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最強の猫先生は、張り合わない

居間が、人でいっぱいになった。

 話し声がする。

 皿の音がする。

 椅子を引く音がする。

 暖炉の前だけ、静かだ。

 俺がいるからだ。

 卓の上座に、使節が座った。

 右に、エレノアの父。

 左の席は、空いている。

 俺の席、ということになっているらしい。

 使用人が、そこにクッションを置いた。

 置いて、俺を見た。

 俺は、暖炉を見た。

 使用人は、そっと下がった。

 席は、空いたままだ。

 あちらは、火から遠い。

 使節が、空いた席を見た。

 それから、エレノアの父を見た。

「聖獣殿は、お席には」

 父は、暖炉のほうを一度だけ見た。

「……あれは、あそこがいいらしい」

 この男は、分かっている。

 前から、変な男だとは思っていたが。

「なるほど」

 使節は、それ以上聞かなかった。

*

 給仕が、皿を運んでくる。

 白い上着が、卓のあいだを行き来する。

 仕立屋の上着だ。

 一人だけ、袖が少し長い。

 あれは、俺が入った袖だ。

 伸びたらしい。

 俺のせいではない。

 いい袖だった。

 壁際には、リナがいる。

 手帳を持って、給仕に目で合図を送っている。

 皿を出す順番も、下げる順番も、リナが見ているらしい。

 皇太子は、卓の向こう側にいた。

 前より、背筋がまっすぐだ。

 こちらは、見ない。

 それでいい。

 あの女は、エレノアの隣に座っていた。

 匙が、たくさん並んでいる。

 あの女の手が、いちばん端の匙の上で迷った。

 エレノアが、前を向いたまま、指先で一本だけ動かした。

 あの女は、それを取った。

 何も言わなかった。

 エレノアも、何も言わなかった。

 一皿目。

 汁だ。

 俺の前を通る。

 首が、勝手にそちらを向く。

 魚ではない。

 二皿目。

 肉だ。

 首が向く。

 魚ではない。

 使節の後ろの随員が、小さく言った。

「……聖獣殿は、一皿ずつ、お改めに」

 違う。

 魚を待っている。

 三皿目。

 また肉だ。

 人間は、なぜ魚を後にする。

 卓の端で、扇が揺れた。

「……ご覧になって。暖炉の前に」

「本当に、猫ですのね」

 前に、俺が菓子の皿を落とした女の声だ。

 猫だ。

 何が悪い。

 四皿目は、野菜だった。

 首は、向かなかった。

*

 肉の皿が下げられたころ、使節が杯を置いた。

「この国にも、盾と矛の話があると伺いました」

 卓のあちこちで、話し声が止まった。

「我が国にも、ございます。最強の盾と、最強の矛。両者は戦場でぶつかり――」

 使節は、少し間を置いた。

「最後まで立っていたのは、盾であったと伝わっております」

 ヴェルナー伯爵が、笑顔のまま杯を持ち上げた。

「これは、異なことを。帝国では、相打ちと伝わっております。……もっとも、先に届いたのは矛であったと申す者も多うございますが」

「ほう」

 使節も、笑顔だった。

「我が国の盾は、何ものにも貫かれぬ盾でございます」

「帝国の矛は、何ものにも防がれぬ矛でございますな」

 二人とも、笑っている。

 笑っているのに、卓が冷えていく。

 燭台の火まで、小さくなった気がする。

 あの女が、エレノアの隣で小さく言った。

「……どっちでも、いいのに」

「お静かに」

 エレノアが、前を向いたまま言った。

 知らん。

 寝かせろ。

 俺は、暖炉のほうへ向き直った。

 背中に、火が当たる。

 これでいい。

*

「では」

 使節の声が、こちらへ来た。

「噂に名高い聖獣殿に、伺ってみてはいかがか」

 居間じゅうの目が、暖炉の前に集まった。

 背中に、目が当たる。

 火より、うるさい。

「聖獣殿は、どちらが強いとお考えか」

 俺は、半分寝ていた。

 起こされた。

 どっちが強いか、だと。

 盾か。

 矛か。

 そんなもの。

『その時の気分だろにゃ』

 …………。

 今のは、違う。

 勝手に出た。

 こいつに届くのは、いつも余計なことばかりだ。

 居間には、ニャとしか聞こえていない。

「……今、鳴いた」

「お答えに、なったのかしら」

 ひそひそ声が、卓を一周した。

「……今、お答えになったか」

 使節が、エレノアを見た。

 エレノアは、俺を見ていた。

 少しだけ、間があった。

 それから、背筋を伸ばした。

「先生は、その時次第と」

 居間が、静かになった。

 使節が、目を丸くした。

 それから、肩が揺れた。

 声を上げて、笑った。

「その時次第。……その時次第、か」

 使節は、杯を持ち上げた。

「聖獣殿と、その通訳殿に」

 通訳ではない。

 生徒だ。

 エレノアの父の杯が、口の手前で、ひと呼吸ぶん止まった。

 それから、飲んだ。

 ヴェルナー伯爵も、つられて笑った。

 さっきの笑い方ではなかった。

 使節の後ろの、剣を下げた二人だけは、笑わなかった。

 ああいう仕事らしい。

 卓のあちこちで、また話し声が戻ってきた。

 壁際で、リナが手帳を開いていた。

「聖獣様、ご回答。……その時次第」

 書くな。

 燭台の火が、元の大きさに戻った。

 気がする。

*

 随員たちが、顔を寄せ合った。

「盾でも矛でもなく……時を見よ、と」

「さすがは、聖獣殿」

 違う。

 気分だ。

 時など見ていない。

 火を見ている。

「エレノア様、すごいです! クロちゃんの言ってること、分かるんですね」

 あの女が、小声で言った。

「……先生のことですもの」

「その時次第って、どういう意味なんですか?」

「……その時次第、ですわ」

「なるほど!」

 なるほどではない。

 エレノアの口の端が、少しだけ上がっていた。

 噛みました、とは聞かなかった。

 聞くな。

 卓の向こうで、皇太子が杯を少しだけ上げた。

 誰に向けたのかは、知らん。

 エレノアは、気づいたのかどうか。

 前を向いたまま、杯に手を添えた。

*

 給仕たちが、下がっていく。

 袖の長い男も、下がっていった。

 次の皿の支度らしい。

 料理長が、戸口から卓を見ていた。

 手を、前掛けで何度も拭いている。

 拭きすぎだ。

 早く持ってこい。

 厨房のほうから、匂いがする。

 焼いている。

 あれは、魚だ。

 俺は、顔を上げた。

 次は、魚の皿らしい。



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