最強の猫先生は、名前を食べない
黒い魚は、下げられた。
あれは、俺の魚だった。
食べていないが。
居間は、まだざわついていた。
袖の長い男は、縄をかけられて、壁際に座らされていた。
「帝国の給仕が、使節様に刃を」
「だが、毒の瓶は公爵家の侍女から」
「どちらの差し金だ」
使節の側も、帝国の側も、相手のほうを見ている。
エレノアが、居間の真ん中に立った。
「裁くのは、私ではございません」
声が、よく通った。
「見たものを、お見せするだけですわ」
*
家令が、紙を持ってきた。
リナが、手帳を開いた。
二人が、同じ頁を読み上げる。
「口入れ屋より、二名」
「口入れ屋より、二名」
同じだ。
家令の紙には、続きがあった。
「……上着、肩が余る」
「その行は、結構ですわ」
家令が、咳払いをした。
並んだ給仕の端の男が、家令に背中を押されて前へ出た。
さっき、震えていた男だ。
「あ、あの人は……今朝、急に店に回されてきた人で……」
声が、まだ震えていた。
「親父さんが、商会の方の頼みだから、と……」
縄の男は、床を見ていた。
エレノアが、その男の前に立った。
「リナの昔のことは、この屋敷でも、知っている者はほとんどおりません」
男は、顔を上げなかった。
「あなたは、どなたからお聞きになりましたの」
答えなかった。
ずっと、答えなかった。
話が長い。
俺の魚は、まだか。
*
「お嬢様」
料理長が、戸口に来ていた。
「裏口に……魚屋の親方が」
魚、と聞こえた。
俺は、立った。
匂いも来た。
泥と水草と、魚。
それだけの匂いだ。
行った。
エレノアとリナも来た。
皇太子の供と、使節の随員が一人ずつ、後ろについてきた。
裏口に、男が立っていた。
籠を抱えている。
手が赤い。
「仕入れ先から、今日はこちらで直に屋敷へ届けておく、と言われまして」
親方は、籠を抱え直した。
「どうにも、胸騒ぎがいたしまして。魚が、ちゃんと届いたかと」
「代わりの方は、親方が腰を痛めた、と」
エレノアが言った。
「腰?」
親方は、腰を曲げた。
伸ばした。
もう一度、深く曲げた。
「……この通りで、ございます」
腰は、いいらしい。
籠も、いいらしい。
俺は、籠の前に座った。
*
「お嬢様。荷馬車が、まだ厩に」
厩番が、走ってきた。
「届けの男は、騒ぎの間に、歩いて逃げまして。荷馬車は、お客様方の馬車に囲まれて、出られなかったようで」
馬車が多すぎて、自分の荷馬車も出せなかったらしい。
どこかで聞いた話だ。
「馬車、多すぎますもんね!」
あの女が、後ろから言った。
いつのまにか、ついてきていた。
厩の前に、荷馬車が一台、取り残されていた。
馬が、こちらを見た。
鼻を鳴らした。
俺は、一歩下がった。
「この子です」
あの女が、馬の鼻先に立った。
「この子、前にも見ました。お昼にも見ましたけど、その前にも」
エレノアが、あの女を見た。
「……いつですの」
「本を探した日です。お屋敷で、粉の袋を運んでいた子です」
厩番が、馬の顔をじっと見た。
「……確かに。あの日の、粉の荷馬車で」
家令が、帳面をめくった。
「その日の粉は……粉屋の、仕入れ先の者が届けております」
親方が、顔を上げた。
「その仕入れ先は、どちらで」
家令が、名を読んだ。
親方の顔が、固まった。
「……私の仕入れ先と、同じ商会でございます」
誰も、何も言わなかった。
馬が、もう一度鼻を鳴らした。
俺は、もう一歩下がった。
馬の顔は、どれも同じだ。
この女には、違うらしい。
*
籠は、厨房へ行った。
俺は、暖炉の前へ戻った。
居間では、エレノアが、見てきたことを短く話していた。
口入れ屋のこと。
親方のこと。
荷馬車のこと。
商会、という言葉が、何度か出た。
エレノアの父が、口を開いた。
「その商会のことは、娘から聞いている」
使節が、父を見た。
「出入りの者に、私の在所を尋ねていたことも。侍女が、町で声をかけられていたことも」
父は、それだけ言った。
皇太子が、リナを見た。
「その手帳に、あなたに声をかけた者のことは、書いてあるか」
「書いておりません」
「なぜだ」
リナは、手帳を両手で持っていた。
少しのあいだ、黙っていた。
「……あの方たちの言葉を、お嬢様のお屋敷の手帳に、一行も入れたくありませんでした」
誰も、何も言わなかった。
薪が、ぱち、と鳴った。
リナは、手帳を閉じなかった。
エレノアは、リナを見なかった。
前を向いていた。
しばらくして、エレノアが言った。
「続きは、殿下と父に」
皇太子が、うなずいた。
父は、何も言わなかった。
使節が、ゆっくりと立ち上がった。
縄の男を見た。
護衛を見た。
それから、エレノアの父に向き直った。
「この屋敷は、我が国の客を守った」
使節の後ろの二人が、剣を鞘に戻した。
今度は、手を離した。
*
夜更け。
客が、一台ずつ帰っていく。
あの女の馬車も、厩の前に回されてきた。
あの女は、乗る前に、馬に一頭ずつ言っていた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「この子も、おやすみなさい」
エレノアが、見送りに出ていた。
暇だ。
俺も行く。
エレノアは、あの女の少し後ろに立っていた。
何か言いかけて、やめた。
もう一度、言いかけた。
「……ありがとう、コレット」
あの女が、振り向いた。
少しだけ、黙っていた。
「……はい!」
それだけだった。
馬車が、出ていった。
今度は、間違えなかった。
コレット、というらしい。
名前は食えない。
……少しだけ、食える。
*
居間に戻ると、暖炉の前に皿があった。
親方の籠の魚が、一匹。
焼いてある。
切っていない。
エレノアが、皿の横にしゃがんだ。
「……今日は、切りませんわ」
食べた。
一匹ぶん、うまい。




