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最強の猫先生は、机の上の物を落とす

朝。

 夜会の次の日の屋敷は、静かだ。

 皿の音がしない。

 椅子を引く音もしない。

 客の声もしない。

 いいことだ。

 朝の魚は、まだだ。

 よくないことだ。

 俺は、あの男の部屋にいた。

 暖炉の前の椅子だ。

 背が高い。

 肘掛けがある。

 座面が深い。

 先に取った。

 この椅子の主は、入ってきて、俺を見た。

 俺も、見た。

 どかん。

 男は、何も言わずに机の前の硬い椅子に座った。

 皇太子も、来ていた。

 立ったままだ。

 座る場所がないらしい。

 この椅子は、やらん。

 エレノアが、机の前に進んだ。

 手のひらに、何か載せている。

「殿下。昨夜、お渡しできなかったものですわ」

 金貨だった。

 光っている。

「前に、リナが受け取ったものです」

 皇太子が、それを受け取った。

 手のひらで、少しだけ重さをはかった。

 燭台の火にかざした。

 机の上に、置いた。

 机の上には、紙の束と、封をした手紙が一通ある。

 手紙の封には、赤い蝋が固まっていた。

 あの男が、引き出しから出して置いたものだ。

「その紋は、こちらのお手紙のお家のものに、よく似ておりますの」

 エレノアが言った。

「ですが、どこかが違うのです。前から、ずっと」

 皇太子が、金貨と手紙を見比べた。

 あの男も、見比べた。

 三人とも、黙った。

*

 金貨が、光っている。

 暖炉の火を拾って、ちらちらする。

 気になる。

 俺は、椅子から机へ跳んだ。

 手紙が、前脚の前にあった。

 邪魔だ。

 押した。

 落ちた。

 金貨が、まだ光っている。

 押した。

 落ちた。

 机の上が、少し広くなった。

「先生……!」

 戸口で、リナが手帳を開いた。

「聖獣様、お手紙と金貨を、机から」

 書くな。

 エレノアが、床にしゃがんだ。

 手紙を拾おうとした。

 手が、止まった。

 床の上で、金貨が表を上にして止まっていた。

 手紙の、赤い蝋の横だった。

 エレノアは、拾わなかった。

 しゃがんだまま、二つを見ていた。

 長いこと、見ていた。

「……逆ですわ」

 小さな声だった。

「向きが。左と右が、逆になっています」

 皇太子が、身をかがめた。

 あの男も、机の向こうから身を乗り出した。

「封蝋は、印を押した跡ですわ。跡に見えるとおりに型を彫れば、打った金貨は逆になります」

 エレノアは、立ち上がった。

「この金貨は、封蝋から写したのですわ。お家の印そのものからでは、ありません」

 皇太子が、金貨を拾い上げた。

「では、あの家は」

「お手紙を受け取った者なら、誰でも写せます」

 エレノアは、それから少し考えた。

「……あの商人の袖にあった紋も、同じ向きでしたわ」

 俺は、落としただけだ。

 光るから。

*

 商会の主人が、連れてこられた。

 夜のうちに、あの男の手の者が呼びに行ったらしい。

 身なりのいい男だ。

 魚の匂いは、しない。

 主人は、何も言わなかった。

 皇太子が何を聞いても、言わなかった。

 エレノアが、前に出た。

「一つだけ、お聞きしますわ」

 主人は、エレノアを見なかった。

「あの品を、あの値で、どうやってお売りになれましたの」

 主人の肩が、少しだけ動いた。

「品が良くて、値が安い。初めて伺ったときから、不思議でしたの」

 答えは、なかった。

 あの男が、机の上の帳面を開いた。

 夜のうちに、商会から押さえてきたものらしい。

 紙の匂いがする。

 例の匂いも、少しする。

 嗅いだことのある匂いだ。

 紙は、食えない。

 あの男は、一枚めくった。

 指で、一行を押さえた。

「出資は、ローデン子爵家」

 それだけ、読んだ。

 一度だけだった。

*

 しばらくして、男が一人、呼ばれて来た。

 皇太子の名で、呼ばれたらしい。

 ローデン子爵、という男だ。

 名簿でも、席次でも、夜会でも、名前だけ呼ばれていた男だ。

 顔を見ても、やはり、何もない男だった。

 男は、部屋に入ると、窓のそばに立った。

 窓の外へ、目をやった。

 窓のそばは、寒い。

 物好きだ。

 誰も、何も言わなかった。

 エレノアが、男の前に立った。

 俺のほうは、見なかった。

 怒った顔も、していなかった。

「子爵様」

 声は、静かだった。

「戦が起きれば、何がお売れになるの」

 男は、答えなかった。

 窓の外を見ていた。

 それから、ゆっくりと、こちらを向いた。

 エレノアではなく。

 皇太子でもなく。

 暖炉の前の椅子を、見た。

 椅子は、空いている。

 俺は、机の上にいる。

 男の目が、机の上まで来た。

「……あの猫は、何なのだ」

 知らん。

 寝かせろ。

 俺は、机の上で丸くなった。

 机は、硬い。

 椅子に戻るのは、面倒だ。

*

「あとは、こちらで預かる」

 皇太子が言った。

 あの男が、うなずいた。

 エレノアは、一歩下がった。

 それ以上、何も言わなかった。

 指が、裾を一度だけつまんで、離した。

 リナは、戸口に立っていた。

 手帳は、開かなかった。

 商会の主人と、何もない男が、連れていかれた。

 皇太子も、出ていった。

 あの男は、机の上の俺を見た。

 何も言わなかった。

 俺のいないところに、紙を広げ始めた。

 賢い。

 この屋敷の者は、だんだん賢くなる。

*

 廊下で、使用人が二人、ひそひそ言っていた。

「聖獣様が、金貨を机からお払いになって」

「それで、お嬢様がお気づきに……」

「お手紙まで、お払いに」

「すべて、見抜いておられたのね」

 違う。

 光るから、落とした。

 手紙は、邪魔だったから落とした。

 それだけだ。

*

 昼。

 俺は、あの男の机の上にいた。

 紙の束は、片づけられた。

 手紙も、ない。

 金貨も、ない。

 前脚を伸ばした。

 何もない。

 落とす物がなくなった。


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