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最強の猫先生は、聖獣ではない

昼前。

 俺は庭師の小屋にいた。

 理由は簡単だ。

 魚である。

「聖獣様。今日は、こちらを」

 庭師の男が、小さな皿を俺の前に置いた。

 焼いた白身魚。

 昨日より少し大きい。

 見込みがある。

 俺は一口かじった。

 うまい。

「本当は、お嬢様を通さないといけないんですが……」

 庭師が辺りを見回す。

「これくらいなら……」

 そうだ。

 信仰には、多少の自由が必要だ。

 俺は二口目を食べた。

 その時だった。

「――先生?」

 聞き覚えのある声がした。

 俺は止まった。

 庭師も止まった。

 振り返る。

 小屋の入口に、エレノアが立っていた。

 その後ろに、リナ。

 さらに、その後ろに。

 知らない男がいた。

 黒い法衣。

 胸元に、小さな銀の印。

 細身で、年はまだ若い。

 手には革張りの手帳を持っている。

「…………」

「…………」

 庭師が青ざめた。

 俺は魚をくわえたまま、男を見た。

 誰だ。

「……なるほど」

 男が呟いた。

 何がだ。

「先生」

 エレノアが、俺の前の皿を見た。

「……屋敷中、お探ししましたのよ」

 それはご苦労だった。

 エレノアは、それから庭師を見る。

「これは、何ですの」

「お、お嬢様……これは、その……」

 庭師の額から汗が流れた。

「お供え、でございます」

 そうだ。

 お供えだ。

 食事ではない。

 信仰だ。

 俺は残りの魚を食べた。

「あっ」

 エレノアが声を上げた。

 遅い。

 もうない。

 教会の男が、手帳を開いた。

 さらさらと何かを書く。

 何を書いている。

 その隣で。

 リナも手帳を開いた。

 さらさらと何かを書く。

「……三箇所目」

 ばれた。

 リナが俺を見た。

 エレノアも俺を見た。

 庭師は地面を見ている。

 教会の男だけが、何か納得したような顔をしていた。

 第一印象は、最悪だ。

*

 屋敷へ戻った。

 応接室。

 俺は長椅子の端に座っていた。

 エレノアは、その隣。

 向かいに教会の男が座っている。

「改めまして」

 男が頭を下げた。

「私は教会より、確認のため参りました」

「確認?」

「はい。近頃、妙な噂がございまして」

 男が俺を見る。

「公爵令嬢と、一匹の猫についてです」

 猫だ。

 そこは合っている。

「帝都でも少々、噂が広がっております。お嬢様を導き、屋敷の者から敬われ、先日の舞踏会にも同席されたとか」

「その通りですわ!」

 エレノアが身を乗り出した。

 嬉しそうだ。

「クロ先生は、本当に素晴らしいお方なのです!」

 お方ではない。

 猫だ。

 男が手帳を開いた。

 また書く。

 だから何を書いている。

「では、少しお聞かせいただけますか」

「もちろんですわ」

「クロ様は、これまで、どのような奇跡を?」

「…………」

 エレノアが止まった。

 何だ。

 さっきまでの勢いはどうした。

「奇跡、ですか?」

「はい」

「先生の?」

「はい」

 エレノアが俺を見る。

 俺も見る。

 奇跡。

 何かあったか。

 石を割ったことはある。

 狼も吹き飛ばした。

 毒も弾いた。

 だが、こいつはどこまで知っていたか。

「先生は――」

 エレノアが口を開いた。

 男がペンを構える。

「……お魚がお好きですわ」

 男のペンが止まった。

 俺も止まった。

「魚、ですか」

「はい」

 それはそうだ。

 だが今、それを聞かれているのか。

「特に焼いたものがお好きです。味付けは薄いほうがよろしいようで」

 詳しく言うな。

「それから、耳の後ろを撫でられるのがお好きです」

 それはいい。

「顎の下も」

 それもいい。

「ですが、お腹はあまり触らせてくださいません」

 やめろ。

 男が黙って書く。

 書くな。

「ほかには?」

「そうですわね……」

 エレノアが考える。

 やめろ。

 もう十分だ。

「ああ。猫じゃらしにも、お飛びつきになります」

 待て。

「とても楽しそうに」

 違う。

 あれは運動だ。

 仕方なくやった。

「それと先日、獣医の方には、少々太りすぎだと――」

「ニャッ!」

 やめろ!

