最強の猫先生は、取り合われる
昼下がり。
俺は窓辺にいた。
日が当たる。
腹は減っている。
昼の魚は、一匹だった。
小さい。
いつものことだ。
エレノアは机に向かって、本を読んでいた。
扉が叩かれた。
「お嬢様」
リナだった。
妙な顔をしている。
「お客様がお見えです」
「どなた?」
「それが……」
リナが一度、言葉を切った。
「男爵家の、お嬢様が」
「……え?」
エレノアの手が止まった。
それから。
机の引き出しを見た。
少しだけ開ける。
中を見る。
閉める。
何だ。
俺の位置からは見えん。
「……お通しして」
*
「エレノア様!」
あの女が入ってきた。
元気だな。
「こんにちは! あの、急にすみません」
「……ええ」
「お返事がなかったので、来ちゃいました!」
エレノアが固まった。
リナも固まった。
俺は欠伸をした。
来ちゃったのか。
「これ、お菓子です!」
女が小さな籠を差し出した。
「うちの近くのお店の焼き菓子で。一緒に食べられたらと思って」
甘い匂いがする。
どうでもいい。
「それと」
女が、もう一つ小さな包みを出した。
「こっちは、クロちゃんに」
魚の匂いがする。
干物だ。
そっちだけ寄越せ。
俺は窓辺から降りた。
「お待ちください」
エレノアが包みを取った。
またか。
「先生へのお供えは、すべて私を通していただきます」
「お供え?」
女が首を傾げた。
「……干物ですよ?」
そうだ。
干物だ。
お前はよく分かっている。
「ええ。ですから、私を通していただきます」
「はあ……」
女は分かっていない顔で、うなずいた。
俺も分からん。
女が俺を見た。
しゃがんで、じっと見た。
「クロちゃん、ちょっと丸くなりました?」
「失礼ですわ!」
エレノアが即答した。
「神々しい体格になられただけです!」
お前が一番言っていたぞ。
*
茶が運ばれてきた。
焼き菓子が皿に並ぶ。
エレノアと女が、向かい合って座った。
俺は長椅子の端にいる。
干物は、エレノアの横に置かれている。
遠い。
「本日は、ようこそお越しくださいました」
エレノアが言った。
背筋が伸びている。
客を迎えるときの声だ。
「お日柄もよく、このたびは――」
報告書か。
「あ、はい! いいお天気ですね!」
女が焼き菓子を一つ取った。
「これ、おいしいんですよ。エレノア様もどうぞ」
「……いただきます」
エレノアが一つ取る。
小さくかじる。
「…………」
「どうですか?」
「……甘いですわね」
「甘いお菓子ですから!」
会話になっているのか、これは。
女は、よく喋った。
舞踏会で、迷子になったこと。
殿下に紹介された人の名前を、三人とも忘れたこと。
帰りの馬車で、靴が片方なかったこと。
エレノアは、ほとんど「そう」と「ええ」しか言わなかった。
だが、追い出しもしなかった。
俺は干物を見ていた。
しばらくして、女が焼き菓子を置いた。
「あの」
声が、少し小さくなった。
「私、この前のお手紙で、何か失礼なことを書いちゃったかなって……」
エレノアの手が止まった。
「お返事がなかったので。字も汚いし、変なことを書いたのかなって、ずっと気になってて」
「…………」
エレノアは、女を見た。
しばらく見た。
「……返事がないと、気になりますの?」
「気になりますよ?」
女は、当たり前のように言った。
「……そう」
エレノアは、それだけ言った。
茶を一口飲む。
カップを置く。
置いたまま、しばらく手を離さなかった。
干物は、まだか。
*
「あ、そうだ」
女が、ふと長椅子のほうを見た。
立ち上がる。
俺の前まで来て、しゃがむ。
手を出さない。
呼ばない。
待つ。
……分かっているな。
「クロちゃん。この前の、また今度」
耳の後ろか。
俺は長椅子から降りた。
「先生」
エレノアの声がした。
何だ。
「クロちゃん」
だから何だ。
俺は二人を見た。
エレノア。
あの女。
エレノア。
……耳の後ろだ。
俺は女のほうへ歩いた。
「…………」
後ろで、エレノアが黙った。
止めない。
止めないのか。
女の指が、耳の後ろに来た。
かり。
……そこだ。
「やっぱり、ここ好きなんですねえ」
うむ。
「……先生」
何だ。
「ずいぶん、気持ちよさそうですわね」
うむ。
かり。
かり。
「…………」
エレノアの声が、少し低かった。
知らん。
今は耳の後ろだ。
*
日が傾いたころ、女は帰ることになった。
「今日は、ありがとうございました!」
玄関で、女が頭を下げた。
「急に来ちゃって、すみません」
「……次は」
エレノアが言った。
女が顔を上げる。
「次は、先に知らせてくださいまし」
女が、目を丸くした。
それから、笑った。
「はい!」
来るなとは、言わないのか。
女が馬車に乗り込む。
窓から手を振る。
エレノアは振らなかった。
馬車が見えなくなってから、屋敷へ戻った。
*
夜。
エレノアは机に向かっていた。
引き出しを開ける。
紙を一枚、取り出した。
俺は机に跳び乗った。
紙を見る。
見覚えがある。
俺が座った紙だ。
暖かかった紙だ。
まだあったのか。
エレノアは、その紙をしばらく見ていた。
それから、ペンを取った。
何か書く。
俺は見ていなかった。
棚の上に、干物の包みがある。
あれは、いつ俺のものになる。
「……先生」
エレノアが、紙から目を上げずに言った。
「明日の干物は、半分ですわ」
何の話だ。
「半分です」
待て。




