そうだな。
「ダンスも、失敗しませんでしたし」
そうだな。
「先生も、お魚を三皿も召し上がりましたし」
そうだ。
そこは重要だ。
「…………」
エレノアは、また黙った。
俺の背中を一度撫でる。
「……何だったのでしょう」
知らん。
俺は魚を食べて、寝ていただけだ。
「先生」
「ニャ」
「次は、もっと上手くやりますわ」
何をだ。
エレノアは窓の外を見たまま、少し笑った。
意味が分からん。
まあいい。
俺は膝の上で丸くなった。
何もしていないぞ、俺。