 男が顔を上げた。

「……今、何か」

「先生がお怒りですわ」

 分かるなら言うな。

「失礼しました」

 男が俺に頭を下げた。

 そして、少し考えてからエレノアを見る。

「……ずいぶん、お詳しいのですね」

「当然ですわ」

 エレノアは、きょとんとした。

「先生ですもの」

「…………」

 男が、また何か書いた。

 何だ。

 今度は何を書いた。

*

「では」

 男は手帳を閉じなかった。

「もう一つ、お聞かせください」

「何でしょう」

「クロ様が、お嬢様をお導きになったという噂についてです」

 エレノアの顔が変わった。

 さっきまでとは違う。

 少しだけ、真面目な顔になった。

「それは、本当ですわ」

 即答だった。

 男のペンが動く。

「先生がいらっしゃらなければ、今の私はありません」

 大げさだ。

「礼儀も」

 最初は酷かった。

「人との接し方も」

 それも酷かった。

「人を見るということも」

「全部、先生が教えてくださいました」

 全部ではない。

 俺は窓から差す光の中へ移動した。

 暖かい。

「具体的には、どのように?」

「それは――」

 エレノアが言いかけた。

 止まった。

 俺を見る。

 俺は前脚を舐めた。

 毛が少し乱れている。

 舐める。

 顔をこする。

「…………」

 何だ。

「お嬢様?」

「いえ」

 エレノアが首を振った。

「先生は……」

 また止まる。

 俺はもう一度、前脚を舐めた。

 眠くなってきた。

「……先生は、その……先生、ですわ」

 何だそれは。

 男も少し困った顔をした。

 だが、何も言わなかった。

 手帳に、一行だけ何かを書いた。

 俺は目を閉じた。

*

「本日は、ありがとうございました」

 しばらくして、男が立ち上がった。

「もうよろしいのですか?」

「はい。十分、お話を伺えました」

 本当か。

 ほとんど魚の話だったぞ。

「それと」

 男が持ってきた鞄を開いた。

「これは教会から。ささやかなものですが」

 包みが出てきた。

 俺は目を開けた。

 魚。

 間違いない。

 魚の匂いだ。

 俺は立った。

「まあ」

 エレノアも立った。

「先生へのお供えですか?」

「はい。何がお好みか分かりませんでしたので――」

 魚だ。

 分かっているじゃないか。

 俺は机へ跳び乗った。

「お待ちください」

 エレノアが包みを取った。

 おい。

「先生へのお供えは、すべて私を通していただきます」

 男の手が止まった。

「……あなたを、通して?」

「はい」

 エレノアが当然のようにうなずく。

「先生は現在、食事を制限されていますので」

 言うな。

「先ほど申し上げた獣医の方から、一日の魚を減らすようにと」

 言うな。

「ですから、お供えも私が管理しております」

「…………」

 男がエレノアを見る。

 次に俺を見る。

 そして。

「……なるほど」

 手帳を開いた。

 何がだ。

 また書く。

 何を書いている。

「それは大切なことですね」

「ええ。先生の健康のためですもの」

 違う。

 健康だろうが何だろうが、魚は食える。

 包みから、いい匂いがする。

 大きい。

 たぶん、大きい魚だ。

 返せ。

*

 玄関まで見送った。

「本日はありがとうございました」

 男が頭を下げる。

「確認した内容は、教会へ報告いたします」

 エレノアが少し得意そうな顔をした。

「では、クロ先生が聖獣だと、お分かりになりまして?」

「…………」

 男が困ったように笑った。

「申し訳ございません。私には、その判断をする権限がございません」

「そうですの」

 エレノアが少し残念そうにした。

 当然だ。

 判断するまでもない。

 俺は猫だ。

「ですが」

 男が俺を見た。

 何だ。

「…………」

 しばらく見ている。

 何だ。

「……いえ」

 何なんだ。

 男はもう一度頭を下げ、馬車へ向かった。

 最後まで、よく分からない奴だった。

*

 夕方。

 俺は食堂にいた。

 エレノアもいる。

 机の上には、教会から届いた包み。

 まだ開けていない。

 俺は包みを見る。

 エレノアを見る。

 もう一度、包みを見る。

「駄目です」

 まだ何も言っていない。

「先生」

 エレノアが包みを持ち上げた。

「これは、明日の分です」

 ……。

 俺は包みを見る。

 魚。

 大きい。

 たぶん。

 教会の奴は、魚を持ってきた。

 悪い奴ではない。

「今日は、こちらです」

 皿が置かれた。

 魚が一匹。

 小さい。

「…………」

「先生のためですわ」

 俺は小さい魚を見た。

 エレノアを見た。

 閉じられた包みを見た。

 やはり。

 教会など、ろくなものではない。



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