最強の猫先生は、見送らない
見送らない
あの男の部屋。
暖炉の前の椅子。
先に取った。
この椅子は、もう俺の椅子だと思う。
あの男は、何も言わない。
何も言わないのは、そういうことだ。
廊下で、足音がした。
戸の前で、止まった。
しばらく、止まっていた。
それから、戸が叩かれた。
「入れ」
エレノアだった。
手に、何も持っていない。
紙も、帳面もない。
前に来たときは、話すことを四つ並べていた。
今日は、一つらしい。
あの男は、机で書き物をしていた。
顔を上げた。
「お父様。お願いがございます」
エレノアは、机の前に立った。
座らなかった。
「殿下とのお約束を、解いていただきたいのです」
ペンが、止まった。
ひと呼吸。
まだ、止まっている。
もうひと呼吸。
薪が、ぱち、と鳴った。
エレノアは、続けた。
「殿下にも、私にも、そのほうがよいと思います」
それだけだった。
理由は、それ以上言わなかった。
手は、体の前で重ねていた。
指は、動かなかった。
あの男は、エレノアを見ていた。
長いこと、見ていた。
俺は、椅子の上で目を開けていた。
寝る時機を、逃した。
「……そうか」
あの男は、それだけ言った。
ペンを置いた。
書きかけの紙を、脇へ寄せた。
引き出しから、新しい紙を一枚出した。
ペンを取った。
書き始めた。
何も聞かなかった。
どうしてか、とも。
いいのか、とも。
エレノアは、しばらく立っていた。
ペンの音だけがしていた。
「……ありがとうございます、お父様」
あの男は、顔を上げなかった。
ペンも、止まらなかった。
エレノアは、頭を下げて出ていった。
あの男は、書き続けた。
一度だけ、ペンの先が俺のほうを向いた。
何か書くのかと思った。
書かなかった。
紙に戻った。
何も聞かなかった。
この男は、そういう男だ。
*
昼過ぎ、廊下で使用人が二人、ひそひそ言っていた。
「旦那様が、朝から宮廷へのお手紙を」
「お嬢様が、何か……」
「しっ」
二人は、俺を見て黙った。
俺は、黙らなかった。
欠伸をした。
二人とも、壁際に下がった。
夜会からこっち、欠伸をするとこうなる。
面倒だ。
*
何日かして、皇太子が来た。
居間に通された。
使用人が、暖炉の前に椅子を一脚置いた。
客の椅子だ。
俺の場所の、すぐ前だ。
皇太子は、そこに座った。
暖炉と俺のあいだに、皇太子の脚がある。
熱が、脚に当たって止まる。
……。
俺は、立った。
少し歩いた。
皇太子の足元の、熱の来るところに座った。
来たのではない。
暖炉が、そこにある。
エレノアが、向かいの椅子に座った。
リナが、茶を運んできた。
皇太子の前と、エレノアの前に置いた。
湯気が立っている。
リナは、壁際に下がった。
手帳は、持っていない。
「父から、お聞きになりましたでしょうか」
「聞いた」
皇太子は、短く言った。
「……分かった」
「ありがとうございます」
しばらく、誰も何も言わなかった。
薪が鳴った。
皇太子は、膝の上で手を組んでいた。
「……すまなかった」
小さな声だった。
何が、とは言わなかった。
エレノアも、聞かなかった。
「いいえ」
それだけだった。
皇太子は、茶碗を取った。
飲んだ。
前は、最後まで飲まなかった茶だ。
今日は、冷める前に飲んだ。
*
皇太子が、足元を見た。
俺を見た。
俺は、皇太子の靴の横で丸くなっていた。
靴は、温まっている。
悪くない。
皇太子の足が、少しだけ動いた。
尻尾に当たった。
動くな。
足は、止まった。
それきり、動かなくなった。
賢い。
皇太子は、しばらく俺を見ていた。
指は、鳴らさなかった。
名前も、呼ばなかった。
「……呼ばなくても、来るのだな」
来たのではない。
暖炉に来ただけだ。
お前が、その前に座った。
エレノアの口の端が、少しだけ上がった。
すぐに、元に戻った。
*
エレノアが立って、暖炉の上へ手を伸ばした。
小さな箱を取った。
前に、石段に置き去りにされた箱だ。
開けていない。
「殿下。こちらを、お返ししようと思っておりました」
皇太子は、箱を見た。
受け取らなかった。
「それは、猫に贈ったものだ」
「……では」
エレノアは、箱を持ったまま、俺を見た。
「先生がお決めに」
皇太子も、俺を見た。
リナも、見た。
俺は、皇太子の靴の横で寝ていた。
光るものは、食えない。
食えないものは、決めない。
「……お決めにならないようですわ」
「……そうだな」
皇太子は、少しだけ息を吐いた。
エレノアは、箱を暖炉の上に戻した。
光るものは、上でいい。
*
皇太子が、立ち上がった。
足元の熱が、また暖炉から来るようになった。
さっきより、熱い。
ちょうどいい。
「では」
「お気をつけて」
皇太子は、戸口へ歩いていった。
振り返らなかった。
俺も、見送らなかった。
寝ていた。
戸が閉まった。
廊下のほうで、使用人の声がした。
「……殿下が、聖獣様のお足元に」
「いえ、聖獣様が、殿下のお足元に」
「お慰めに、なったのね……」
違う。
暖炉だ。
*
夜。
俺は、居間の暖炉の前にいた。
エレノアが、長椅子に座っていた。
膝の上で、手を重ねていた。
戸口に、あの男が立った。
居間をのぞいた。
エレノアを見た。
俺を見た。
何も言わずに、行ってしまった。
今日は、もう言ったらしい。
廊下の奥で、あの男の部屋の戸が閉まった。
まだ、何か書くらしい。
「先生。お父様は、何もお聞きになりませんでしたの」
知っている。
そこにいた。
エレノアは、暖炉の火を見ていた。
口の端が、少しだけ上がっていた。
今日の「そうか」は、長かった。




