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最強の猫先生は、何もしていない

俺は、まだ皿の縁にいた。

 黒い魚は、食えない。

 分かっている。

 分かっているが、降りる理由もない。

 エレノアは、リナの前に立ったままだった。

 あの女も、いつのまにかリナの隣に来ていた。

 両手を、まだ握っている。

「リナ」

 エレノアが、前を向いたまま言った。

「今日の給仕の名前と、どなたのご紹介か。読み上げて」

「……はい」

 リナが、手帳を開いた。

 指が、少しだけ震えていた。

 声は、震えていなかった。

「臨時の給仕、四名。仕立屋さんの伝手で、二名。お名前は――」

 袖の長い男が、顔を上げた。

*

 並んだ給仕の端で、震えていた男が、一歩さがった。

 袖の長い男の手が、上着の内側に入った。

 出てきたときには、細い刃を握っていた。

 仕立屋の上着だ。

 俺の袖の上着だ。

 そんなものを入れるな。

 男は、壁際から卓へ走った。

 使節のほうへ。

 使節の後ろの二人が、前へ出た。

 一人の剣が、鞘を離れた。

 柄に手を置いたままだった剣だ。

 振りかぶる。

 男の刃と、護衛の剣。

 そのあいだに。

「おやめなさい!」

 エレノアが、踏み込んでいた。

 両腕を、広げていた。

 刃と剣が、こいつに向かってくる。

 ――矛なら、届く。

 刃も、男も、まとめて貫ける。

 剣も、まとめて折れる。

 簡単だ。

 だが。

 男の後ろには、並んだ給仕がいる。

 リナがいる。

 あの女がいる。

 剣の後ろには、使節がいる。

 貫けば、その先まで届く。

 ……違うな。

 俺は、皿の縁を蹴った。

*

 卓から、床へ。

 床から、エレノアの前へ。

「クロ!」

 エレノアの声だった。

 先生、ではなかった。

 雨の音がした。

 低い屋根。

 板の隙間から、水が落ちてくる。

 二つの、小さな手。

「クロ!」

 知らない、子どもの声だった。

 ……知らない、はずだ。

 ……何だ、今のは。

 まあいい。

 今は、猫だ。

 俺は、口を開けた。

「ふぁ〜あ」

*

 何かが、弾けた。

 刃と剣が、同時に、見えない何かに当たった。

 ガンッ、と鳴った。

 男が、後ろへ吹っ飛んだ。

 護衛も、後ろへ吹っ飛んだ。

 男は、並んだ椅子に突っ込んだ。

 護衛は、卓の脚にぶつかった。

 刃が、床を滑っていった。

 剣が、くるくる回って転がった。

 剣は、卓の端で止まった。

 菓子の皿の女の、足元だった。

 扇が、落ちた。

 落としたのは、俺ではない。

 二人とも、動かない。

 居間が、静まり返った。

 俺は、前脚を舐めた。

 欠伸のあとは、こうするものだ。

*

 しばらくして、うめき声がした。

 護衛が、頭を押さえて起き上がった。

 もう一人の護衛に、肩を支えられている。

 自分の空の手を見た。

 それから、俺を見た。

 見るな。

 欠伸をしただけだ。

 男も、椅子のあいだで起き上がった。

 目を、何度もしばたたいた。

 死んでないぞ。

 二人とも伸びていた。

 ……今度は、起きたところまで見た。

 起きた男の目が、まず、どこかへ行った。

 窓側の、三番目の席だ。

 誰を見たのかは知らん。

 すぐに、屋敷の衛兵が男の腕をつかんだ。

 男は、もう暴れなかった。

*

 居間じゅうの目が、エレノアに集まっていた。

 両腕を広げたまま、立っている。

 俺は、その足元で毛づくろいをしている。

「……今、何かに弾かれた」

「お嬢様が、身を挺して……」

「祈られたのよ。両腕を広げて」

「祈りが、通じたのだわ」

 違う。

 欠伸だ。

「……聖女様」

 誰かが、小さく言った。

 それが、卓を一周した。

「聖女様だ」

「公爵家の、聖女様……」

 エレノアが、腕を下ろした。

 ゆっくりと、居間を見回した。

「違いますわ」

 声が、よく通った。

「先生ですわ。先生が、守ってくださいましたの」

 居間が、一瞬だけ静かになった。

 それから、ため息のような声が広がった。

「……なんと、謙虚な」

「ご自分ではなく、聖獣様の御業と」

「さすがは、聖女様」

「先生ですわ」

「ええ、ええ」

「先生ですのよ」

「承知しておりますとも」

 承知していない。

「エレノア様……すごいです……!」

 あの女が、目を潤ませていた。

「先生ですわ」

「はい! クロちゃんも、すごいです!」

 両方、信じたらしい。

 こいつだけは、少し合っている。

 俺は、もう一度欠伸をした。

 さっきより、小さいやつだ。

 使節の随員の一人が、俺を指さした。

「……今、聖獣殿が、欠伸を」

「欠伸ではない」

 隣の随員が、首を振った。

「お祈りのあいだ、お控えになっていたのだ」

「……なるほど」

 なるほどではない。

 欠伸だ。

 壁際で、リナの手が動いていた。

「聖獣様、欠伸。……二回」

 ……それは、合っている。

「お嬢様。……聖女様、と」

 それは、書かなくていい。

 エレノアの父は、座ったまま居間を見ていた。

「……そうか」

 何が、そうか、なのか。

*

 使節が、立ち上がっていた。

 顔が、白かった。

 護衛を見た。

 押さえられた男を見た。

 エレノアを見た。

 最後に、俺を見た。

 俺は、毛づくろいの続きをしていた。

 皇太子は、卓の向こうで立ったままだった。

 何も言わなかった。

 俺を、呼ばなかった。

 リナは、手帳を開いたまま、動かなかった。

 あの女が、リナの手を握っていた。

*

 エレノアが、しゃがんだ。

 俺の前で。

 手が、少しだけ浮いた。

 俺の背中の上で、止まった。

 それから、そっと降りてきた。

 撫でなかった。

 置いただけだ。

「……先生」

 小さな声だった。

 別に、守ったわけではない。

 こいつが倒れたら、魚を切る者がいなくなる。

 ……切られるのも、困るが。

 何もしていない。

 ……欠伸は、した。



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