最強の猫先生は、太っていない
舞踏会から、五日が経った。
屋敷は静かになった。
魚は、変わらず出る。
良いことだ。
「先生、お庭へ参りましょう」
エレノアが俺を抱き上げた。
ひょい。
……途中で止まった。
「…………」
エレノアが俺を下ろした。
もう一度、抱き上げる。
また止まる。
「……先生?」
何だ。
エレノアは俺を抱えたまま、リナを見た。
「リナ。少し、持ってみて」
「はい」
リナが俺を受け取った。
腕が、ほんの少し沈んだ。
「…………」
「…………」
二人が顔を見合わせた。
何だ、その顔は。
俺は太っていない。
*
昼過ぎ、屋敷に知らない人間が来た。
小柄な男だった。
鞄を一つ提げている。
薬草の匂いと、犬の匂いと、よその猫の匂いがする。
「獣医でございます」
家令が紹介した。
男が俺を見た。
屋敷の人間が、俺を見るときの顔ではなかった。
ありがたがってもいない。
怖がってもいない。
普通の顔だ。
……こいつは、話が分かるかもしれん。
「失礼」
男は俺を持ち上げ、腹を触った。
背中を触った。
脇腹をつまんだ。
つまむな。
「ふむ」
「いかがですの」
エレノアが身を乗り出した。
「少々、太りすぎですね」
違う。
「……聖獣様ですのよ」
「猫ですから」
男は、俺を台の上に戻した。
「太れば、太ります」
部屋が静かになった。
家令が咳払いをした。
「しかし、聖獣様の御体格は、神々しさの表れと……」
「脂肪です」
家令が黙った。
エレノアが、俺を見た。
おい。
なぜ俺を見る。
……確かに、最近は魚が多かった。
大きかった。
質も良かった。
舞踏会では、三皿食べた。
絶対の盾でも、カロリーは弾けなかった。
「一日の魚を減らしてください。それと、少し運動を」
前言撤回だ。
こいつは敵だ。
*
獣医が帰ったあと、エレノアはしばらく黙っていた。
それから、立ち上がった。
「決めましたわ」
嫌な予感がする。
「先生を、帝国一健康な聖獣にいたします」
やめろ。
「今度こそ、上手くやりますわ」
上手くやるとは、これか。
*
翌朝。
「本日の先生のお魚は、これだけです」
皿の上に、魚が一匹。
小さい。
昨日の半分もない。
「…………」
俺はエレノアを見た。
エレノアは、目を逸らさなかった。
強くなったものだ。
余計なところで。
リナが手帳を開いた。
新しい頁に、丁寧な字で書いてある。
『聖獣様 お体重 記録』
今度はそれか。
「本日、朝。……重め」
重めとは何だ。
*
昼は、運動だった。
エレノアが、細い棒を持ってきた。
先に、羽根がついている。
「猫じゃらし、というものだそうです」
知っている。
俺は、かつて矛だった。
盾だった。
羽根ごときに――
エレノアが棒を振った。
羽根が揺れる。
左。
右。
左。
右。
前脚が出た。
今のは違う。
「先生!」
違う。
また揺れる。
出た。
違う。
跳んだ。
違う。
「素晴らしいですわ、先生!」
違うと言っている。
リナが書いた。
「運動、成立」
成立するな。
*
三日目の夕方。
俺は廊下を歩いていた。
腹が減った。
一匹は、少ない。
小さい一匹は、もっと少ない。
「……聖獣様」
柱の陰から、声がした。
若い使用人が、こちらを窺っていた。
手に、小さな包みを持っている。
魚の匂いがする。
「こちらを。……お嬢様には、ご内密に」
ほう。
お前は見込みがある。
俺は食べた。
うまい。
*
翌日。
厨房の裏口を通りかかると、年配の使用人が立っていた。
皿を一枚、持っている。
「聖獣様」
皿を、俺の前に置いた。
「これは、お食事ではございません」
深々と頭を下げる。
「お供えでございます」
なるほど。
ならば仕方ない。
俺は食べた。
信仰は大事だ。
*
五日目には、分かってきた。
昼の鐘のあとに厨房の裏口へ行けば、誰かがいる。
夕方、洗濯場の角へ行けば、誰かがいる。
庭師の小屋の前にも、たまにいる。
俺は、巡回を始めた。
今日は誰だ。
洗濯場へ向かう途中、廊下の小卓の前を通る。
銀の盆に、手紙が一通載っていた。
魚ではない。
通り過ぎる。
*
夜。
エレノアは机に向かっていた。
手紙が一通、開いてある。
昼間、盆に載っていたものだ。
字は読める。
読む気はない。
だが、少し曲がっているのは分かる。
「……あの方からですわ」
誰に言うでもなく、エレノアが言った。
「先日は、ありがとうございました、ですって」
そうか。
「またあとで、と申し上げたのに、お話しできなくてすみません、と」
そうか。
「それから」
エレノアが、最後の行を指でなぞった。
「……『クロちゃんにも、よろしくお伝えください』」
なら魚を寄越せ。
エレノアは、便箋を一枚取った。
ペンを持つ。
書く。
迷いがない。
『先日の舞踏会におきましては、ご丁寧なるご挨拶を賜り――』
報告書か。
エレノアの手が止まった。
読み返す。
眉が寄る。
くしゃ。
二枚目。
『お手紙は受け取りました。字は、もう少しお練習なさいませ――』
偉そうだな。
くしゃ。
三枚目。
ペン先が、しばらく紙の上で止まっていた。
やがて、短く書いた。
『こちらこそ、ありがとう。』
それだけだ。
エレノアは、じっとそれを見ていた。
ペンを持ったまま。
続きは書かない。
破りもしない。
変な顔をしている。
俺は机に跳び乗った。
巡回帰りで、少し眠い。
紙の上に座った。
「あっ」
書けないなら、どけ。
ここは暖かい。
「先生、そこは……」
エレノアが、俺をどかそうと顔を近づけた。
止まった。
「……先生」
何だ。
「お魚の匂いがしますわ」
……何のことだ。
「今日のお魚は、朝の一匹だけのはずですわね」
知らん。
「…………」
エレノアの目が、細くなった。
俺は目を閉じた。
寝ている。
俺は今、寝ている。
*
翌日。
昼の鐘が鳴った。
厨房の裏口へ行く。
いた。
若い使用人だ。
包みを持っている。
「聖獣様、本日は――」
「何をしていますの」
後ろから声がした。
使用人が飛び上がった。
俺も、少し飛び上がった。
エレノアが立っていた。
後ろに、手帳を構えたリナ。
どこにいた。
「お、お嬢様……」
「何を、していますの」
「お、お供えを……」
「お供え」
「はい。お食事ではなく、お供えで……」
「先生のお腹に入った時点で、お食事ですわ」
何を言っている。
信仰だ。
リナが手帳をめくった。
「昼の鐘のあと、厨房の裏口。夕刻、洗濯場の角。……以上、二箇所でございます」
「二箇所も……」
三箇所だ。
言わんが。
*
その日の夕方、使用人たちが並べられた。
若い使用人。
年配の使用人。
洗濯場の女中。
全員、うなだれている。
「今後」
エレノアが言った。
「先生へのお供えは、すべて私を通すこと」
「……はい」
全員が頭を下げた。
お前を通したら、減るだろう。
リナが書いた。
「お供え、不成立」
不成立にするな。
*
夜。
皿の上に、魚が一匹。
今日も小さい。
俺はそれを食べた。
すぐに終わった。
今日の魚は、一匹だった。
……小さい。
明日は、庭師の小屋だ。




