最強の猫先生は、席に着く
魚の皿が来た。
やっと来た。
給仕が、一人ずつ運んでくる。
客の前には、別の魚。
使節の前にだけ、川の魚が一皿。
「あちらの方は、川の魚を好まれると聞いた」
エレノアの父が、短く言った。
「これは、お心遣いを」
使節の顔が、少しほどけた。
料理長が、戸口で前掛けを握りしめている。
運んでいるのは、袖の長い男だ。
俺の袖を着た男だ。
皿が、使節の前に置かれた。
隣の席は、空いている。
クッションだけが、待っている。
匂いが来た。
暖炉の前まで、まっすぐ来た。
泥と水草。
魚。
例の匂い。
……それと、もう一つ。
鼻の奥が、少しだけ縮む。
……前に、紅茶で嗅いだ。
知らん。
どうでもいい。
臭い。
だが、魚だ。
*
俺は、暖炉の前を離れた。
春まで、ここだと言った。
言ったが、魚だ。
床を走る。
客の椅子の脚のあいだを抜ける。
誰かが、小さく声を上げた。
「クロちゃん!」
「先生!」
知らん。
魚だ。
聖獣様の席に、飛び乗った。
クッションが沈んだ。
席に着いた。
一瞬だけ。
そこから、卓へ。
使節の皿の縁に、前脚をかけた。
使節が、杯を持ったまま固まった。
近くで見ると、もっと臭い。
かまわん。
口を開けた。
……眠い。
席に着いたら、急に眠くなった。
「ふぁ〜あ」
欠伸が出た。
皿の上の魚が、かすかに光った。
黒い煙のようなものが、立ち上った。
パチンッ。
何かが弾ける音がした。
皿のそばの銀の匙が、黒ずんでいた。
俺は、前脚で顔を洗った。
*
居間が、静まり返った。
燭台の火だけが、揺れている。
「……銀が」
外務の役人の一人が、かすれた声で言った。
「銀が黒ずむのは……毒、でございます」
誰も、何も言わなかった。
最初に動いたのは、使節の後ろの二人だった。
剣が、鞘から出た。
すぐに、屋敷の衛兵も抜いた。
皇太子の供も抜いた。
卓をはさんで、刃が向き合った。
使節の側の剣先は、エレノアの父のほうを向いている。
光るものが、急に増えた。
うるさい。
エレノアの父は、座ったままだった。
杯も、置かなかった。
剣先を向けられて、杯を置かない男。
やはり、変な男だ。
皇太子が、立ち上がった。
「帝国の名代として、命じる」
声は、大きくなかった。
「剣を収めよ」
眉は、動かなかった。
帝国の側の刃が、下りた。
使節が、後ろの二人に何か言った。
二人の刃も、ゆっくり下りた。
鞘には、戻らなかった。
手は、柄に置いたままだ。
この男は、呼べば人は来る、と言っていた。
剣も、戻るらしい。
俺は、まだ皿の縁にいた。
魚は、黒くなっている。
*
「……お調べ願いたい」
使節が、硬い声で言った。
「この皿に触れた者を、すべて」
エレノアの父が、うなずいた。
「調べられよ」
給仕たちが、壁際に並ばされた。
白い上着が、並んだ。
端の一人は、震えていた。
袖の長い男は、震えていなかった。
使節の随員が、一人ずつ前に立つ。
袖の長い男が、少し首を傾げた。
「……そういえば、侍女の方が、皿のそばに」
男の目が、壁際のリナへ行った。
居間じゅうの目も、リナへ行った。
随員が、リナの前に立った。
リナは、手帳を胸に抱えていた。
前掛けのポケットに、随員の手が入った。
小さな瓶が出てきた。
燭台の火にかざされた。
中に、少しだけ何か残っている。
リナの顔から、色が抜けた。
「……存じません」
声は、震えていなかった。
前にも、何度か聞いた言葉だ。
袖の長い男が、小さく言った。
「その方は、前にも、お嬢様のお茶に……」
そこで、口を閉じた。
ひそひそ声が、卓を走った。
「お茶に?」
「毒を……?」
「公爵家の侍女が」
*
卓の端で、扇が鳴った。
「まあ」
マルグリットだった。
「何も、驚くことはございませんわ。猫で気が触れた方の家ですもの」
小さな笑いが、いくつか重なりかけた。
重ならなかった。
ベアトリスは、扇を開かなかった。
笑いもしなかった。
菓子の皿の女が、また何か言っている。
皿を落とされたのを、まだ根に持っているらしい。
*
椅子の音がした。
エレノアが、立ち上がっていた。
卓を回って、壁際へ歩いていく。
急がない。
裾も乱れない。
随員とリナのあいだに、立った。
「リナは、私の侍女ですわ」
使節が、エレノアを見た。
「公爵令嬢。その侍女を、庇われるか」
「庇ってはおりません。私の侍女だと、申し上げております」
それだけ言った。
背筋が、まっすぐだった。
辛いときほど、こいつはこうなる。
リナは、手帳を抱えたまま動かなかった。
エレノアの背中を、見ていた。
*
随員たちが、皿と俺を見比べていた。
「……聖獣殿が、毒を見破られた」
「お召し上がりになる前に、お止めくださった」
違う。
食べに来た。
食べ損ねた。
使節が、俺を見下ろしていた。
「……聖獣殿に、命を拾われたか」
拾っていない。
魚を拾いに来ただけだ。
あの女が、エレノアの席のところで立ち尽くしていた。
両手を、胸の前で握っている。
袖の長い男は、並んだ給仕の中で、うつむいていた。
上着の、俺の袖だけが長い。
俺は、皿を見た。
魚が、黒い。
嗅いだ。
もう、魚の匂いもしない。
前脚を、そっと伸ばした。
「先生。それは、お召し上がりにならないで」
エレノアが、壁際から言った。
リナの前に立ったまま。
こちらを見ないで。
……見ていないのに、なぜ分かる。
俺の魚は、どうなった。




