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最強の猫先生は、抜けていない

暖炉の前。

 背中から焼く。

 昨日は腹だった。

 順番は、戻った。

 夜会から、何日かたった。

 屋敷は、元の速さで歩いている。

 走っている者は、いない。

 リナが、何か持って近づいてきた。

 板に、細い針がたくさん生えている。

「聖獣様。失礼いたします」

 ブラシ、というらしい。

 背中に当たった。

 上から、下へ。

 ……。

 悪くない。

 もう一度。

 悪くない。

 リナの手が止まった。

 ブラシの針のあいだに、黒と白の毛が詰まっている。

 リナは、それを指でつまんで取った。

 また当てた。

 また詰まった。

 また取った。

「……暖炉の前にいらっしゃると、毛が抜けやすいと申します」

 抜けていない。

 余っているのを、出しているだけだ。

 リナの足元に、毛の山ができていく。

 山が、二つになった。

 リナが、小さな袋を持ってきた。

 山を、袋に入れた。

 袋が、ふくらんだ。

 リナが、手帳を開いた。

「聖獣様、抜け毛。……一袋」

 書くな。

*

 昼前、家令がエレノアのところへ来た。

「お嬢様。門に、また人が」

「また?」

「はい。今日は、少し様子が違いまして」

 エレノアが、窓へ行った。

 俺も行った。

 窓辺は、暖炉の次に暖かい。

 門の外に、人が並んでいた。

 前は、三人だったらしい。

 今日は、数えるのをやめた。

 見に来たのではないらしい。

 手を、合わせている者がいる。

「……何を、お求めですの」

「それが」

 家令は、言いにくそうにした。

「聖獣様の、御毛を。ひとすじでよいから、と」

 毛。

 俺の毛か。

「夜会で、聖獣様が聖女様をお守りになった、と。町では、そういう話になっておりまして」

「……聖女、ではございませんわ」

「はい。存じております」

 家令は、それ以上言わなかった。

「お守りにして、身につけたいのだそうで」

 リナが、さっきの袋を見た。

 エレノアも、見た。

 家令も、見た。

 抜けた毛だ。

 ゴミだ。

 ゴミを、守りにするのか。

 人間は、変なものを欲しがる。

 俺は、窓辺で丸くなった。

 一本、抜けた。

 窓の下に落ちた。

 門の外から、誰かが声を上げた。

 見えるのか。

*

 午後、教会の男が来た。

 三度目だ。

 鞄は、膝の上だ。

 俺は、長椅子の端から鞄を見た。

 鼻を、少し近づけた。

 男が、鞄を少しだけ引いた。

 前と同じだ。

 教会の者は、守りが固い。

 中から、紙の匂いしかしない。

 今日は、魚はないらしい。

「夜会の件は、教会にも届いております」

 男が言った。

「毒を退けられたこと。刃を弾かれたこと」

「先生ですわ」

 エレノアが、すぐに言った。

「祈ったのではございません。先生が、守ってくださいましたの」

「はい。皆、そのように伺っております」

 男は、手帳を開いた。

「聖女様は、ご自身の御業を、すべて聖獣様に帰される、と」

「…………」

 エレノアの口が、少し開いて、閉じた。

 通じていない。

 この屋敷の外の人間は、まだ賢くない。

「聖獣様の正式な認定は、引き続き、保留でございます」

 保留。

 まだ、食えないらしい。

「ただ」

 男が、紙を一枚出した。

「次の聖女選定の儀に、公爵家のご令嬢のお名前が、推薦として上がっております」

「……推薦」

「はい。教会の内からも、外からも」

 エレノアは、紙を見た。

 受け取らなかった。

 男は、紙を卓の上に置いた。

*

「それと」

 男が、手帳の別の頁を開いた。

「門の外の方々の件でございますが」

 毛の話だ。

「聖獣様の御毛を、お分けになるおつもりは」

 リナの手が、袋の口を押さえた。

 エレノアは、袋を見た。

 俺を見た。

 それから、男を見た。

「お分けする量は、こちらで決めます」

 男のペンが、止まった。

 前にも、止まったところだ。

「……量、でございますか」

「ええ」

 ペンが、また動いた。

 今度も、長い。

 俺の毛が、教会の手帳に載った。

 魚の次は、毛だ。

 男は、手帳を閉じた。

 俺を見た。

 しばらく、見ていた。

「……なるほど」

 何が、なるほどだ。

*

 夕方、門の人はいなくなった。

 リナが、袋から毛を少しずつ紙に包んで、家令に渡したらしい。

 一包みに、三本ずつ。

 数えたらしい。

 家令が、手帳に書いていた。

「御毛、三本ずつ。……二十包み」

 この屋敷は、何でも書く。

 届いた手紙の中に、一通だけ字の大きいものがあった。

 コレットからだ。

 リナが、読み上げた。

「町で、クロちゃんの毛がお守りになるって聞きました。私の分は、いりません。クロちゃんに直接、撫でてもらいに行きます」

 撫でられるのは、俺のほうだ。

 あいつは、分かっていない。

 ……いや、分かっている。

 あいつは、手を出さずに待つ。

*

 夜。

 暖炉の前。

 エレノアが、長椅子に座っていた。

 卓の上の推薦の紙は、まだそのままだ。

「先生」

 小さな声だった。

「私、最初は、舞踏会で勝ちたかっただけですのに」

 知っている。

 見返します、と言った日から、知っている。

 あのときは、拳を握っていた。

 エレノアは、紙を見ていた。

 それから、少しだけ笑った。

 声は出さなかった。

 肩だけが、少し揺れた。

「聖女様、ですって」

 違うと言っても、通じない。

 言うのも、もう疲れたらしい。

 それで、笑うことにしたらしい。

 人間は、通じないと笑う。

 リナが、ブラシを持って戻ってきた。

 夜の分らしい。

 背中に当たった。

 上から、下へ。

 悪くない。

 毛は、まだ抜ける。


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