最強の猫先生は、調べない
紙が多い。
俺は紙が嫌いではない。
暖かい机の上にあれば、寝床になる。
丸めてあれば、転がせる。
端が少し浮いていれば、爪を引っかけることもできる。
だが。
今日は紙が多すぎる。
それに。
臭い。
*
舞踏会から、しばらく経った。
今日は、仕立屋が来ていた。
舞踏会で使ったドレスの精算らしい。
応接室の机には、請求書やら見本帳やらが並んでいる。
「こちらが、生地代でございます」
「ええ」
「こちらが仕立て代、それから装飾品が――」
仕立屋が一つずつ説明する。
エレノアは紙を見ている。
リナは、その横に立っている。
俺は窓辺にいた。
ここなら臭いが薄い。
「……これは?」
エレノアの指が止まった。
「はい?」
「この、飾り紐」
仕立屋が紙をのぞき込む。
「ああ。こちらは、途中でお取り替えになったものですね」
エレノアが黙った。
俺は鼻を動かした。
臭い。
やはり、あれか。
「どちらから仕入れたものですの?」
「こちらでございます」
仕立屋が見本帳を開いた。
やめろ。
臭いが強くなった。
俺は立った。
「先生?」
帰る。
「先生、ご同席を」
嫌だ。
窓辺から降りる。
扉へ向かう。
「先生」
後ろから抱き上げられた。
なぜだ。
そのまま机の上へ置かれる。
目の前に見本帳。
臭い。
「こちらの商会から仕入れております」
仕立屋が言った。
エレノアは商会の名を見る。
「……そう」
短く答えた。
俺は見本帳から離れた。
机の端へ行く。
仕立屋が、ちらりと俺を見た。
「…………」
何だ。
また見る。
「…………」
何だ。
額に、少し汗をかいている。
暑いのか。
「では、次に――」
「お、お待ちください」
仕立屋が急に言った。
エレノアが顔を上げる。
「何でしょう」
「その……」
仕立屋が俺を見る。
見るな。
「申し上げておかなければならないことが……」
「?」
「実は……こちらの裏地代なのですが」
何の話だ。
「少々、その……多めに」
エレノアが請求書を見る。
「多め?」
「ほんの少々でございます!」
仕立屋の汗が増えた。
「材料費の変動などもございまして! その、いつもというわけではなく!」
「そうですの」
「決して、公爵家を欺こうなどと――」
「では」
エレノアが紙に何か書いた。
「適正な金額に直してくださいまし」
「……はい」
「リナ」
「はい」
「確認を」
「承知いたしました」
仕立屋が、ほっと息を吐いた。
そして俺を見る。
なぜ見る。
「……さすが、聖獣様」
何がだ。
「すべて、お見通しなのですね……」
知らん。
俺は寝ようとしていただけだ。
*
「それで」
エレノアが話を戻した。
「この商会とは、いつ頃からお取引を?」
「最近でございます」
「最近?」
「はい。こちらのドレスのお仕事をいただいた少し後でございます」
エレノアの指が止まった。
「向こうから?」
「はい」
仕立屋がうなずく。
「公爵家のお仕事をいただいたと、取引先との話の中で申し上げたことがございまして」
「それから?」
「翌週だったかと。先方の方が、店までご挨拶に見えました」
「…………」
「新しい染料や飾り紐を扱っているので、ぜひに、と」
エレノアは何も言わなかった。
リナを見る。
リナも黙っている。
俺は立った。
今度こそ帰る。
「先生」
なぜ分かる。
「こちらへ」
嫌だ。
「先生は、いてくださるだけでよろしいのです」
なら寝る。
俺はその場で丸くなった。
見本帳から、できるだけ離れて。
*
仕立屋が帰ったあとも、紙は残った。
臭い見本帳も残った。
なぜ持って帰らない。
「リナ」
「はい」
「以前、宝石を持ってきた商人のことを覚えていて?」
「はい」
リナが手帳を出した。
またか。
この屋敷の女は、すぐ手帳を出す。
「確か、あの方も」
エレノアが言う。
「同じ商会と取引を始めたばかりだと、おっしゃっていましたわね」
「はい」
リナが手帳をめくる。
「先月から、新しい商会と染料を取引している、と」
紙をめくる。
「公爵家とのお取引が始まった時期は、こちらにございます」
今度は屋敷の記録を見る。
「……こちらのほうが先です」
エレノアが顔を上げた。
「どのくらい?」
「正確には分かりません。ただ、公爵家へ出入りされるようになった後に、その商会とのお取引が始まっています」
「…………」
エレノアが、仕立屋の残した書類を見る。
「仕立屋も」
「はい」
「宝石商も」
「はい」
静かになった。
俺は目を閉じていた。
眠い。
「偶然なら、それでいいのです」
エレノアの声がした。
「はい」
「でも」
少し間があった。
「二度あったことを、一度だったことにはできませんわ」
「はい」
紙の音がする。
リナが何かを書いている。
「記録を残しておいて」
「承知いたしました」
それでいい。
早く、その臭いものを片づけろ。
「先生」
何だ。
「先生は、どう思われます?」
知らん。
「…………」
俺は寝ている。
「先生?」
寝ている。
「…………」
しばらくして。
紙の音がした。
エレノアは、それ以上呼ばなかった。
*
「今のところは、それだけですわね」
「はい」
「商会について、こちらから何かする必要はありません」
「よろしいのですか?」
「ええ」
エレノアが答えた。
「まだ、何も分かっていませんもの」
そうだ。
何も分かっていない。
俺には、あれが臭いということしか分からない。
「ただし」
エレノアが二枚の紙を重ねた。
「忘れないようにしておきましょう」
「はい」
リナが手帳を閉じた。
ようやくか。
「それと」
エレノアが見本帳を見る。
「これは、お返しして」
「すぐに」
よし。
リナが見本帳を持って出ていった。
臭いが遠ざかる。
俺は目を開けた。
鼻を動かす。
……消えた。
やっと寝られる。
*
しばらくして。
部屋には、俺だけになった。
静かだ。
臭くない。
暖かい。
俺は長椅子の真ん中で丸くなった。
扉が開いた。
「先生」
また来た。
エレノアだった。
「終わりましたわ」
そうか。
俺には関係ない。
目を閉じる。
「先生」
何だ。
「ありがとうございました」
俺は目を開けた。
何もしていない。
……いや。
臭いのを、我慢した。
そうだ。
あれは我慢だった。
かなり我慢した。
俺は再び目を閉じた。
礼は、魚で払え。




